2005年3月1日(火)

午前6時10分、明日発表のプレゼンテーションの資料を作り終えてスィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋から外に出てみると、すでに空が薄明るくなっていた。

ついさっきまでスィーロム通り(シーロム通り)の歩道を埋め尽くしていた土産物屋台の姿はすでになく、あたりに散乱していたビニール袋やタバコの吸殻などもきれいに片付けられていた。友人によると、毎晩午前3時半からの約1時間、バーングラック(バーンラック)区から委託されている業者が歩道を掃除するという。

バンコクの都市交通システムは日の出前から動き出す。郊外の住宅地から普通バス(冷房なし, 4バーツ)でやってくる労働者たちは、夜明けのうちに家を出ることで通勤時間帯の大渋滞にハマって排気ガスまみれになるのを避ける。高架電車 BTS の運行は午前6時から。

これまで早朝に出歩くことがなかったため、見るものすべてが新鮮で目新しかった。スィーロム通り(シーロム通り)からタクシーで北上してペッブリー通り(ペブリ通り)へ入ると、市場の前に人だかりができていた。山吹色の袈裟をまとっている仏僧が人々から寄進物を受け取り、普段着姿の荷物持ちの男に次々と渡していった。

連日連夜のペーパー(小論文)作業はまさに苦行そのものだが、ココロが少しだけ洗われたような気がした。風情があって、なかなかいいじゃないか。

2005年3月2日(水)

午前2時すぎ、僕たちパソコンクラブ4人組は、スィーロム通り(シーロム通り)にある珈琲屋 Bug and Bee(バグアンドビー) でそれぞれ思い思いの作業をしていた。

ペーパー(小論文)提出日を明後日に控え、僕はいつになく苛立っていた。このままではどう頑張っても絶対に間に合わない。苦肉の策としてキーワードとなる語句を日本語論文からリストアップしていたところ、思ったような成果が得られずついに堪忍袋の緒が切れた。

タイ語を学び始めてまだ間もなかった頃、僕はタイ関連の専門書にあるカタカナ表記を見るたびに戸惑っていた。日本語で書かれている名詞が、実際に聞いたタイ語の発音からあまりにもかけ離れていたため、同一のものを指しているのか判断できなかった。ところが、タイ語が身に付いていく過程で、単に専門書にあるカタカナ表記が誤っているだけであるという衝撃の事実を知った(留学生日記2005年5月12日付参照)。それ以降はただただ呆れるばかりだったが、さすがに今晩ばかりはその専門書を男子便所に向かって力一杯投げつけてやりたくなった(実は本当に投げつけるような素振りをしたところ友人たちに制止された)。日本の先生方が書いた見当違いも甚だしい恥ずかしすぎるカタカナ表記のせいで、英語やタイ語に置き換えて追加的な調査をするのに無用な労力を強いられ時間も無駄にした。こんなことなら、最初からタイ語文献を使ってキーワードをピックアップしておくんだった。

このような見当違いも甚だしい恥ずかしすぎるカタカナ表記は、著名なタイ専門書の上位10冊だけを例にとっても枚挙に暇がない。この日記では、権威ある特定の先生に喧嘩を売ることは意図していないため、基礎的なタイ語の知識さえあれば簡単に「不自然だ」と分かるようなカタカナ表記を書名を伏せたまま列挙羅列してみたい。

1. サムートサーコーン県
タイ中央部にある県の名称 จังหวัดสมุทรสาคร 。タイ語では「サムットサーコーン」と発音される。サムットは海という意味、サーコーンは海や河川という意味の単語。サムートサーコーンじゃ「暗黒の海」になってしまう。

2. ラコンナーイ
宮廷舞踊 ละครใน 。タイ語では「ラコーンナイ」と発音される。ラコーンは舞台演劇、ナイは内の意味。少し気を利かせて「ラコーンナーイ」に訂正してあげても、「男舞台劇」という意味になってしまう。同性愛者向けの見世物だろうか? そんなの絶対に見たくない。

3. ロイカトーン
灯篭流し祭 ลอยกระทง 。タイ語では「ローイグラトング」と発音する。タイの祭り拍子「ローイ、ロイ、ガトーング」の英語表記をそのままカタカナに起こしてしまったんだろうか? それに「ロイ」って、カレン族(山岳民族)の人の名前のようだ。ロイカトーンじゃ「ロイさんお釣りですよ」になってしまう。そもそも、曲にあわせて伸ばして発音しているものを訳語にしてどうする! 論文の中で自分の歌唱力を披露する馬鹿がどこにいる!!

ここで例に挙げたような見当違いも甚だしいカタカナ表記タイ語は、学術論文のみならずさまざまな日本語刊行物にも頻繁に登場し、僕たちタイ語学習者たちを楽しませるのに一役買っている。

こんなにメチャクチャなタイ語を書いていて、どうして違和感に気づかないのだろうか? タイ語がまったく分からないまま研究を続けているのだろうか? 何語の文献を根拠に日本語の論文を書いているのだろうか? まったく本当に不思議でたまらない。わざわざこんな子供だましの恥ずかしすぎるカタカナ表記を連発することで、英語の論文を要約しているだけという事実を露呈させてしまうくらいなら、いっそのこと英語の論文にあるローマ字表記(アルファベット)をそのまま転写してくれたほうがよほど役に立つ。

ところで、以前から不思議でたまらないことがある。高校世界史の教科書に登場するタイの封建国家 SIAM=สยาม を日本語にすると「シャム」になるのに、どうして高架電車 BTS の乗換駅 SIAM=สยาม は「サイアム」なのだろうか? 英語とタイ語は同じ表記なのに、日本語表記に起こすとなぜかまったく別のものになってしまう。なら、最初からタイ語の発音に倣って「サヤーム」と書いておけばよいものを。あまりに迂遠すぎる。

耳、腐ってんじゃない?

2005年3月3日(木)

「ミャンマーは欧米諸国の経済制裁下にあります。ですから、私たちタイ人が日頃から慣れ親しんでいる商品を買い求めるのは困難です。主要な市場や商店に行けば買うこともできますが、ほとんどが期限切れの粗悪品と考えて良いでしょう。病院でも医薬品の不足が深刻で、注射針が使いまわされています。なにより病気にならないに越したことはありませんが、万一に備えて常備薬を持っていくと良いでしょう」

あまりにも危険すぎる。いざというと時の命綱である医療機関が当てにならないほど恐ろしいことはない。

2日後に迫っている東南アジア研究科のミャンマー旅行の案内がなにもなく、おかしいと思っていたところ、昨日の夕方になってようやく今日の講習会についての連絡が来た。ここのところ夜明けまで珈琲屋に籠ってタームペーパー(学期末小論文)を書く日々が続いていたため、午前9時に起きるのは本当に辛かった。それに、この時期に半日もペーパー(小論文)作業以外のことに時間をとられるのも痛手だ。

「ミャンマー国内への私物、特に通信機器の使用については厳しい規則があります。高価な物品の持込は控えたほうが良いでしょう。宝飾品を持ち込むと出国時に課税される可能性もあります」

昨年のカンボジア旅行では、クラスメイトが旅先でペーパー(小論文)を書いていたため、僕もそれに倣ってミャンマーで残り1講座のペーパー(小論文)を書こうと考えていたが、どうやら出発までに書き上げて提出しないと期限に間に合わなくなってしまうようだ。

こうして、凄まじい睡眠不足に悩まされながらも、スィーロム通り(シーロム通り)にあるいつもの珈琲屋で友人たちと午前2時までペーパーを書き続けた。

2005年3月4日(金)

「あの人、有名なアイドルなんだけど気づいてた?」

僕たちが居座っているスィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋には、午後2時頃になるとアイドルのボーンルーン(バルーン)ちゃん(ピンスダー・タンパイロ, 22歳, ラングスィット大学(ランシット大学)マスコミ学部ラジオテレビ学科)がやってくる。代表作は映画サユィウ(わくわくどきどき)、ヂャーオサーオパッタイ(タイ焼きそばの花嫁)、クムグラビー・ピーラバート(グラビー幽霊の氾濫)など。さわやかで元気いっぱいなイメージで売り出し中のアイドルだが、僕たちが普段から目撃しているのは中年男性との密会だ。

タイの芸能界にも階級社会の色彩がモロに出ている。日本とは異なり、タイの芸能人の学歴はおそろしく高い。さしずめ、金持ちによる趣味の一環といったイメージで、貧乏人の成り上がりなどほとんどいない。友人から以前紹介してもらった映画俳優も名門国立大学の学生だったし(過去の日記に「友人」として登場している)、封建時代の地方領主の称号「ナ+地名」を名乗っている芸能人も多い。

僕が通っているヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)文学部や、その隣の芸術学部にも芸能人が多いという話だが、それっぽい自己主張もなければ気取った様子もないため目立たない。

ボーンルーン(バルーン)ちゃんの例からも分かるように、タイのアイドルは総じて芸能人であるという自覚に乏しい。きっと有名になる前からそれなりに良い生活をしているから、いまさら「わたしは VIP である」と主張する必要性など感じないのだろう。

タイでは芸能人を身近に感じる機会が多いが、相対的にヘボい社会階層に属している僕たちのような一般的な日本人が相手にしてもらおうと期待するのは無茶が過ぎる。

今日、昼休みに「寝不足のせいで右目のまぶたが痙攣する」とクラスメイトに相談したところ、タイでは「右まぶたの痙攣は幸運の予兆、左まぶたの痙攣は不運の予兆」という。もし今晩のうちにペーパー(小論文)が仕上がれば幸運に感謝したい。

2005年3月5日(土)

午前5時、ようやくペーパー(小論文)が仕上がり、データを教官にメールしてから帰宅。外付けハードディスクにデータのバックアップをとって、ソニーのサービスセンターへ修理に出すよう友人に依頼した。予算は3万バーツ。ミャンマー旅行中に、悩みの種を完全に解決してしまいたい。

1時間半の仮眠をとってから、友人にバンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)まで送り届けてもらい、ミャンマー航空332便でミャンマー・ヤンゴン(ラングーン)空港へと向かった。

ミャンマーは、第二次世界大戦終結にともない旧日本軍が撤退すると、イギリス連邦による再侵攻を受けて1948年までふたたび植民地化された。独立後、共産主義政権が発足したが、度重なるクーデターを経て、現在ではミャンマー国軍が政治と経済の両面を支配している。

この国はとにかく変わった国だ。軍事政権は、国際線で帰国した国民に血液検査を義務づけており、クラスメイトのミャンマー人も空港で血液検査を受けていた。ウワサによると、この血液検査でエイズの感染が確認されると処刑されるという。

タイの片田舎でも問題なく使える移動体通信網(携帯電話網)も、ミャンマーではほとんど普及していない。 SIM カードは政府の管理下にあり、いつも唐突に、しかも数量限定で売り出される。3日もしないうちに売り切れて、その後は十万バーツ以上の値段で個人売買されるという。現在、タイ首相タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)の資本が移動体通信網を整備して、 SIM カードを200バーツ前後で売り出すのウワサもあり、人々は15万バーツも出して今すぐ購入するべきか、それとも今は様子見をして安くなるのを待つべきかと頭を悩ませている。

数年前にようやくインターネットが解禁されたそうだが、ホテルのビジネスセンターからはウェブサイトを開くことができず、ウェブメールを送ることもできなかった。実際に送受信を試みたクラスメイトによると、聞いたこともないウェブメールサービスを使って英文メールを送ることはできても受信する手段がないという。

到着後、ヤンゴン市内にある政府系の中級ホテル「ユザナ」(一部屋20ドル)で現地研究者による講義を受けてから、カンドンヂー湖の畔にあるレストラン「カラウェイパレス」でミャンマー古典舞踊を鑑賞しながら不味い夕食をとった。食後、中国人街があるマハーバンドーラ通りの19番街でミャンマービールを生で飲もうと考えていたが、これもツアー旅行の悲しさ、集合時間に追われていため観光バスまでそのまま歩いた。

ヂェーディー(パゴダ)の国といわれるだけあって、ホテルの部屋からもシュエダゴンパゴダを臨むことができた。ミャンマーを代表するヂェーディーのひとつと聞いているが詳細は不明。予定表によると、今回の旅行のクライマックスという位置づけにあるようだ。

2005年3月6日(日)

午前中、現地の専門家をホテル「ユザナ」に招いて行われたミャンマー外交の講義に出席してから、中国の援助で建設されたヤンゴン川に架かる橋を渡って首都ヤンゴン近郊のシリアム(タニン)へと向かった。ここで今回の旅行で最初のヂェーディー(仏塔, パゴダ)を見せられ、その南にある水中寺院イェレーに立ち寄った。

夕食前、ヤンゴンにおける商業の中心地である公営市場「ハッピーワールド」を見て回った。民族衣装や生鮮食料品などが豊富に揃っており、現地の人々で賑わっていた。交通の要衝でもあり、京成電鉄バス、新京成バス、神奈川中央バス、都営バスなどの中古車両がひっきりなしに発着を繰り返していた。老朽化が激しいヤンゴンの市場と、日本でもまだまだ使えそうな日本製中古路線バスのコントラストが印象的だった。

道行く人々は老若男女を問わず皆がロンヂーと呼ばれるスカートを腰に巻いている。見た目には少し違和感があるこの巻きスカート(900~3,000ヂャット=1ドル~3ドル)だが、日頃から熱帯の炎天下でジーンズ生活している僕にとっては、風通しがよくて快適な画期的なニューファッションだった(僕はこの旅の間、ずっと木陰に隠れてロンヂーをパタパタさせて涼んでいた)。

夕食前、ユザナホテルの裏道を散策していると、道路脇の公衆水浴び場で老若男女かまわず巻きスカート「ロンヂー」を身に纏ったまま体を洗っていた。公務員や銀行員もロンヂーをはいて出勤しており、部屋着から余所行き服、そして水着(?)至るまでさまざまなシチュエーションに対応できる衣服として人々の生活に深く根付いている。

夜、小洒落た高級中華料理店で夕食をとり、ホテルのロビーに集合したクラスメイトたちとクラブ「パイオニア」へ出かけた。 入場料は1ドリンク付き4,500ヂャット(おそらく外国人料金)。西洋人1名を含む僕たちアジア諸国人グループ10人は、フロアの一番奥にあるテーブル2つを占拠して、カンボジアの放送局が生中継しているサッカーの試合を眺めながら店内が盛り上がるのを待っていた。当初、ミャンマー人はロンヂーをはいてクラブに来るのかと心配したが、盛り上がってくるにつれて増えてきた若者たちはいずれもタイ系または日本/台湾系のオシャレをしており、僕たちは胸をなで下ろした。タイよりも社会風紀の統制がとれているせいか、グループ間にある壁が日本以上に高かった。僕たちはそんな雰囲気を無視して、狂ったように踊りまくり、タクシーでホテルへと戻った。

タイ生活のなかで、僕は「美白こそ究極の美」というタイ人的な価値観にすっかり馴染んでしまっている。それだけにミャンマー人女性の肌の黒さには心底ガッカリした。

2005年3月7日(月)

「ホテルは水道工の出張修理代金や部品交換費用として45ドルの請求をしてきたわ。いまホテルの支配人と金額について話し合っているところなんだけど、あなたの考えはどう?」

ヤンゴン(ラングーン)中心部にあるホテル「ユザナ」2階の食堂で不味いアメリカンブレックファストをとっていたところ、ミャンマー人ガイドがタイ語でそう話しかけてきた。

昨晩、クラブ「パイオニア」でミャンマービールの中ジョッキを少なくとも10杯は飲んだ。当然それなりに酔っぱらっていたが、泥酔というほどではなかった。ホテルに戻ってからシャワーを浴びていたところ水道の蛇口が閉まらなかったため、少し体重をかけたら蛇口から変な音がして水が止まらなくなってしまった。すぐにハウスキーピングに連絡を入れ、指示通り水道の水を出したまま翌朝に修理工が来るまで放っておいた。

ホテルの支配人と協議した結果、「老朽化により弱っていた備品の損傷についてはホテルが責任を負うべき」という大学側(ミャンマー人ガイド、タイ人ガイド、主任教授)の主張が通り、ホテルが費用の全額を持つことになった。僕の「備品の老朽化のせいで、朝まで騒音に悩まされたのだから、宿泊費用を返却すべき」という主張は退けられた。

今日は、現地のテレビ映画監督をホテル「ユザナ」の会議室に招いて行われたミャンマー映画演劇論の講義に出席した(終日)。賠償交渉も丸一日かかった。つい最近まで鎖国状態にあったミャンマーでグローバルスタンダードを押し通すのは難しい。

2005年3月8日(火)

「これ、たったの1ドルだよ。ハッピーマネーなんだから買ってよ。ね、おねがい」

ミャンマーの物売りは素朴だ。マフィアに管理されている柄の悪いタイの物売りたちとは少し違う。物売りの少女は「ハッピーマネー」という言葉を繰り返し口にしていた。クラスメイトによると、ハッピーマネーとは「今日一日の商売を占う最初の売り上げ」のことという。物売りの少年少女たちは、片言のタイ語、英語、日本語が操れたため、お互いにからかい合っているうちに次第にうち解け、さらに偶然居合わせた日本人が連れていたマッサージパーラー(!?)の女性従業員3人組も交えて、パゴダの前でとんだドタバタ劇を演じてしまった(最後には鬼ごっこまでやってしまった)。

「だからって、物売りの少女から商品をただでもらって来ちゃうのは、ちょっとやりすぎなんじゃない? ケチすぎるわ」

タイを知らない日本人が「タイ人って貧乏で可愛そう」と本気で思い込んでいるのと同じで、タイ人クラスメイトたちも「ミャンマー人って貧乏で可愛そう」と思っている。テレビドラマを収録しているスタジオに着くまで、観光バスのなかでひどく詰られた。

(それなら、学食で君たちに果物やベトナム風春巻きを勧められたときに、僕は断らなきゃいけなかったのかい?)

そう切り返したくなったが、さすがにやめておいた。むやみにケンカを売ったところで何も得しない。厚意でプレゼントされたものは、素直に受け取っておくのが一番だ。自分を基準にしてものを考えるあまりに物事の本質を見失ってはいけない。

国立博物館を見学してから、ミャンマー国内で有名な女優が演じているテレビドラマの撮影現場にお邪魔して、昨日の講義にあった「少ない予算でもそれなりの映像を作り上げるための工夫」について学んだ。

2005年3月9日(水)

ミャンマー料理は脂っこすぎる。もしかしたら脂っこくないミャンマー料理もあるのかもしれないが、僕の知る限りミャンマー料理はすべて脂っこい。あんな脂っこい料理ばかり食べていて、どうしてミャンマー人の胃はもたれないのだろうか。

朝、市内の大衆食堂をテレビドラマ監督に紹介された。タイの大衆食堂のような店構えだったが、出てくる料理は得体の知れないものばかり。付き合いで仕方なく発酵米麺モヒンガーに口を付けたが、監督と別れて観光バスに戻ってから、タイ人ガイドが気を利かせて用意してくれていた蟻入りサンドイッチを食べて空腹を紛らわせた。

昼食の中華料理もひどかった。隣国の中華人民共和国と密接な関係にあるため、ミャンマーには中華系移民が数多く住んでおり中華料理屋も全国各地にあるというが、今日の中華料理はとにかく最低だった。

夕食はシーフード料理というウワサだったが、なんとなくイヤな予感がしたからホテルに居残ってふて寝した。クラスメイトのジャネットちゃん(仮名)が翌朝、「料理のあまりのひどさに、温厚なあのオちゃん(仮名)が口汚くこきおろしたほど」と話していた。あんな拷問のような料理を食べさせられるくらいなら、精神的にも一日の疲れを癒すために部屋で寝ていた方がよほど良い。

ただでさえ昼夜を問わずクラスメイトたちとの団体行動を強いられ、自分の時間を持てずにストレスが溜まっているのに、まったく興味もないヂェーディー(仏塔, パゴダ)を炎天下何ヶ所も見せられ、しかも出てくる料理が食うに耐えないとあっては本当に救われない。

午後10時就寝。僕のほかにも2人の学生が今日の夕食を拒否した。

2005年3月10日(木)

パガン(プガーム)はビルマ人最初の王朝パガン朝(プガーム朝)(西暦11-13世紀)の首都として栄えた。エーヤワディー川の中流域にある平野部には、アホとしかいいようがないほどたくさんのヂェーディー(仏塔, パゴダ)が林立している。現在、ここにあるものは道路と樹木を除けば、小さなヂェーディー、普通のヂェーディー、大きなヂェーディーしかない。ここにいると、ヂェーディー(仏塔, パゴダ)が地平線の彼方まで続いているのではないかと錯覚する。ミャンマー人ガイドによると、この一帯には3,000~5,000くらいのヂェーディーがあるという。

ミャンマー政府は、ヂェーディー(仏塔, パゴダ)だらけの古都の一部「オールドバカン」を考古学保護区に指定している。ところがミャンマー考古学者の教授によると、政府や国際機関はオリジナルの建築様式を調査することなく、倒壊した遺跡の尖塔部にそれっぽいものを「ポン」と乗せてしまったという。しかも、観光客の誘致と外貨の獲得のために21世紀に入った現在でも次から次へとヂェーディー(仏塔, パゴダ)を建立し続けている。これは、考古学者たちが最も忌み嫌っている「ロマンを消し去る考古学的破壊行為」であり、国際的な評価を得るのはまず期待できない。当然ユネスコ世界遺産の登録にも失敗している。しかし、それだけにパガン(プガーム)の遺跡群には、カンボジア遺跡のような寂れたイメージはない。

午前4時半起床。ヤンゴン国際空港は、戦時中の地下鉄新橋駅を思い起こさせるように暗く、飛行機の到着を待っているミャンマー人の老若男女は国民服である巻きスカートをはいている。そこからマンダレー航空461便でミャンマー中部にある古都パガン(プガーム)へと向かった。
 
 
その後、僕たち東南アジア研究科のクラスメイト一行はシュエジゴンパゴダ(西暦1084年建立)をはじめ、ヂヤンシター寺院、ティローミンロー寺院などを見て回り、無数のヂェーディーの彼方に見える地平線に太陽が沈むのをミンガラーヂェーディーの頂上から眺めた。
 
 
日没後、ミャンマー芸能であるパペットを観劇しながら、パーテーションで区仕切られたプレートに乗っている温野菜、魚料理、肉料理などのミャンマー宮廷料理を食べた。僕はすっかりココナッツライスの虜になってしまい、パペット劇を無視してむさぼり食べていたところ、同じテーブルに座っていたクラスメイトたちからツッコミを受けた。

「ココナッツライスを気に入ってもらえたようでとても嬉しいわ。実は、タイ料理にも似たようなメニューがあるんだけど食べたことないかしら? まあ、いいわ。久々のまともな料理だから必死になって食べるのは分かるけど、ココナッツライスには気をつけたほうがいいわよ。とにかく太るのよ。カロリーがものすごく高いの。・・・・・・だから、私たちはこの牛肉をお代わりすることにするわ」

そんなことを話しながら、日頃からの料理への鬱憤を晴らすかのように、僕たちはひたすら食べ続けた。それにしても、パペット劇をまじめに見ていた人なんていたのだろうか。

2005年3月11日(金)

いつもと変わらぬヂェーディー(尖塔, パゴダ)めぐり。おのおののヂェーディー(尖塔, パゴダ)にはそれぞれ異なる名前がつけられており立地もまるで違うのだが、そんな些細なことなどもうどうでも良くなった。朝食後にヂェーディー(尖塔, パゴダ)を見に行き、お楽しみの昼食をとってからまた別のヂェーディー(尖塔, パゴダ)を見に行くというルーチンワークのような毎日を送っている。クラスメイトたちもタイに戻れる日を心待ちにしており、夕食から午前零時までのカクテルタイムを唯一の楽しみにしている。

今日の見どころはパガン(プガーム)近郊にあるナット信仰の聖地「ポッパ山」で、標高は標高1518m。西部劇に出てくるような台形の岩山で、その頂上にはやっぱりヂェーディーがある。600段もの石段を裸足で登り、周囲の山々を眺めてから山を下りた。麓にある高級ホテル Popa Mountain Resort(ポッパマウンテンリゾート) で遠くに見えるポッパ山を眺めながら高級中華料理と午後のコーヒーを楽しんだ。

ストレスが着実に蓄積していくなか、ホテルの格も日々パワーアップしている。パガン(プガーム)・タラバー門前の高級リゾートホテル The Hotel @ Tarabar Gate(ザ・ホテル・アット・タラバーゲート) に宿泊し、プールサイドにあるカクテルバーが閉店するまでクラスメイトたちと飲み続けた。酒でも飲んでないと本当にやってらんない。

2005年3月12日(土)

ミャンマー第2の都市であるマンダレーは国土のほぼ中央に位置している。ミンドン王がここに都を移してヂェーディーを建立し、1885年にイギリス軍に滅ぼされるまでの約25年間、コンバウン朝最後の都として栄えた。
 
 
正午すぎ、マンダレー航空432便でパガンからマンダレーへと向かった。観光バスでは登ることのできない斜面を小型トラックの荷台に乗って移動し、ミャンマー最大の寺院群「ガンダーヨング僧院」を拝観してまわって寺院内の壁画についての解説を受けてから、外国人観光客がほとんど訪れることのない古都インワへ渡し船や馬車などで移動した。このあたりには産業と呼べるようなものはほとんどなく、地域住民の収入はもっぱら数少ない外国人観光客がもたらす観光収入に依存している。現地住民が着ているTシャツの襟首を見てみると、生活の厳しさを容易にうかがい知ることができる。

今日のメインイベントは馬車レースだった。道路が舗装されておらず、前方を走る馬車が巻き上げる砂埃をモロにかぶってしまったため、カンボジア人クラスメイトが現地の馬車乗りから手綱を奪って先頭を目指したところ、ほかの馬車も次々とレースに参加していった。

僕たちはいま、遺跡や寺院を見て回ること以外の娯楽を求めている。

夜、マンダレー市内の高級ホテル Mandalay Hill Resort(マンダレーヒルリゾート) に泊まり、プールサイドやラウンジで生演奏を聴きながら優雅に酒を飲んだ。

2005年3月13日(日)

今回、東南アジア研究科の一行は、ガイドブックに掲載されている大小さまざまな都市のほとんどに足を運んでおり、しかも地図にすら書かれていないような都市にも立ち寄っている。

昼、学生街にある中華料理屋で昼食をとってから、その隣にあるこぢんまりとした海賊版 CD 屋でミャンマーポップスを聴きながら出発までの時間をつぶした。この都市は高地にあり、古くからの避暑地として知られるが、現在では陸軍士官学校の城下町となっている。背筋を伸ばして足早に歩いている学生たちが、教官とすれ違うたびに立ち止まって敬礼をしていた。まるで軍事基地にいるかのようだ。

今回の旅行では無数の寺院を拝観してきたが、バンコクにいるときよりも平凡な日々を送っている。おかげで日記に書けるような興味深い事件が起こらずに困り果てている。クラスメイトたちは、酒に酔ってホテルのプールで泳いでいたり、バイオリン奏者から楽器を拝借してホテルのロビーでビールジョッキ片手に演奏するなどして気を紛らわせながら、バンコクに戻れる日を指折り数えている。

今日も数え切れないほどたくさんの寺院を拝観した。しかし、どうしても丁寧にひとつひとつ紹介する気分になれないから、写真を貼ってやり過ごしたい。

2005年3月14日(月)

朝、予定を変更して JICA 独立行政法人国際協力機構 の ODA 政府開発援助事業を見学した。昨年のカンボジア旅行でも現地ガイドやクラスメイトたちとともにアンコールワット遺跡の修復事業を通じて日本の途上国援助について学んだが、今回はもう少し一般市民の視点に立って考えてみたい。

午前7時起床。眠い目を擦りながら朝食のビュッフェを平らげ、追い立てられるように食堂を後にしてロビーに集合し、 JICA のミャンマー人スタッフの案内でマンダレー市郊外にある寺院へと向かった。

僕たちがそこで目にしたのは、後進国の田舎にありがちな寺院附属の仮設教室だった。ひとことで仮設教室といっても、この場合は木の柱に屋根が乗っているだけの掘っ立て小屋で、雨風をしのげるような施設ではなかった。3つある教室のあいだに仕切りはなく、緑色のおそろいのロンヂーをはいている休暇中の若手の教員たちが、普段学校へ行くことのできない子供たちに教育を施している。

教員によると、マンダレー市内に張り巡らされているバス路線は郊外まで来ていないし自動車普及率もかなり低いため、学校までの移動手段がなく教育を受けられない子供たちがたくさんいるという。しかし、この取り組みは教育を受けられない子供たちに教育を受けられるための環境を整えることではなく、最悪な状況をいくらかマシにすることを目的としており、仮設教室を運営するための費用はすべて寄付によってまかなわれているという。 JICA の職員がなぜこの事業にかかわっているのかは結局分からずじまいだった。

ひととおり仮設教室の説明を受けてから、正体不明の中華料理と不味そうなホットミルクコーヒーを前にこの寺の僧に事業の詳細を尋ねた。最後に寄付を募る箱が回ってきて、今回のもてなしの真意を理解した。なんだか少し横暴すぎるようにも思えたが、僕は仕方なく財布から1ドル札を取り出して箱に突っ込んだ。

その後、遊覧船や木製の小船でマンダレー市郊外にある寺院をめぐり、夕方には首都ヤンゴンに戻ってヤンゴン随一の中華料理店で夕食を満喫した。当初の予定ではホテル「ユザナ」に泊まることになっていたが、僕たちを乗せた観光バスがミャンマー最高級のホテル Traders(トレーダーズ) へ入っていくと、車内から大きな歓声が沸き起こった。

ニタニタとしている主任教授が僕のほうを見て「ホテルがヘボいという苦情があったから、仕方なく今晩は君のために5つ星ホテルを用意したよ。これでまた予算オーバーになるけど、まあ仕方ないか」と話し、隣の席にいたクラスメイトが僕に「みんなを代表して、ちゃんとお礼を言っておいてね」と耳打ちしてきた。

みんな、あまりにもちゃっかりしすぎている。こうして、今晩もいつもと変わらぬプールサイドでの飲み会が始まった。

2005年3月15日(火)

タイ帰国を明日に控え、ついにミャンマー旅行のクライマックスを迎えた。朝、初日に泊まったホテル「ユザナ」の客室から見えたヤンゴン市内最大のヂェーディー「シュエダゴンパゴダ」(タイ語名:พระบรมธาตุชเวดากอง(プラボーロンマタートチャウェーダーゴーング))へと向かった。この寺院にはさまざまな言い伝えがあるが、どうやら15世紀のバゴー王女シンソープによって原型が作られたようだ。

シュエダゴンパゴダで唱えられているお経は、拡声器を通じて町全体に流されている。地上入口からエレベーターでパゴダ階まで昇ると、外国人観光客であることを示す黄色いステッカー(5ドル)を胸元に貼るよう指示された。境内は市民でごった返しており、大樹の日陰で涼んでいるカップルの姿も見られた。中央にある黄金の塔は高さ99.4mで、大小60あまりの塔に囲まれているという。

午後、カンボジア人クラスメイトの部屋でミャンマービールを飲みながら自由時間を楽しみ、夕食後にホテルの向かいにある商店へクラスメイトたちとビールを買いに出かけた。商店主がビールを用意するのを待っていたところ、近くの屋台の椅子(日本の浴室にある椅子のようなもの)に座ってビールを飲んでいたミャンマー人男性が、なんと日本語で話しかけてきた。

「あなたは日本人ですかぁ? ミャンマーにもカワイイオンナいるよ。安いよ」

ミャンマーにも外国人向けの性風俗があるんだろうか? でも、この男にはもう少し想像力を働かせてもらいたかった。これから若くて肌の白いクラスメイトたちといっしょに酒を飲もうとしているのに、何が悲しくてどこの馬の骨かも分からない(しかも黒いに決まってる!)ミャンマー人娼婦(売春婦)なんかに会いに行かなきゃいけないのか?

ホテル Mandalay Hill Resort(マンダレーヒルリゾート) 附属のプールで泳いだりプールサイドで酒を飲みながら、ホテルの従業員に「プールの鍵を閉めるからもう出て行ってくれ」と言われるまで、ミャンマー旅行最後の夜を楽しんだ。

東南アジア研究科は完全な女性社会だ。よくもまあ、ここまでひどい悪口を並べられるものだとウンザリしながら、意見を求められるたびに「僕は別に好きでも嫌いでもないけど・・・・・・」とはぐらかした。自分にとって有害でなければそれで十分。女性社会の特徴は万国共通なのかもしれない。

2005年3月16日(水)

朝、ポーヂョー・アウンサン市場にある土産物街をクラスメイトたちと散策した。巻きスカート「ロンヂー」屋の店主によると、ミャンマー通貨「ヂャット(チャット)」の交換レートは 1ドル=900ヂャット(チャット) 。外国人観光客を見つけては声をかけていた貴金属屋の若い男も同じレートを提示してきたから、おそらくこれが相場なんだろう。旅行初日にミャンマー人ツアーガイドが「利益なしの市場価格」と言って 1ドル=860ヂャット(チャット) で両替してくれたが、実際にはどうやら4%強の手数料を取っていたようだ。ちなみに、ミャンマーは二重為替相場制を導入しており、公定レートが 1ドル=6.3589ヂャット(チャット) 、公認市場レートが 1ドル=450ヂャット(チャット) と実勢価格から著しく乖離している。

激マズ日本料理店「富士」で鉛のように硬いエビフライを歯茎から血を流しながら食べ、バンコクへの帰路に着いた。トーングロー(トンロー)15にあるショッピングモール J-Avenue(ジェーアヴェニュー) で久々にまともな日本料理を食べた。コンドミニアムへと戻るタクシーのなかで12日ぶりの自由をひしひしと噛みしめていたが、長旅による疲れのせいで友人と会う気も起こらず、素直に帰宅してシャワー室へ直行した。

2005年3月17日(木)

夕方、友人に招かれてトーングロー(トンロー)3にある日本料理屋 MARU へ行ってみると、入口の前で会社を経営している旧友と遭遇した。旧友によると、この店は、重要なお客様を接待するのに耐えうるバンコク随一の店として知られており、日本人以外にもタイの政府高官や芸能人なども多く訪れるという。バンコク都内に無数にある日本料理屋のなかでも食材の質が圧倒的に良く、しかも大小さまざまな個室があるため、とっておきの商談を効果的に進めるのに役立つ(かもしれない)。ただし、法人客を意識しているのか値段がとんでもなく高く、つまみの鶏唐揚げに900バーツ払えるような経済力がないと入りにくい。

以前、友人からご馳走になった冷しゃぶは絶品だった。また機会があれば、是非食べてみたい。

昼すぎ、未提出のままになっていたペーパー(小論文)を提出しに研究室へ行き、いつもの珈琲屋へと向かった。その後、日本料理屋でミャンマーの土産話を深夜まで語り続けた。

2005年3月18日(金)

ようやく12日間のミャンマー旅行から解放されてバンコクライフを満喫したいと願っていたが、実はまだ未提出のペーパー(小論文)があるため、スィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋で旅行前と同じように友人たちと深夜までキーボードを叩き続けた。

途中、気分転換をかねて日本人向けの夜の歓楽街「タニヤ」にあるトンカツ屋で友人と夕食をとったところ、珈琲屋に戻ってから体調が悪くなり、午前3時に猛烈な吐き気におそわれた。最寄りの高級病院「バムルングラート病院(バムルンラート病院, バムルンラット病院)」の当直医に事情を話したところ、診察室で吐き気止めの注射を打たれ、吐き気止めや食中毒対策などのクスリが例によって大量に処方された。

明日は早朝からパッタヤー(パタヤ)へ行く予定になっているのに、こんな時間になって病院で診察を受けなくてはならないとは本当にツイてない。

僕の旅行中、別の友人たちが本帰国したり、他国での留学を開始したりと、いろいろな変化があった。かくいう僕も、レポートを提出したら5月下旬まで日本で就職活動をするつもりでいる。

2005年3月19日(土)

「明日から『パッタヤー国際音楽祭(パタヤインターナショナルミュージックフェスティバル)』が3日間の日程で開催されるんだけど知ってる? そのためにホテルを一部屋抑えておいたんだけど、ドタキャンされて一緒に行く相手がいなくなっちゃったのよね。宿泊料金として前払いしてある600バーツをドブに捨てるのももったいないから、もし良かったらどう?」

昨日の昼、突然友人からそう誘われて、僕たちはいまバンコクからクルマで3時間ほどのところにあるビーチリゾート、チョンブリー県パッタヤー市(パタヤ市)に来ている。

パッタヤー市(パタヤ市)の当局はなかなかの商売上手ね。公道を民間の商店に貸すことで、かなりの収入を得ているはずよ」

国際音楽祭開催にともない、北パッタヤー(北パタヤ)中央パッタヤー(中央パタヤ)にある海岸沿いの道路は通行止めになり、白いテントがひしめき合う即席のショッピングモールになった。白いテントを張っている屋台街には、食料品以外にも OTOP(一村一産品, ヌングタンボンヌングパリッタパン) 商品や旅行代理店のブースもあった。

この影響で、一方通行ばかりのパッタヤー(パタヤ)の道路は完全に麻痺して、市内各所で大渋滞が発生した。僕たちは大型スーパー Tesco Lotus(テスコロータス) で夕食をとり、3人乗りのバイクタクシー(モーターサイ)でコンサート会場に向かったためたどり着けたが、ソングテオ(乗り合いトラック, ソンテウ)や自家用車で移動していた人たちは到着までに気の遠くなるほどの時間を浪費したはずだ。

海外沿いの特設屋台でストロベリー味のかき氷(10バーツ)を購入し、市内3ヶ所に設けられている舞台で最大規模の青ステージ Love Box(ラブボックス) を見物した。コンサートには、ターターヤング(タタヤン)をはじめ AB Normal(エービーノーマル) などの有名歌手のほか、日本からも Lucifer(ルシファー) のマコトが参加した。会場は超満員でステージ100メートル以内に接近することができなかったため、5分もしないうちに会場から引き揚げホテルへと戻った。

結局、国際音楽祭を楽しむことはできなかったが、泊まりがけでパッタヤー(パタヤ)までドライブに来たと思えばそう悪くない。

2005年3月20日(日)

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2005/20050320-3.jpg" width="300" height="169" align="right" />現在、タイは受験シーズン真っ只中。国立大学のセンター入試「エントランス」が今月上旬に行われ、 Seven-Eleven(セブンイレブン) の雑誌コーナーには私立大学の入学願書セット(200バーツ)が並んでいる。出願書類のほかに講義概要や学部紹介の冊子も同封されており、授業料の内訳について詳しく知ることができる。今回入手できた願書は、グルングテープ大学(バンコク大学)スィーパトム大学(シーパトム大学)の2冊。

日本とは異なり、タイの大学は入学できても卒業できるとは限らない。友人によると、タイの3大私大のひとつグルングテープ大学(バンコク大学)工学部電子工学科の新入生のうち卒業できるのは全体の約3割。一方、下位私大のスィーパトム大学(シーパトム大学)は、成績不良で上位私大から放校されて中堅私大(ラングスィット大学(ランシット大学)など)に移った学生が最後の最後に漂着する場所という位置づけにある。

昨晩、パッタヤー(パタヤ)のリゾートホテルで友人とテレビを見ていたところ、偶然グルングテープ大学(バンコク大学)の CM が放映されていた。これを見れば、すべての日本人が日本以上に充実している施設の数々に仰天するに違いない。それについて友人が説明してくれた。

グルングテープ大学(バンコク大学)といえば、やっぱりマスコミ学部(報道放送学部)よね。見たでしょう? 贅の限りを尽くした豪華なスタジオを! タイ広しと言えども、これだけの機材を備えている大学はほかにないわ。それと、去年ラングスィット校舎(ランシット校舎)に完成したばかりの新図書館『スラット・オーサターヌクロ』は、私立の名門としての誇りよ。今度のタームペーパー(学期末小論文)で文献に困ったら、絶対に連れて行ってあげるからね!」

ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)をはじめとするタイ国立大の中央図書館は、施設・蔵書数ともに貧弱を極めるため、グルングテープ大学(バンコク大学)の新図書館に期待が集まっている。とはいえ、電子工学や経営学の分野なら最強かもしれないが、文学や芸術では鳴かず飛ばずのこの大学に「東南アジア研究」のようなマニアックな分野の専門書があるとはとても思えない。

今回の資料集めは、もともと私立大学への3年次編入を計画するためだったが、労力ほどの意義を見出せなかったため中止した。

願書にあった各大学の授業料の詳細はつぎのとおり。

グルングテープ(バンコク)大学
  1学期あたり学費: 29,300バーツ(概算)

授業料1,200バーツ/単位(経営学部・理工学部・工学部・報道学部の専門科目で1,400~1,500バーツ。芸術系科目で2,500バーツ。経営学部の場合、卒業までに一般教養科目30単位、必修演習科目57単位、必修専攻科目21単位、選択専攻科目12単位、自由選択科目12単位の最低132単位を取得し、かつ平均評定が2以上でなくてはならない。)各種施設維持費2,900バーツ/学期(教育維持費1,000バーツ、図書館維持費500バーツ、医務室維持費200バーツ、スポーツ施設維持費500バーツなど。)特殊施設維持費(報道・芸術系科目を履修した場合に追加となる利用料。芸術室1,000バーツ、ワークショップ1,000バーツ、コンピューター1,500~3,000バーツ、学外学習1,500バーツ、演劇舞台利用料1,500バーツ、ラジオ放送室利用料2,000バーツ、テレビ放送室利用料2,500バーツ、新聞雑誌演習室1,500バーツなど。)入学試験受験料300バーツ、入学金500バーツ、学生登録費2,000バーツ、学部転籍手数料500バーツ/回、休学時学籍維持費500バーツ/学期、学生証発行・再発行手数料300バーツ