2006年2月1日(水)

「そんなこと、ぜんぜん聞いてないわ。マレーシアへ行くってことは、つまり南部国境3県を通過してスンガイゴーロック国境(ナラーティワート県)を越えるってことでしょう? 私は絶対にイヤよ。パスポート持って来てないし、リスクがあまりにも高すぎる」

午前零時半、タイ国道41号チュンポーン(チュンポン)パッタルング(パッタルン)線の始点チュンポーン市(チュンポン市)で、「このままマレーシアの首都クアラルンプールまで運転してっちゃおうか?」と思いつきで提案したら、友人は拒否反応を全開にして言った。現在、南部国境3県(タイ深南部)へ行くことは、自殺行為と同義と考えられている。

南部国境3県(タイ深南部)とは、マレーシア国境に隣接しているパッターニー(パタニー)ヤラー(ヤッラー)ナラーティワート(ナラティワート)の3県。この地域に住んでいる住民の特徴は、①アッラーを崇拝し、②イスラーム教を信仰し、③マレー語でコミュニケーションをとっていること。冷戦時代、タイ政府は同化政策(汎タイ民族主義)を打ち出して、①国王を崇拝し、②仏教を信仰し、③タイ語でコミュニケーションをとるよう全国の国民に強要したが、かえって200年来の分離独立運動を激化させる原因となった。

タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)警察中佐の首相就任(2001年)以降、タイ政府はこれまでの宥和政策を転換して、汎タイ民族主義的な強硬策を前面に押し出した。陸軍は2004年4月28日、イスラームモスク「マスユィット・グルーセ」を占拠して立てこもった、ナイフやナタで武装したマレー系住民を虐殺。深南部における分離独立運動が一層激化した。これを受けて2005年5月19日、政府は南部国境3県に非常事態宣言を発令した。

一連の分離独立テロにおける死者は、ついに1,000人を超えた。この数字には、軍警察が射殺した過激派、当局の不手際により護送中に死亡した容疑者、テロリストたちの敵である軍警察の関係者、イスラーム文化の壊乱者としてテロの標的となっている教育関係者、そのた多数の一般市民が含まれている。テレビや新聞で関連するニュースが連日のように伝えられており、「南部で誰かがぶっ殺される」ことはいわば日常茶飯事となっている。

ちなみに、昨年2005年に発生した主なテロは次のとおり。

ナラーティワート県スンガイゴーロックで40人が重軽傷を負った自動車爆弾事件(2月17日)、ナラーティワート県スンガイパーディーで列車が脱線し警察官や鉄道職員など22人が負傷した鉄道爆破事件(3月27日)、ソンクラー県で2人が死亡し、70人が重軽傷を負ったハートヤイ国際空港、商店街、ホテル連続爆破事件(4月3日)、ヤラー県ヤハーで鉄塔が爆破され、路上でメモが添えられた男性の遺体が発見された事件(6月5日)、ナラーティワート県ヂャネで1人が死亡しこの年21人目の殉職教師となった学校長襲撃事件(6月24日)、ナラーティワート県ランゲで2人が死亡した海兵隊員拉致殺害事件(9月21日)、中国人2人が武装集団の襲撃を受け死亡、同日ヤラー県で教師護衛中の警官1人が射殺された事件(9月30日)、パッターニー県で3人が死亡した寺院襲撃仏僧殺害事件(10月16日)

これに対して、タイ政府は南部国境3県に対する経済制裁を実施。各村落をそれぞれレッド、イエロー、グリーンのゾーンに分類し、イスラーム過激派が多数潜伏しているレッドゾーン358村向けの地方開発費交付を停止する検討に入った。

深南部における政情不安と治安の悪化は、完全に泥沼化の様相を呈している。タイ政府は、イスラーム過激派の資金源に打撃を与えることを口実としているが、元来、この分離独立運動の背景には南部住民の貧困に対する不満がある。そこに経済制裁を仕掛けたら、いよいよ収拾がつかなくなるのは目に見えている。ただでさえ、イスラーム世界全域で近年、「イスラームのイスラーム化」という右傾化の気運が高まり、異文化に抵抗する原理主義運動が盛んになっている。

ある社会人類学者によると、イスラームのイスラーム化の背景には、『よりイスラーム的』に生きるよう促す教義が聖典クルアーン(コーラン)にあり、近年の急速な西洋化がムスリム(イスラーム教徒)を過激で反動的な原理主義へと駆り立てているという。

また、南部国境3県と中央政府とのあいだには、歴史的に根深い対立の構図がある。

15世紀中頃、タイ南部のソンクラー県からマレーシア東部のトレンガヌ州までの領域を支配していたヒンドゥー教国「ランカスカ王国」がイスラーム化。17世紀以降には交易で栄えたイスラーム教国「パッターニー王国(パッタニー王国)」が、宗主国の仏教国「スコータイ朝→アユッタヤー朝」に対して度重なる反乱を起こした。これが今日の分離独立運動スピリッツの起源となっている。18世紀に政権内部の闘争でパッターニー王国(パッタニー王国)が弱体化すると、ラッタナゴースィン朝(サヤーム, シャム, サイアム, 現在のタイ)プラプッタヨートファーヂュラーローク大王(ラーマ1世)(1737-1809)の侵攻を受けて滅亡。1882年、スルタン制が廃止されタイに完全併合された。1909年、タイのパッタニー領有がバンコク条約で国際的に承認され、パッタニー州となった。1933年、モントン(州県制)の解体により、現在の行政区分となった。第二次世界大戦中には、陸軍元帥ピブーン・ソンクラーム政権が、愛国主義政策(ラッタニヨム)に則って、国内のイスラーム教徒に対しても仏教信仰を強要し、それが今日に至るまで禍根となった(戦後、この政策は一部修正され穏健なものとなったが、それでも基本的な概念は現在でも大して変わっていない)。1945年、イギリスと同盟していた独立運動の指導者がパッタニー(パッターニー)独立を宣言。しかし、この同盟はイギリスに反故にされ、パッタニー(パッターニー)は引き続きタイに帰属することになった。その後、政府は1970年代までこの地域におけるゲリラを掃討。1980年代からは融和政策に転換して、積極的に開発予算を交付するようになった。

この問題に対する具体的な解決策はない。いろいろと自分なりのアイデアはあるが、この日記に掲載するのは適切ではないと考え割愛する。

午後5時、スクンウィット(スクンビット)13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート(スクンビットスイート)」を出発。午後6時からの40分間、エーガチャイ付近の自動車整備工場でタイヤを交換(2,500バーツ)して車体のバランスを調整(300バーツ)。午後9時、プラーンブリーで夕食をとった。目的地のスラートターニーに到着したのは翌2日午前2時50分。街のはずれにある安ホテル SR (500バーツ)に泊まった。本日の走行距離654kmだった。

1 タイの総人口は6,487万人。そのうちイスラーム教徒は230万人であり、全体の約3.5%を占める。また南部6県におけるイスラーム教徒の人口は183万人(50%)であり、特に深南部でイスラーム教徒の割合が高い。それぞれナラーティワート県で54万人(82%)、パッタニー県で48万人(80%)、ヤラー県で29万人(69%)の順。

2006年2月2日(木)

「スゴイ人混み。まるで外国にいるみたい。タイの春節は先週末で終わってるけど、本場中国人の春節休みって今週末まであるもんね。それにしても、あの部屋・・・・・・本当に出ないかしら。中国人観光客の霊感が強くて、幽霊に気づいて別のホテルに移ったとかだったらどうしよう」

午後8時40分、ソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)のショッピング街で、友人が言った。街中のいたるところに赤い春節の装飾が施され、あちらこちらから中国語が聞こえてくる。黒いナンバープレートの、見たことも聞いたこともないクルマもたくさん走っている。このクルマは、マレーシアが1983年に三菱自動車工業と合弁で設立した国策自動車メーカー「プルトン社」製。なんでもヨーロッパでは知名度が高いという。

ハートヤイ(ハジャイ)は、マレーシア国境「パーダングベーサー(パダンブサール)」の北51キロの地点にあり、マレーシア人に人気の歓楽街として知られている。マレーシア国内のマレー系(65%)は、法律によって生まれながらのイスラーム教徒と定められており、酒を飲んだり豚肉を食べたりすると宗教警察に逮捕されるため、週末になるとハメを外しにクルマで大挙押し寄せるという。タイ南部には中国系タイ人が多く、この時期には各地で大々的な春節の祭典が催されるため、ここハートヤイ(ハジャイ)プーゲット(プーケット)は中国系マレーシア人でいっぱいになる。

市内最高級ホテル Novotel Central Sukhontha Hat Yai(ノボテル・セントラル・スコーター・ハートヤイ) (3,000バーツ)に泊まろうとしたが、電話で問い合わせたところ満室のため断られてしまった。つぎに市内で最高層の Lee Gardens Plaza Hotel(リー・ガーデンズ・プラザ) (1,300バーツ)のフロントで直接かけ合ったが、ここも団体客で満室だった。やむなく、すぐ近くにある The Regency Hotel Hatyai(ザ・リージェンシー・ホテル・ハートヤイ) へと向かった。

The Regency Hotel Hatyai(ザ・リージェンシー・ホテル・ハートヤイ) には1部屋だけ空室があった。客室扉のカードキーが故障しており、入退室のたびに1階フロントの客室係を呼んで開けてもらわなければならない。それに我慢できなくなった中国人がチェックアウトして近所にある別のホテルに移ったため、今さっき空いたばかりという。このような事情を考慮して宿泊料を650バーツにまけてくれたが、この時期、そこそこのホテルに泊まれるだけでもありがたかった。しかし、友人は「絶対に何かあるはず」と勘ぐって、普段は絶対に身に付けないプラクルアングラーング(プラクルアン, 携行仏像, お守り)をクリップで T シャツの襟首にくくりつけていた。

タイ人が異常なまでに幽霊を恐れるのは、一部の日本人たちのあいだで①タイ人が精神的に幼いから、②教養がなく科学的思考ができないからと説明されている。しかし、アホな娼婦(売春婦)ならそうかもしれないが、世間一般のタイ人はもう少しまともな理由で幽霊を怖がっている。

タイ人の95%は「タイ仏教」を信仰している。これは「小乗仏教」もしくは「南方上座部仏教」と呼ばれているもので、日本国内で信仰されている「大乗仏教」とはまったくの別物。日本人的な解釈で「仏教の一派」と考えると思わぬ誤解や錯覚の原因となる。

タイ仏教は、上座部仏教40%に、土着の精霊信仰(サイヤサート)60%をかけ合わせたようなもので、日本人にとっては謎の宗教に変質している。その原因は、①難解な仏教の教義を分かりやすく説明するために奇跡の話が用いられたこと、②僧侶が寺院の建設費用を調達するために「寄進して功徳を積めば『お守り』の仏パワーで願いが叶います」と宣伝したこと、③王権の正統性を主張するために国家が仏教、バラモン教(プラーム)、精霊信仰の良いとこ取りをしことなど。だから、一般市民にとっての仏教とは、単に両親の幸福や恋愛の成就を願ったり、金運 UP の願掛けをするためのツールとされており、教義を正確に理解している人は少ない。仏教徒究極の目標は、誤った執着心おから起こる業の束縛を解放させ、迷いの世界の苦悩から脱することだが、タイ仏教は皮肉にも際限のない人々のエゴによって支えられている。

タイ人の子供は、仏教寺院密着型の地域社会で成長していく。仏教寺院で催されるお祭り(ンガーンワット)へ行き、仏教寺院の隣にある旧仏教寺院立の公立学校へと通い、一時的に出家して親孝行する(親の功徳を高め)ことで成長していく。また、1970年代の愛国主義政策(ラッタニヨム)の名残で、現在でもテレビやラジオなどのマスコミを通じて国王とセットで仏教の偉大さが宣伝されており、価値観のベースとなる精神世界に大きな影響を与えている。

言い換えれば、タイ人は日本人が想像しているような仏教ではなく、いわば宗派横断的な魔術を信仰しているため、幽霊や呪いは日本人以上にリアルな存在と受け止められている。同じホラー映画でも、日本映画「呪怨」が流行り、ハリウッド発のものがウケない理由もそのあたりにある。

午後1時45分、大型スーパー Tesco Lotus(テスコロータス) スラートターニー(スラタニー, スラーターニー)店を出発。午後5時45分にソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)を通過して、マレーシア国境がある「パーダングベーサー(パダンブサール)」入国管理局へと向かった。ところが出国審査係官によると、クルマをマレーシアに乗り入れるためには、国際通行許可証のほかに、マレーシア専用の英語ナンバープレートステッカーが必要で、しかも国境通行許可証(タイ人専用)では出入国できないという。パスポートを持ってきていない友人をここに置いていくわけにもいかないから、ハートヤイ(ハジャイ)へと引き返して今晩のホテルを探した。本日の走行距離は349キロだった。

2006年2月3日(金)

小型ソングテオ(ソンテウ, 貨物車両改造タクシー)を400メートル乗っただけで100バーツ。割高感もあるけど、それがこの島の物価なのよ。イヤなら辛抱強く自分の足で歩くことね。あ、でもこの程度のことで驚いてもらっては困るわ。物価全体が高いから、地価、人件費、家賃、食費の相場もかなり押し上げられている。ホテルもバンコクとは比較にならないほど高いはずよ」

プーゲット県(プーケット県)ガトゥー郡のパートーング(パトン)海岸にある、白人男性が経営している旅行代理店の女性従業員がこう説明してくれた。バンコクの物価も比較的高いが、30バーツのタイ料理「グワイヂャップ」が40バーツで売られている。バンコクなら行列ができる有名店しかつけられない超強気な値段。

パートーング(パトン)海岸は2006年12月26日、スマトラ沖大地震とインド洋大津波で壊滅的な被害を受けた。県内のホテルはどこも赤字必至のバカ安料金で観光客を呼び戻すためのプロモーション活動を行っていたが、復興作業が急ピッチで進められ、いまでは以前の賑わいを完全に取り戻している。宿泊料金の相場も被災前より高い。

午前10時半にソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)を出発し、昼食をとるためにパッタルング(パッタルン)市内を30分かけてくまなく探したがバンコク人に耐えられるような食堂が一件もなく、市街地の西約5キロにある食堂で昼食をとった。午後4時10分、きょうの目的地だったグラビー県にあるビーチリゾート「アーオナング」に到着したが、想像以上に寂れていたため、プーゲット島(プーケット島)へと向かった。パートーング(パトン)海岸のホテル「ディーワーナー」(3,300バーツ)に宿泊。本日の走行距離は453キロだった。

2006年2月4日(土)

タックスィン(タクシン)のサービスをバカンス先のリゾートホテルでも使わなきゃいけないなんて、なかなか皮肉でイイんじゃない? アイツは、国民に『国益のためにタイ製品をつかいましょう』と呼びかけておきながら、権益を私物化して親族や在外中国人たちに分配してるだけの売国奴。商法を犯して、タイの巨大企業をシンガポール企業に売却して、しかも納税の義務を無視して、それで得た巨額の資金を一切国庫に納めない。この国の首相には、国家の富を独占して、納税の義務を免れ、国を売る権利まであるというの!? で、わたしたちはタックスィン(タクシン)が中国人を接待するために建てた新築リゾートホテルに泊まっていると。なかなかオシャレよね」

午後4時半、プーゲット(プーケット)パートーング海岸(パトンビーチ)のホテル「プーゲットクレースランド」から、窓の外に広がる青い海を眺めながら友人が言った。首相の友人たちが喜びそうな中国語で溢れかえっている宮殿のようなホテルで聞くと、亡国の行く末を案じながらも手の講じようもない一般市民の歯痒さを感じる。

友人は、この部屋の豪華な内装を気に入っていたが、嫌悪感を露骨に表していた。テレビの電源を入れると、そこには日刊紙「プーヂャッガーン」の社主ソンティ・リムトーングンを指導者とする、首相退陣要求(救国運動)デモの様子が生中継されていた。

今朝、タイ首相タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)警察中佐に愛想を尽かせた都市部の住民およそ50,000人が旧国会議事堂前のサナームマー広場に集結。1992年2月17日に当時の軍事政権(国家治安維持評議会→サマッキータム党=団結行動党)に対して行われたデモ(大量虐殺事件「プルッサパータミン(5月の流血事件)」)以来約13年ぶりの規模となった。人々は額に「グーチャート」(救国)と書かれた黄色いはちまきを巻いて、国王への忠誠の象徴である巨大なタイ国旗と黄色のソングプラヂャルーン旗(国王旗)を大きく左右に振り、「タックスィン(タクシン)は退陣せよ」とシュプレヒコールを上げている。テレビに出演したバンコク都知事アピラック・ゴーサヨーティン(プラチャーティパット党(民主党))は、「この集会は平和裏におこなわれる」と話した。

タックスィン政権(タクシン政権)は、「ばらまき政治」によって地方の貧困層から絶大な支持を受けている。支持率は比較的貧しい北部と東北部(イーサーン地方)で高く、比較的裕福なバンコクから南部で極端に低い。2001年の首相就任以降、貧困農民に医療の道を開いた30バーツ医療(ただし薬品代は含まれない)をはじめ、貧困農村地帯に特産品を作らせる「一村一品運動」(でも在庫がだぶついている)など、貧困農民に夢を与える政策を次々と実行に移してきた。また、地方出身の出稼ぎ者に対しては、タクシープレゼントやバイクプレゼントなど、特定の職種に就いている人々の支持を得るために多額の予算と時間とを費やしている。さらに、選挙区がある人口25万人の小都市チアングマイ(チェンマイ)に、地下鉄網を敷設することを計画しているという。これらの集票政策は、露骨な政治ショーとして、都市部の比較的教育レベルの高い住民から、とことん嫌われている。市民をバカにした政治にも限度がある。

午後、タックスィン首相(タクシン首相)が事実上所有している財閥の新築ホテル「プーゲットグレースランド」(8,800バーツのところ3,300バーツ)に移り、セントラル百貨店プーゲット店へ3度も行くなど、比較的ゆったりと過ごした。

2006年2月5日(日)

ピーピー島(ピピ島)の復興再開発はほとんど進んでないようね。それだけ海岸もキレイでいいけど」

午後12時半、マレー半島とプーゲット島(プーケット島)の中間地点に浮かぶピーピードン島(ピピドン島)に再建されたリゾートホテル Holiday Inn Resort Laem Tong Beach(ホリデーインリゾートレームトーングビーチ) で友人が言った。友人にとって今回はおよそ1年ぶりの訪問。一昨年末のインド洋大津波では、島の両岸から高さ10メートルの津波に襲われ壊滅状態になったという。

アンダーマン海(アンダマン海)のエメラルドグリーンとマリンブルーが織りなすグラデーションはとてもキレイ。シュノーケリングをすると、ゴーグルに付いている手垢が気になるほど。透明度がこれだけ高ければ、海水のベタベタを忘れて思いっきり楽しめる。黄色、白、黒の縞模様をしている熱帯魚と一緒に泳ぐのはロマンがあっていいが、その群れが自分から離れてくれないと少しだけ怖くなる。パッタヤー海岸(パタヤ海岸)バーングセーン海岸(バンセン海岸)のように、海水に浸かると汚れるようなイメージがないのはウレシイ。

朝、旅行代理店が用意したツアー(ひとり1,400バーツ)で、カイ島、ヒングラーング島、ピーピードン島、ピーピーレ島(ヴァイキング洞窟)を見物した。波が高く、スピードボートでは船酔いに苦しんだ。フラフラになってホテルに戻り、夕食もとらないまま午後8時には就寝した。

2006年2月6日(月)

「はじめて来たけど、想像以上に栄えててイイカンジじゃない? 観光産業だけに依存してる街って言ったらそれまでだけど、ちゃんと Lotus(Tesco Lotus, テスコロータス) もあるし、田舎の県庁所在都市なんかに比べたらよほどまともよ」

午後7時10分、タイで3番目に大きい島、サムイ島のチャウェーング海岸(チャウェンビーチ)沿いの通りには、メータータクシー(スラートターニー県(スラタニー県)ナンバー, 黄色と赤茶色のツートンカラー)が頻繁に行き交っていた。西洋料理店の白人オーナーが、道行く観光客に手当たり次第「まあ、これを食べてみてくれ」と声を掛けている。メイン通りが狭いため、タイ国内のほかのリゾート地より寂れているイメージだが、いちおう観光地らしい陽気さはある。

今回は予定を立てずに自由気ままな旅を楽しんでいる。もちろん今晩のホテルも決めておらず、旅行代理店でホテルを選ぶつもりだった。しかし、偶然見つけた旅行代理店の女性従業員は、ホテルの空室状況をまったく知らず、ホテルの位置さえまともに説明できなかった。もしや、白人経営のこの女性従業員、娼婦(売春婦)あがりの阿呆ではないか・・・・・・と思い、ちょうど同じ不安を感じていた友人と目を合わせた。

旅行代理店の従業員に「ここしか空いてない」と言われて向かったホテル Sea Cape Beach Resort(シーケープビーチリゾート) (3,500バーツ)は、予想以上にひどかった。今月1日にスラートターニー県(スラタニー県)で泊まった安ホテル SR (500バーツ)にも劣る。唯一の救いは幅40mのプライベートビーチがあることくらい。

午後10時半、リゾートホテル「プーゲットグレースランド」をチェックアウト。セントラル百貨店プーゲット店(プーケット店)の薬局で液体状の胃薬を買った。きのうの船酔いを治すために運転しながら胃薬を飲んでいると、次第に視界がハッキリしなくなった。クルマを田舎道の路肩に駐めてクスリの成分に目を通すと、なんと「アルコール9.5%」と書いてあった。すでに750ccのうち半分飲んでいたが、こんなところで休憩するわけにもいかず、そのまま目的地のスラートターニー(スラタニー)へとクルマを走らせた。途中で気が変わり、スラートターニー(スラタニー)の東およそ74キロにある船着場「ドーンサック」から、フェリー(乗用車325バーツ、同乗者110バーツ)でサムイ島へと向かった。本日の走行距離268キロ。

2006年2月7日(火)

「所詮、タイ湾の海なんてこんなもんよ。去年、プーゲット(プーケット)へ友達6人と行ったあとに、チャーング島(チャン島)に行ったときも、『アンダーマン海最強』って思ったし。こんな汚い海、興味ないから、さっさとバンコクに帰りましょう」

午前9時半、サムイ島チャウェーング海岸(チャウェンビーチ)にあるホテル Sea Cape Beach Resort(シーケープビーチリゾート) の食堂で、目前に広がるビーチの「美しくなさ」にすっかり意気消沈していた。それでも日本の海に比べれば十分キレイだが、なによりも朝食ビュッフェの不味さに心底ウンザリしていた。今日はサムイ島の北にあるパンガー島で一泊する予定だったが、そんなことなんかどうでも良くなっていた。しかも、友人が会社の同僚を買収して肩代わりさせていた仕事も限界に達していたため、早々にバンコクへ引き揚げることにした。

午後1時、サムイ島からフェリーでマレー半島へと向かった。午後2時40分、スラートターニー県(スラタニー県)東部にあるドーンサック港(ドンサック港)に到着。休憩なしで運転を続け、午後10時40分にチャルームマハーナコーン自動車道タールア出口(クローングトゥーイ港出口)を出た。スクンウィット(スクンビット)19にあるグワイッティアオ(クイッティオ)屋台で夜食を買って帰宅した。本日の走行距離728km。

2006年2月8日(水)

特に何もない一日。夕方頃、大型スーパー Big-C(ビッグシー) ンガームウォングワーン店で友人と夕食をとり、本屋で地図2冊と警察官採用試験の問題集を買った。

2006年2月9日(木)

これまで撮りためてきた写真を CD-R に焼こうとしたら、 C ドライブの空き容量が500Mしかないことに気づいた。 D ドライブを C ドライブに編入して、 C ドライブの容量を増やそうと VAIO のリカバリプログラムを起動したが、「 C ドライブに空き容量のすべてを割り当てる」というオプションがなく、やむなく Windows 98 のタイ語版 CD-ROM を引っ張り出した。その後、 Windows XP を再セットアップした。

2006年2月10日(金)

Windows 再セットアップ後、 LAN 接続の外付ハードディスクに接続できず、データの復元に思いのほか時間がかかった。単に Windows を再セットアップするだけでは芸がないから、画面を MAC 風に改造した。なかなか格好良くなった。

2006年2月11日(土)

「わたしも2ちゃんねるでいろいろな誹謗中傷を受けましたが、仕事上の不利益は意外にも全くないんですよ。実際、誹謗中傷の内容は飛躍しすぎていますし、仕事をしている人はみんな2ちゃんねるなんか見ないので、とうぜん取引先の担当者は知りませんし、わたし自身どんな悪口が書かれているかあまり知らないんです。ところで、あなたの悪口を書いてる人、いったいどこの誰か分かってるんですか?」

午後10時15分、スクンウィット(スクンビット)33にある居酒屋「田舎っぺ」で、匿名掲示板群「2ちゃんねる」の麻薬売買春関連掲示板「危ない海外」で誹謗中傷を受けている性風俗雑誌の発行人を友人に紹介してもらった。この日本人によると、掲示板に書き込んでいるのは娼婦(売春婦)と同棲しているバンコク在住の日本人男性(失業中)で、投稿者は7人の同志が書き込んでいると書き込んでいるが、実際は1~2人とみられるという。そもそも、投稿者のメールアドレスすら分からないのに、どうやって協力者を募って連携するんだろうか?

その後、スティサーンウィニッヂャイ通り(スティサン通り)で、現在では廃墟になっている性風俗発祥の地や、辺鄙なホテルの一室で娼婦(売春婦)に強く当たった日本人が殺された話とともに、バンコクにおける性風俗の歴史について教えてもらった。タイ人労働者向けのヘボいカラオケスナックで、田舎音楽「ルークトゥン」を聞きながらビール数本を飲み、スクンウィット(スクンビット)15にある娼婦(売春婦)が集まる屋台街とエーガマイ通り(エカマイ通り)の屋台で空が明るくなるまで飲んだ。

その雑誌編集者は「私の写真を日記に掲載してもらっても構わない」と言っていたが、何らかの不利益が生じたときに責任がとれないので、人物の入っていない写真を掲載した。なお、彼は2ちゃんねるで言われているようなロクデナシではなく、常識をわきまえた親切で誠実な人物だった。

2006年2月12日(日)

「想像してたより怖くなかったけど、今になって疲れがどっと出てきた。これが自粛ヴァージョンじゃなかったら、わたし本当に耐えられなかったかも」

午後11時40分、スラウォング通り(スリウォン通り)にある Go Go Boys(ゴーゴーボーイズ) 街「ドゥワンタウィープラザ」前は店の呼び込みたちで溢れかえっていた。友人は、 The Boys のショーの「サディスト」と呼ばれる暴力シーンが続くパートがいちばん堪えたと話していた。

The Boys のショーは、 午後10時半と午前零時の2回公演で、ダンス → 観客参加型ショー → ゲイ → ダンス の4部構成。

一連のショーは、まともなインド式の古典舞踊から始まる。大学のダンスサークル並みに訓練されており、なかなかに見応えがある。タイ舞踊を知らないと、王室に保護されているタイの古典舞踊「ラーマギアン物語(ラマキエン物語)」との区別がつかないかもしれないが、友人によると「そんなのを Go Go Boys なんかで演じてしまったら、市民団体からタイの伝統文化を貶めたと抗議されて閉鎖を余儀なくされる」という。

しかし、身体に蛍光塗料の絵が描かれているオトコたちが上半身裸ダンスを始めると、徐々に幻想的(?)な非日常の世界へと誘われる。つづいて、観客参加型のショーの数々によって、ゲイワールドへの抵抗感が徐々に麻痺していく。ハードゲイ系の衣装をまとったフレンドリーな大男が火のついた棒を振り回して、身体にアルコールを塗って火をつけたり、口から火を吐くなどの芸を見せてくれる。そして、自分の股間に火をつけて客にタバコの火をつけさせるところから、ようやく性風俗施設らしい一面があらわれる。もちろん、このとき指名された男性客は、自分の顔を男の股間数センチのところまで接近させなければならない。点火に失敗させられると、今度はケツに点けた火でタバコを点けるように要求される。こんな臭そうなことをやらされては堪らないから、目が合わないように視線を宙に泳がせ続けた。ハードゲイ系の男が退場すると、究極に不細工なオカマ婦人が登場する。幼稚園児のようなお馬鹿な衣装を着た男たちが不細工オカマ婦人にちょっかいを出しているのを見ていると、次第に常識的な観念が破壊されていく。このとき、友人は「まだあまり怖くない」と話していた。肝試し気分で見ているんだろうか。

ゲイの皆さんにとっては、ここからが最大の見どころ。不細工オカマ婦人とその仲間たちが舞台を去ると、それまでホノボノとしていた音楽が突如戦闘シーンのような音楽に変わり、客席の後方から叫び声があがる。これが「サディスト」と呼ばれるパートで、スーツ姿の男が鞭を振り回しているハードゲイ系の男ふたりに引きずられながら舞台へと上がる。あらかじめ仕掛けが施されているスーツが引きちぎられ、下に着ているハードゲイ系の衣装が露出。そこからは、もう互いに責めては入れる(真似)の繰り返し。友人は目の前約3メートルで延々と繰り広げられる暴力シーンにひどく怖がっている様子だったが、こんなところでホラー映画を見に来た典型的な女の子よろしく腕をグッとつかまれてしまったら、この店の本来の客であるゲイの男たちが困ってしまう。

その後、シャワーを浴びながら男性ふたりが絡み合うシーンが続き、古典舞踊でクールダウンさせてショーの幕が降りる。

昨年12月17日の晩に Go Go Bar(ゴーゴーバー) へ日本人の友人たちと行って以来、連れて行って欲しいとずっと友人から言われ続けてきた。でも、さすがに男女ふたりで「ゲイの楽園」に足を踏み入れるのも躊躇われる。そこで、今晩、 Go Go Bar(ゴーゴーバー) へ日本人男女5人で繰り出すとの知らせを受けて友人を連れて行った。

「もし下半身丸出しの本番を見せつけられたら精神的に堪えすぎる。あの晩、あなたがグッタリしてた理由が分かったような気がする」

年明け以降の政情不安の煽りを受けて警察の取締が強化され、現在、下半身丸出しの本番は自粛されている。つぎは Go Go Bar(ゴーゴーバー) へ連れて行って欲しいと言っていたが、さすがに世間一般の女性と入るのもなんだろうと思って断った。

世間一般のバンコク人女性は、自分たちが住んでいる街の暗部にあまりにも無知で無頓着。仕事関係の書類を受け取るために午後11時半、 Westin Grande Sukhumvit (ウエスティングランデスクンウィット) 前で待ち合わせをしてしまうような友人にとって、今回の体験は非常に新鮮で興味深いものだったはず。その後、友人がそこを待ち合わせ場所として使うことはなくなった。

2006年2月13日(月)

「これまでテレビドラマにハマることはあまりなかったけど、せっかく15話まで見たんだからクライマックスも見ないと損よね?」

午後8時半、スクンウィットスイート(スクンビットスイート)199号室の自室で友人がそう言った。ここのところ、3チャンネルのテレビドラマ「ナーングバープ」(悪行婦人, 全17話)が友人たちのあいだで流行っている。

この物語の発端は、テレビドラマ制作会社のウィッサヌが「悪行婦人」の伝承を取り上げたことに始まる。伝承によると、プラワナーテープとクンガムライの夫妻が19世紀、奴隷を引き連れてここへやってきた。ところが、その美貌をもって主人プラワナーテープの愛人にまで上り詰めた奴隷のナーングヤートが、本妻になることを企てて本妻のクンガムライとその子を毒殺してしまったという(その後、絞首刑になった)。ウィッサヌは、主人公にタナット、ヒロインにパーピモンを起用して、パックトラーが悪女役、パーンが脇役と決まった。

ドラマ「ナーングバープ」の発表日、ウィッサヌは自分の片腕であるルアングリンを役者たちに紹介した。ルアングリンは役者たちとの協力関係を築いたが、パーピモンは男性俳優の関心がルアングリンひとりに向けられていることに腹を立てていた。ルアングリンは、撮影準備のために撮影クルーたちと「悪行婦人の村」に行ったときに、誰かに見られているような不思議な視線を感じた。そこで、その家に宿っているナーングヤートとナーンヨットの二姉妹の亡霊から、過去にこの家で起こった出来事の裏の事情を知らされた。

悪行婦人の村での撮影が始まると、大雨や洪水の影響でしばしば中断を余儀なくされた。パーピモンは広報担当のウィサーを誘って、暇潰しのために、家の守護霊を召還せずに「幽霊のコップすくい」をしていた。そのときコップが突如粉々に砕けて、アングリンの身にナーングヨットの霊が、パックトラーの身にナーングヤートの霊が取り憑いてしまった。ルアングリンに取り憑いたナーングヨットは現世の人々に強い興味を抱き、パックトラーに取り憑いたナーングヤートはクンガムライがパーピモンを恐れていることを知ってパーピモンに許しを請うた。そのころ、パーンはパックトラーが撮影用の奴隷の衣装を着たまま水浴びをしている姿を見て、それをウィッサヌに知らせた。ウィッサヌは、ナーングヤートからナーングヨットに気をつけるようにと忠告を受け、ルアングリンにプラクルアング(携帯仏像, お守り)を付けさせたが、ウィッサヌに好意を抱いているウィサーによって毎回のように取り上げられた。そのことで、ウィッサヌとウィサーは激しく言い合った。

ウィサーは激高してクルマを運転したが、道から外れて水没し、自らも溺れてしまった。ウィサー救出に向かったウィッサヌは、水位が下がったところで大僧正に会い、ナーングヤートを成仏させるためには精神を統一する必要があると言われ、そこで自分の前世が多くの妻を囲っていた浮気者のプラワナーテープであること、パーピモンの前世がナーングヨットとナーングヤートによって苦しめられたクンガムライであること、ナーングヨットのクンガムライとその子供達を毒殺するという企てに純朴だったナーングヤートがハメられて殺されたこと、すべての事情を知った母親ユアンによってナーングヨットが刺し殺されたこと、ナーングヨットが呪われてこの家に封印されたことを知った。

ウィサーに取り憑いていたナーングヨットは、撮影クルーのあいだに争いごとを起こそうと企てた。タナットがルアングリンに好意を抱いていることを知ると、ルアングリンに不満を抱いているパーピモンを扇動した。ところが、ルアングリンはいつもパーンに助けられていたため、パーンに全幅の信頼を寄せるようになり、その後の企てすべてが無意味になってしまった。ナーングヨットは、ルアングリンを深夜の水辺に誘い出して水中にたたき落としたが、そのとき首につけていたプラクルアング(携帯仏像, お守り)が外れてしまった。

ウィッサヌは、ナーングヤートを救い出すために、ルアングリンに取り憑いているナーングヤートを召還し、パーピモン、パーン、ルアングリンと「幽霊のコップすくい」を行った。ところが、成仏させられることを恐れたウィサーに取り憑いているナーングヨットは、タナットを激高させようと企てたが、叩かれて意識を失い病院へと運ばれた。見舞いに来た母親のユッパディーは、ナーングヨットの母親ユアンの生まれ変わりだった。ユッパディーはウィサーを見て涙を流し、その涙がこぼれ落ちると同時にナーングヨットは呪われて再びこの家に封印されてしまった。そして、パーンとルアングリンが交際を始めると、とうとうこの伝承を修正できなくなってしまった。

この作品は、タイ人が信仰している「タイ仏教」の呪いや憑依という概念に、愛国心をかき立てる歴史的文化観や、ミーハーな若者向けに恋愛という要素を織り交ぜたものとして興味深い。非常にゴチャゴチャしていて上手く説明できないが、まあだいたいこんなカンジのストーリー。

昼すぎ、スィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋へ友人と出かけ、帰宅後に別の友人とテレビドラマを観た。ちなみに、現在放映中のドラマでは、「レディーマハーチョン」(大衆女性, 金土日20:30)や、「ペントー」(優位, 木22:30)なども人気。

2006年2月14日(火)

今日バレンタインデーは、タイでは女性が男性にコクるのは(建前上)はしたない行為とされているため、男性が女性にバラの花を渡して愛を告白する。

昼頃、サヤーム駅(サイアム駅)前にあるサヤームパラゴン(サイアムパラゴン)で友人と昼食をとってから花屋へ行くと、タイ首相タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)警察中佐の長男が1本399バーツの「義理バラ」を大量に買い込んでいた。399バーツのバラは子供用と友人に言われ、自分も適当にバラの花束を荷作ろうとしたが、当日の注文は受けてないと店員に断られた。伊勢丹1階の花屋でバレンタイン用のバラの花束を買った。1,300バーツだった。

報道によると、バンコク都が都内のホテルに「18歳未満の男女を宿泊させてはならない」との異例の通達を出したという。その後、スィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋で作業をしてから、スクンウィット(スクンビット)39にある日本料理ベースの多国籍料理屋で別の友人と夕食を取った。バラを手にした友人はホクホク顔だった。

2006年2月15日(水)

「オレは鉄道技師としてパーダーングベーサー国境(パダンブサール国境)(マレーシア国境)に2年間赴任していたが、当時の仕事ぶりを振り返ると、まさに『酒を飲むのを生業としている』といったカンジだった。飲み会のメンツは、俺たち鉄道局の同僚、タイ入国係官、マレーシア入国係官。マレーシアではイスラーム教徒の飲酒は刑事罰の対象になると言われているが、案外ヤツらだってメチャメチャ飲みまくってたぜ。それに袖の下だって、タイよりも断然融通が利くし」

午後10時半、スクンウィット(スクンビット)53にある格安居酒屋「いもや」で、運輸省鉄道局の4級文官(武官の中尉相当)の友人がソンクラー勤務時代に見聞きしたマレーシア事情を事細かに説明してくれた。途中、マレーシア側に出稼ぎに出ている友人たちから、不法滞在で捕まってしまったと連絡があった。高等専門学校後期課程(ポーウォーソー)卒の27歳で、月給9,400バーツ。官吏の昇給率が低いのは有名だが、これではバンコクで生活していくのもままならない。都内の民間企業に勤めていれば18,000-25,000バーツはもらっていてもおかしくない年齢。法科大学院に通っている友人は「27歳なら、最低でも12,000バーツはもらってないと話にならない」と話していた。今回の飲み代(計1,700バーツ)は、僕たち3人(国立大学院生1+国立法科大学院生1+私立大学生1)で支払った。

午前10時半、サヤームパラゴン(サイアムパラゴン)前で友人と合流し、バンコクからおよそ500キロ離れた某所へ行き(友人の依頼で公開できない)、フワチアオチャルームプラギアット大学に寄った。午後9時、スクンウィット(スクンビット)53にある格安居酒屋「いもや」で別の友人たち3人と飲んだ。日本人ばかりのこの店で、オトコたちの議論をガンガン戦わせるのも珍しい。どうせ日本人の客に聞かれても理解できないのをいいことに、言いたい放題ぶちかましまくった。まるで東京の通勤電車で暗号会話をしてるかのような爽快な気分。その後、狭い友人の部屋で安ウイスキーを飲んだ。

なお、フワチアオチャルームプラギアット大学の詳細はつぎのとおり。

มหาวิทยาลัยหัวเฉียวเฉลิมพระเกียรติ (มจก.)
  マハーウィッタヤーライ・フワチアオチャルームプラギアット (モーヂョーゴー
種別 下位私立大学
設立年 2484年 (西暦1941年、前身は産科保健学校→フワチアオ准大学)
所在地 サムットプラーガーン県バーングプリー郡(バーングナー・トラート通り18/18)
設置学部 経営学部・文学部・薬学部・物理学部・保健環境学部・理工学部・漢方医療学部・医療技術学部・法学部・社会福祉学部・大学院・看護学部
標準学費 約22,750-42,400バーツ/学期
公式Wweb http://www.hcu.ac.th/
入試難易度 人文科学 19位 (文学部英語学科・正答率34%)
経営学 みなし22位 (経営学部会計学科・正答率36%、倍率1倍未満)
法学 情報なし
医学
工学
キャンパス 建築物 90点(教室棟の作りが簡素だが、その他の設備や庭園は整然と配置されている)
学生街 0点(セントラル・バーングナー店まで行く必要がある)
オシャレ 20点(一部に例外はいるものの、非常に無頓着な田舎っぽさが目立つ)
ボディコン 30点(一部に例外はいるものの、非常に無到着な田舎っぽさが目立つ)
歴史 2484年 産科保健学校(パドゥングカンアナーマイ学校)、フワチアオ学校が産科・看護科を目的として設立
2525年 ポーテックトゥング財団理事会が第4期国家経済社会開発計画を受け、フワチアオ准大学に拡張
2533年 国王・王妃両陛下からポーテックトゥン財団設立80年を記念して、「フワチアオチャルームプラギアット大学」の名称を下賜され、大学に昇格する

2006年2月16日(木)

「日本のアダルトビデオに出てくる男優たち、