今日は部屋に籠もって、必修科目「 ASEAN 地域論」のペーパーを一日で片付けてしまうつもりだった。
ところが昼過ぎになって、突然部屋のベルが鳴った。誰かと思って扉を開けてみると、そこにはモップを持ったメーバーンが立っていた。メーバーンによると、昨日は所用があって来られなかったから、その代わりにこれから掃除をしたいという。普通なら怒鳴って追い返すべきシーンかもしれないが、部屋の清潔と家財の安全のためにもメーバーンとは仲良くやっておきたい。
さすがに部屋が掃除中ではペーパー作業に集中できない。仕方なく気分転換を兼ねてスクンウィット5にある Starbucks Coffee へ行って、政治学部図書館でコピーしてきたばかりの英文学術雑誌に収録されている「タイとアメリカの瞑想の違い」という論文を読み始めた。そこで僕は「ある単語」を見つけてしまい、コーヒーをすすって大きなため息をついた。
英文学術雑誌に書かれている「ある単語」のせいで、僕はとても憂鬱な気分になり、さらなる気分転換のために今度は1年以上も足が遠のいていたスクンウィット8へと向かった。騒然としている大都市バンコクの中で、このソーイには今もなお長閑な地方都市のような雰囲気が残されている。左右に並ぶ商店をひとつひとつのんびりと観察しながら通りの奥へ足を進めていくと、オープンエアーの外国人向けタイ料理屋がひっそりと佇んでいる。
さっそく店に入って風通しの良い席を見つけて荷物を下ろし、店員にカーオパットアメリカンを注文してから、さっきの論文をふたたび読み始めた。そして、またしても「ある単語」が目に飛び込んできた。
Hierarchical Society
ああ、なんと精神的に堪える言葉なんだろうか! 日本に住んでいる日本人にとっては「外国の伝統的社会を言い表している言葉」にすぎないだろうが、このような価値観が根深く定着しているタイに実際に住んでいると、なかなかそうも悠長に構えてはいられない。
タイにおける階級社会に関する論文はすでに豊富にあるため、ここでは僕たちが実際に見聞きできる事象について考えていきたい。
階級社会
階級社会とは、閉鎖的なコミュニティーが階級別に形成されている社会のことをいう。タイ人との関わりが薄いうちは、外国人ゲスト(部外者)としてそれなりに丁重なもてなしを受けていると感じるかもしれない。しかし、ひとたびタイに居を構えると、われわれ外国人も階級社会の一員として区分され、その階級相応の待遇を受けることになる。先進国ニッポンから来たというだけでは、すべての階層から仲間として認めてもらうことはできない。
タイにおける各級コミュニティーに参加する時には、さまざまな「入会資格」を満たしている必要がある。無論、外国人もその例外ではない(バンコクに住んでいる一部の貧困日本人のあいだでは「外国人は階級社会の蚊帳の外にいる」という主張もあるが、それは発言者自身がおかれている窮状を「なかったこと」にして、自己を精神状態を保つためにそう思い込もうとしているだけの集団的ヒステリーにすぎない)。過去、日本には「武士は食わねど高楊枝」という古い格言があり、実体が伴っていなくても見せかけだけでなんとかやり過ごせたが、ここタイでは楊枝以外にもありとあらゆるものを披露して、自分に入会資格があることをハッキリと証明して見せなければならない。
アユッタヤー時代(西暦1351-1767)以降、タイにおける支配者と被支配者との関係はサックディナー制によって明確に区別されてきた。そこには日本の江戸時代にあったような「士農工商」(実際には「士商工農」)という建前的な下級民尊重論が介在する余地など一切なかった。ところが、アユッタヤー朝滅亡に伴うサックディナー制の実質的消滅(厳密には現存する)やヂュラーロンゴーン大王(ラーマ5世, 西暦1853-1910)による奴隷制や領主制の廃止、代わって導入された近代官僚制などの影響により、タイの身分秩序は次第に曖昧なものへと変容していった。西暦1932年に人民党(カナラーサドーン)が立憲革命を起こしてタイ王国憲法を制定すると、立憲君主制下における民主化の流れのなかで、タイ史開闢以来延々と受け継がれてきた「法的拘束力のある身分秩序」は完全に崩壊し、「法の下に平等」とされる現在の民主的な社会が創造された。
しかし、既得権益を守り通そうとするのが人の世の常。タイの権力者集団もその例外ではなく、相続税制度を骨抜きにして自らの経済力を維持し、一般庶民が容易に真似できない「上流社会の人民たる条件」という暗黙の了解の下に自らの仲間を取捨選択していった。
タイ人の中間階層
日本人としてタイに住むのであれば、せめて「タイの中間層」たる条件くらいは満たしておきたい。
東京大学社会科学研究所の末廣昭教授は、タイの中間層を、①専門職・自由職、技術職、国営企業や大企業のホワイトカラー(中間管理職以上)、または中級以上の公務員、自営業者などで、②月収が2-3万バーツ以上ある世帯で、自家用車、携帯電話、家電・OA機器、土地付き自宅などを所有し、③ 大卒または短大卒以上の高等教育を受けた階層(2003年度のタイにおける大学進学率=学齢人口の48%→教育省統計参照)と定義している。
社会的地位に基づく定義
社会的地位に基づく階級は、高級官僚や高級軍人を筆頭に、華人中心の財閥家集団、大企業役員、中小資本家、管理職、大卒会社員、高卒労働者、店員と続く。非熟練労働者(ガンマゴーン)や農民(チャーオナー)などはその最下級にあるとされ、特に日本人に人気の娼婦はタイ人の社会観や宗教観などから「論外」として遇されている。
タイにおける給与所得者(サラリーマン)は、職位と給与のみによって序列づけられるため、日本国内で高く評価されているような「大企業の社員」であるとか「銀行員」であるなどといった業種や企業名だけでは高い評価を受けられない。その背景には、①被雇用者という立場そのものが社会的に高く評価されていないこと、②同一企業間においても職種によって極端な給与格差があるため「会社」を単位として個人の給与を推定することが困難なこと、③転職が常態化しており会社への帰属意識も薄いため会社の安定性や将来性がそれほど重視されていないこと、などが考えられる。ただし、日本人被雇用者のうち「駐在員」については、先進国レベルの給与所得と追加的に支給される駐在手当に加え、平均的な日本人労働者の月給にも相当するラグジュアリーな住居が会社から貸し与えられるため、それなりに高い「経済力による評価」を受けることができる(次項参照)。
また、「自分は皇族である」とか、「自分は元大臣の息子だ」という軽口をたたくと、彼らが決まって恐れ入るのもこういった価値観によるところが大きい。ただし、この種の騙り行為が発覚すると、それまで築いてきた信用のすべてを失うことになる。
上流階級以外の人民は、決して財閥を形成することなどできないし、政府高官や高級軍人になるのにも相当な困難が伴う。
経済力に基づく定義
タイにおける個人の経済力は、所有する自家用車、装飾品(プラクルアングを含む)、化粧品、携帯電話、住居の時価または家賃などで評価される。
タイ人が自宅よりも高価なベンツなどの高級車を乗り回し、食費を節約してまで新型の携帯電話を持とうとするのはまさにこのためである。バンコクに住んでいる一部の貧困日本人は、これを「タイ人は見栄っ張り」の一言で片付けることで「対抗できないんじゃなくて、あまりの馬鹿らしさに付き合っていられないだけ」という立場を取っているが、そのような主張が階級社会で認められることはまずない。ただ相手に甘く見られるだけだ。また、一部の貧困日本人が好んで用いる「実は金持ちなんだけど、僕はケチなだけでね」というクダラナイ言い訳も、ここでは一切聞き入れられない。証拠品は包み隠さず、その全てを示さなければならない決まりになっている。「見えない証拠品」は「存在しないもの」とみなされる。
企業を代表する日本人駐在員が決まって異常に高価なコンドミニアムに住んでいるのも、実はこういった事情による。会社が駐在員を過剰に厚遇しすぎてているという説もあるが、それは相対的に貧しい非駐在員日本人の言い分であり、本来の目的はもっと別のところにある。日系企業の駐在員は、仕事柄、タイの上流階級との商談の場に赴くことが多いため、同等な立場で交渉する権利があることをはっきりと示しておく必要がある。そうでもしなければ、平均的な日本人程度の給与所得ではタイ人が定める「上流階級市民」としてタイ人経営者たちと互角に渡り合うなどできない。
タイ人が相手の持ち物の値段を聞くのも、別に金品を奪おうと狙っているわけではなく、ただ純粋に「相手が属している階級」を推し量るための情報を収集しようとしているにすぎない。
これが「タイでは人は見かけで判断される」といわれる所以でもある。それも、判断されるのは人間性ではなく自らが属している社会階層であるから、日頃からそれなりに身なりには気を遣っておかないと不本意な辱めを受けることにもなりかねない。
上流階級以外の人民は、決して新車のベンツには乗れないし、高価な装飾品や化粧品を買うのにも相当な困難が伴う。
教育に基づく定義
タイにおける個人の教育的バックグラウンドは学位の格によって決定される。博士卒を筆頭に、修士卒、国立大学学士課程(4大卒)、私立大学学士課程(4大卒)、高等専門学校後期課程(高専卒)、中等教育学校後期課程(高校卒)・高等専門学校前期課程、中等教育学校前期課程(中学卒)、小学校と続く。しかし、タイでは「国外の(日本人の場合は日本国外の)大学を卒業した者が高い評価を受けるのは当然」というような雰囲気があって、特に米英の主要大学を卒業したとなれば、いともたやすく他を圧倒することができる。
ところが、日本国の名門私立大学の名を聞いても、タイ人が感嘆の声を上げることはまずない。過去、タイ国における私立大学は「准大学」という地位にあり、国立大学と明確に区別されていた。近年、日本の早稲田大学がバンコク市内に日本語学校を設立して知名度を上げつつあるが、それでも私立大学は国立大学よりも劣るものとして見なされている(ここでは国立正規大学の対比として私立准大学と表記しているが、総合大学と私立カレッジのふたつに分類して呼ぶ方法もある。私立准大学の正規大学昇格への歴史については「タイ大学めぐり」参照)。
また、上流階級の人々は「英語と米英の大学にこそ価値がある」と定めている。だから、日本語や日本の大学は、英語や米英の大学より格下であるとしてみなされる。確かに日本語も外国語のひとつだし、日本の大学も外国の大学のひとつであるには違いないが、上流階級の人々がそう決めている以上、どんな理屈を以て反論しようとあまり意味をなさない。この項では、個人の能力の高さではなく、彼らが定めたルールの中でどれだけイケてる結果をおさめたのか問われている。
タイ人同性愛者たちが好んで英語で会話をしたがるのも、同じ論理で説明できる。社会的にその存在を認められることが困難な嗜好を持つ彼らは、上流社会の共通語である英語を駆使してみせることで、自分たちの嗜好を正当性しようとしている、と複数の論文が主張している。
上流階級以外の人民は、決して私費では先進国に留学できないし、教育にふんだんな投資をするのにも相当な困難が伴う。だからこそ、「奨学金を得て先進国の大学へ留学する」ことが真に価値ある「サクセスストーリー」として社会的に賞賛される。
海外逃亡論
近年、日本国内における失業者増の影響で、タイに移住しようという日本人が増加の一途をたどっている。日本人向けのサービスも拡充され、タイにおける日本人社会の規模は急速に拡大している。世界大恐慌で日本経済が停滞し、街頭に失業者たちが溢れかえった1930年代に流行した「南米移民ブーム」が、太平洋戦争や高度経済成長期を経験した3世代70年の時を経て、形態と場所を変え、今まさにここバンコクで再現されようとしている。
「日本経済には未来がないからバンコクでやり直そう」
このような論調が一部の日本人社会で大腕を振ってまかり通っているが、皮肉にもタイで就労する日本人の大多数は日本の景気に大きく左右される仕事をしているのが実情である。彼らが好んで用いているこうした「日本経済悲観論」を「タイ新天地論」と結びつけて考えるのは、起死回生の妙案のようにも思えるが、実は根本の部分で重大な矛盾を孕んでいる。
仮にもし本当に日本の経済力が失墜し、タイにおける日本人社会の経済力が著しく縮小したら、どのように生計を立てていくつもりなのか?
経費節減のために日系企業が駐在員の定員を減らせば、それだけでバンコクの日本人社会に流通する通貨量が減少し、タイ在住の日本人を相手に商売している飲食店、理髪店、教育機関の経営状態は一気に悪化する。また、タイに進出している企業の本体の経営が厳しくなれば、海外事業会社(現地法人)も撤退しなくてはならなくなり、ここでも新たな失業が生まれる。さらに、「経済力が著しく縮小した日本」とのビジネスの重要性も当然ながら低下する。
このような環境の中で、現在「日本人の優越」という原則の下で職位や給与の面で優遇されているタイ在住の日本人たちが、そのままの待遇で働き続けられるのか? どうやってタイ人ではなく日本人を雇うメリットを会社に説くのか? 同額の給料を得ているタイ人従業員と同じだけの仕事ができるのか? そもそもタイ資本の企業で働けるだけの資質があるのか? タイ人の上司と完璧なコミュニケーションがとれるのか?
これらの問い全てに対して、「楽勝で YES! だ」と胸を張って言える人だけが、矛盾する「日本経済悲観論」と「タイ新天地論」との整合性を主張できる。
「21世紀の海外移民」たちが南米移民時代の不幸な失敗の轍を踏まぬよう強く希望する。
娼婦との結婚と一部の日本人社会
このような観点から、僕は以前から「娼婦と付き合っても有頂天になるべきではない」という主張を繰り返してきた。同時に、「娼婦と暮らすためにタイへ移住するなど、もってのほかの暴挙だ」とも訴え続けてきた。
(それ以外に結婚への道がないのであれば、それも「人生の質」の確保のためにはやむを得ないかもしれないし、娼婦の中にも心が清らかで人間としての魅力に富んだ人がいるかもしれない。しかし、娼婦たちは誰かに強制されたのではなく、自活のための最も安直な手段として売春という道を選んだという事実から目を背けるべきではない。十分に意思の疎通ができないうちは娼婦と話していても退屈しないかもしれないが、自分がタイ語を完璧に話せるようになったときにその考えの浅はかさにウンザリとする日がやって来る・・・・・・という可能性についても、あらかじめしっかりと考慮に入れておく必要がある)
タイ人社会は横のつながりが強い反面、他の階層との縦のつながりがほとんどない。異なる階層の異性と出会う機会も極端に限られているため、自然と同程度の階層の相手と結婚することになる。また、既婚者が属している階層はその配偶者の階層から推測されるため、ここで変な妥協をしてしまうと自分自身が不当に低く評価されてしまいかねない。
たとえ自分がどのように思いこもうと、周囲の見る目と価値観を自分の思い通りにするのは容易ではない。娼婦たちの階層に深いつながりがあるというだけで、格好が悪いという以前の問題として、周囲から「娼婦階層」の人間であるとみなされるリスクを背負い込むことになる。一般のタイ人たちは、娼婦たちを何十段も格下のヒトであるとみなしており、むろん娼婦相当の階層に属しているヒトとも一定の距離を置きたいと考えている。
バンコクにおける日本人社会もすでに階層化が進んでいる。経済的な格差だけでなく、価値観にもあまりにも大きな隔たりがある。仮に「タニヤのカラオケスナックへ行ってサービス嬢と戯れながらウイスキーでも飲もう、どうせタダのようなものだ」と毎日のように誘われても僕の経済力的では無理だろうし(そもそも個人的にもそういった趣味はないし)、逆に「タイポップスでも聴きながら楽しく酒を飲もう」と週末に友人をパブに誘っても「金がない」の一言で断られてしまっては一緒に行動することもできない。
ちなみに、日頃から行動を共にしている学内の日タイ混成グループは、学生街サヤームスクウェアで一食あたり150-230バーツ程度の昼食をとっている。
それで僕はどうすれば良いというのか
僕は自分が所属する社会のレベルを上げようと、これまでさまざまな工夫と血のにじむような努力を重ねてきた。しかし、米英主要大学の博士課程への進学など夢のまた夢だし、支払える家賃も月々6万円が限度。愛車も10年落ちの中古BMW(170万円)が精一杯で、友人達の水準もこれ以上は望み得ない。どうやらこのあたりが限界のようで、能力的にもこれより上を狙うのは難しい状況にある。
タイで自分が考えているレベルの生活を送っていくためには、最低でも月々10万バーツの予算は欲しい(賞与1ヶ月と仮定しても年収354万円)。せめてそのくらいはないと貯蓄など到底できないし、貯蓄がなくては安心して老後を迎えることもできない。ところが、僕には駐在員として現地工場を管理した経験がないため、クルマを買い換えるどころか、いま乗っているクルマを維持するのに必要なだけの給料で雇ってもらうのも難しい。将来にわたって「タイの中間層」レベル以上の生活を続けることに、どうしても自信を持てない。
そもそも、「おまえはタイ人の中間層たる水準すら満たしていない」と言われることに、僕は奇想天外な新理論を打ち立てて自分を騙し続けていかなければ精神状態を維持できないだろう。
健全な精神状態を維持してタイで生活し続けるためには、「自分は日本人なのだから・・・・・・」という根拠に乏しいクダラナイ選民意識を捨てて、現実と向き合いながら変な欲を出さずに生きていくのが一番だ。そして、もしこういった考え方に基づいて実際に行動できるだけの胆力を持ち合わせた日本人がここバンコクにいるのなら、僕はその人物に最大級の敬意を払いたい。
「階級社会」とは、ここタイにおける各階級社会に深く根付いている、決して無視できない伝統的な価値観である。それを受け入れられないとあれば、タイを拒否して直ちに日本に帰国するか、ホイップクリームをたっぷりとかけた抹茶フラペチーノよりもさらに甘い夢想の世界の中で、同じ夢を共有している友人達とニンマリとしながら幸せに暮らすほかに道はない。
こうして、僕は田舎臭いタイ料理店の天井にくっついている巨大な扇風機を眺めながら、「卒業したら数年の内に絶対に日本へ帰ろう」と改めてそう心に固く誓った。