2004年4月11日(日)

いま、僕は学校の暑期長期休暇とタイ正月休みを利用して、日本に一時帰国している。日本に戻ってきてからの10日間、休みなく友人たちに会っては終電まで飲むという生活を続けていたせいか、すっかり太ってしまった。

今日、ブワとその家族5人が日本にやってきた。一行はタイの旅行会社が主催する日本観光ツアーに参加して、5日間で東京ディズニーリゾートや富士山など関東甲信越圏の観光名所を見物する予定。ツアー料金はひとり約48,000バーツ(約134,000円)。今回の旅行の準備は2ヶ月ほど前から進めいていたそうで、タイ人が日本観光に来る際の最大の懸案となる入国査証(ビザ)も、ツアー会社に任せた結果、日本国大使館から面接調査されることなく、あっけないほど簡単にゲットできたという。国立大学に通う大学生にビザが下りやすいというのは、タイの観光業界では有名な話。

正午過ぎ、一行は成田・新東京国際空港に到着。皇居、渋谷、新宿などを観光バスで見物し、午後8時に宿泊先の新高輪プリンスホテルに到着した。

ブワによると、道中、タイ人ツアーガイドはろくに日本に関する説明をせず、オモシロ日本語講座でツアー客の笑いばかりをとっていたとか。日本語で「お冷や」を意味する「くっそー、このやろう(オーヒィーア)」という言葉が紹介され、それをひどく気に入ってしまったあるタイ人旅行者が、ご飯のお代わりが欲しいときにも「くっそー、このやろう」(お冷や)と連発していたために、結局おかわりにありつけなかったという。

一方、僕は友人と買い物に出かけていた有楽町から、電車に乗って品川駅前にある新高輪プリンスホテルにブワを迎えに行った。当初の予定では、一緒に新宿へ買い物に出かけたのちに、東京タワーとお台場も併せて見物する予定だったが、ツアーバスが予定を大幅に遅れてホテルに到着したため、新宿ショッピングと東京タワー見物を見合わせ、電車でお台場にあるパレットタウンへと向かった。

お台場の観覧車はタイ人にも有名らしく、ブワもイルミネーションの変化に見入っていた。彼女は僕の母からプレゼントされたばかりの200万画素デジカメ搭載型の携帯電話を駆使して、これ見よがしにバシバシと風景写真を撮りまくっていた。ブワによると、ツアーに参加していたタイ人女性ツアー客3人が初日の今日、さっそく脱走して行方不明になってしまったという。

ブワをホテルに送り届けて終電で帰宅した僕は、途中、最寄り駅の出口で10人くらいで営業活動していた中国語を母国語とする娼婦たちの姿を見て、改めて不法滞在外国人と苦境と、日本国内におけるアジア系外国人に対するイメージの悪さを痛感した。日本に本帰国するまで、外国人とは結婚しないというポリシーだけは絶対に守り抜きたい。

2004年4月12日(月)

ブワのツアー一行は、この二日間で富士山見物と温泉を堪能して、午後10時頃に新高輪プリンスホテルへと戻ってきた。今晩こそ東京タワーに連れて行こうと考えていたが、結局間に合わず仕方なくレンタカーで僕の実家に連れてきた。

ブワは僕の家族と英語で1時間ほど談笑したのちに、深夜の東京タワーを見物して、午前3時頃にホテルへと戻った。

ツアーガイドは、あいかわらず客からのウケを狙いまくって雰囲気を盛り上げるのに必死だったという。ところで、日本の温泉はやはりタイ人にとっては熱すぎるという。

2004年4月15日(木)

バンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)の税関は、タイ人に甘く、外国人に厳しい。もし、日本人が電気製品を工場出荷状態で持ち込もうものなら、エックス線照射機に通すよう指示され30-50パーセントの関税を請求される。タイでは交通違反と同じように賄賂で解決するという手段もあるが、手荷物検査場が衆人の目に付く通路上にあるため、賄賂を受け取ってもらうためには高度な交渉が必要となる。

今回、日本からタイに持ち込むのは、ラオス人、タイ人、カンボジア人クラスメイトから依頼された精密機械 Sony 製500万画素デジタルカメラ2台と、同200万画素デジタルカメラ1台の合計3台。うち1台は「梱包もそのままで」という指示を受けている(ほかの2台は国際電話で梱包の破棄許可を得ている)。そこで、2台はすぐに使えるような状態にしてカバンに詰め、残りの1台も同じようにカバンに詰め、包装を畳んで別の小さなカバンに押し込んだ。

成田空港をフラフラと散策していたところ、偶然ブワのツアー一行と遭遇した。懸案の荷物一式を預けてしまえば、何も思い悩む必要はない。そう考えて、デジタルカメラ本体をブワの家族に委ね、充電器などの同梱品をブワの妹のカバンに詰め込んだ。これで安心。入国時にタイ人の手荷物が調べられることなどまず考えられない。

(ここまで、ユナイテッド航空成田発バンコク行きの機内でワインを飲みながら記す)

輸入関税を払わずにデジタルカメラを持ち込む方法について、これまでさんざん悩みぬいたにもかかわらず、結局、僕の荷物はバンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)で調べられなかった。こんなことなら、工場出荷時のキレイな状態で持ち込めばよかった。約1時間遅れで到着したブワから預けていたデジタルカメラ3台を受け取った。

2004年4月16日(金)

ウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)。カンボジア国境に面したタイ東北部(イーサーン地方)の都市で、人口約178万人(2001年)。バンコクから陸路で約710キロ離れている。ベトナム戦争時に駐留米軍の基地として発展し、現在でもタイ空軍第22師団の拠点となっている。

この地域の観光は遺跡と自然。クメール帝国時代に建立されたプラーサート(王宮と寺院を兼ねたようなもの)が多数残されている。しかし、インドア派の僕が楽しめるようなものはない。だからこそ、この休暇を利用して友人と出かけることにした。この機会を逸したら、ここを訪れる機会など永久にないだろう。

午後5時31分、スクンウィット(スクンビット)13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート(スクンビットスイート)」を出発。南プルーンヂット(南プルンチット)入口からスィーラット(シーラット)都市自動車道を北上して、一路タイ東北部(イーサーン地方)の玄関口ナコーンラーチャスィーマー(ナコンラチャシマ)コーラート(コラート))へと向かった。

午後8時49分、日本料理屋「黒田」コーラート(コラート)店に到着。この店の値段はバンコク都内の日本料理店よりも若干割高感があるものの、料理の味は水準以上。この街でもまともな日本食にありつける。作業服を着た日本人客数人が店の前でカラオケスナックへ行く相談をしていたことから、ここにもバンコクの日本人向け歓楽街「タニヤ」を小さくしたような場所があることが分かる。

午後9時33分、店を出て、一路、今晩の目的地ウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)を目指して東進した。途中、コーラート(コラート)市内の分岐で誤った道を選んでしまったせいで、国鉄ヂャックラート駅(チャックラート駅)舎前の行き止まりで引き返し、30分かけてふたたびコーラート(コラート)へと戻り本来のルートに復帰した。

コーラート(コラート)からウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)へと伸びる国道24号線の全長は466キロ。片側一車線の街灯もない田舎道。しかも、タイ正月(ソングラーン(ソンクラン))で帰省していた人々の車列がバンコクに戻る渋滞が反対車線で発生しており、前方をゆっくりと走る大型トラックを追い越せずに苦労した。ところが、ブリーラム県(ブリラム県)に入ると、逆に前後を走るクルマが全くなくなり、暗い道を前照灯だけを頼りに推測しながら慎重に走らざるを得なくなった。

悪路のため到着が予定より大幅に遅れてしまった。さらに目的地ウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)と勘違いして、その手前の街「ワーリンチャムラープ」に迷い込んでしまい、結局ホテル「トーセーング・ウボン」に到着したのは翌17日午前5時を少し回って空が朝日でぼんやりと明るくなり始めた頃だった。

2004年4月17日(土)

ウボン人(ウボンラーチャターニー人)はバンコク人のように豊かじゃないから、みんなバイクで移動してるんだけど、日中は陽射しが厳しすぎて外出する気になれない。今頃みんなおとなしく部屋で寝てるんじゃないかしら。日が翳りだした頃に起きて、ディスコやバーに繰り出すのがウボン人(ウボンラーチャターニー人)のスタイル。日中の娯楽といえば、映画館くらい? でも、夜の人気スポットは結構たくさんあって、ディスコ Rocks とか U-Bar とかが流行ってるみたい。自分の目で確かめて、気に入ったほうに行くといいわ。時間つぶしに困ってるんなら、郊外の自然探索なんかお勧めよ」

アイスクリーム屋 Swensen’s(スウェンセンズ) 、午後2時。ウボンに住む若者の行動傾向について、女性アルバイト店員がこう説明してくれた。そのとき、僕たちはどこに行こうかと話し合っていたが、一向に答えが出ずに困っていた。ウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)の中心部に片側3車線の大通りが走っているが、これといった商業施設もなく時間のつぶしようがない。

僕たちは昼前に起きて、クルマでウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)県の県都(アンプームアング)中心部にあるショッピングセンター Robinson(ロビンソンデパート) へと向かった。隣接するビザチェーン店 The Pizza Company(ザ・ピザカンパニー) で昼食をとり、さらにその隣にある甘味処チェーン Swensen’s(スウェンセンズ) でデザートを食べた。

この街で日中にするべきことは何もないということを悟った僕たちは、昨晩の長距離ドライブで疲れ切った体を癒すために、スパへオイルマッサージを受けに行った。
夕方、現地に住む友人と昼食をとり、 Soi Standard(ソーイ・スタンダード) という路地を案内してもらった。知り合いによると、この通りに住んでいる住民のほとんどが娼婦(売春婦)で、フツウの一戸建て(俗に言う「置屋」)で性的なサービスを提供しているという。値段は400バーツ前後だが、大半が30-40歳台。ここに来るようなヤツの気が知れない。
 
その友人をウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)中心部の実家まで送り届け、僕たちはこの町の最高級ホテル「ネバダ・グランド」にチェックイン。そのとき、 Swensen’s(スウェンセンズ) で紹介してもらったディスコが、ホテル地階にあることに気付いた。

その後、ウボンラーチャターニー短期大学(ウボンラチャタニー短期大学)の学生をナンパして、午前6時まで市内のホットスポットを紹介してもらった。

ウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)市内の若者たちが集まるスポットは、ホテル「ネバダ・グランド」前の ศูนย์รวมความบันเทิง เนวาด้า(スーンルワムクワームバントゥーング) (ネバダ複合娯楽センター)の一帯。

2004年4月18日(日)

正午過ぎにウボンラーチャターニー(ウボンラチャタニー)の街を出発して、一路バンコクを目指した。途中、片側一車線の国道24号線を逆走してくる高速バスと何度も正面衝突しそうになった。バンコクまで残り210キロの地点にあるサラブリー付近まで戻ってきたところで昨晩ナンパしたコからの電話があったが、さすがに500kmもの距離を引き返す気にはなれなかった。

午前零時前にバンコク到着。この時間になると、フツウのマッサージ屋はどこもシャッターを下ろしている。そこでラッチャダーピセーク通り(ラチャダー通り)界隈にある怪しげなマッサージ屋に入り、赤いひな壇からマッサージ師を選ぶという貴重な体験をした。料金は2時間300バーツ。マッサージ師は山岳民族の若い女性だった。追加的な特別(性的)サービスなどは勧められなかったが、終了間際になって「わたしの部屋に来ないか」と誘われた。その誘いに体力的な理由で応じられない自分を不甲斐なく思った。しかし、こういった産業に従事している人々に対してはどうしても HIV キャリアではないかという懸念が残る。もし元気があっても、これだけはやめておいた方がよい。

2004年4月19日(月)

ブワに会って、彼女が日本滞在中に撮影した写真を見せてもらった。

2004年4月20日(火)

午前10時、クラスメイト25人がバンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)の出発ロビーに集合した。今回の調査旅行は、東南アジア研究科の学生全員に参加が義務づけられており、欠席すると修了できなくなる。予算はひとり65,000バーツで、全額が研究室の予算から支出される。外国人学生の大半が、昨晩または今朝未明に母国からバンコクに戻ってきたばかりで、みんなひどくグッタリとしている様子。

午前12時15分、僕たちはプレジデント航空876便でバンコクから飛び立った。13時25分、カンボジアの首都にあるプノンペン・ポーチェントン国際空港に着陸。後発開発途上国とはいえ首都の空港だけあって、小規模ながらも整備が行き届いている。空港から老朽化が激しい大型観光バスに乗ってプノンペン市街へと向かった。

プノンペンは、メコン川、トンレサップ川、バサック川が合流する海上交通の要衝で、人口約99万人。ノロドム王によって建設された1866年以降、今日までこの都市はカンボジア王国の首都であり続けている。

トンレサップ川に面したカンボジア料理店「トンレ」で昼食をとった。ヴェトナム人クラスメイトによると、カンボジア料理はタイ料理よりもヴェトナム料理に似ているそうで、味もヴェトナム人を満足させるレベルにあるという。しかし、タイ人クラスメイトは不慣れなカンボジア料理を嫌い、店外にあるグワイッティアオ(クッティオ)(タイ風ラーメン)屋台に殺到した。

食後、僕たちは王城「カンボジア王宮」へと向かった。1919年にフランス人建築家によって建設され、現在でも国王と王妃の居住と公務の場となっている。典礼施設のほか、歴史的にも貴重な国家遺産を見て回ることができる。仏教寺院「シルバーパゴダ」に隣接しており、カンボジア人ガイドによるとタイの王宮建築の影響を受けているという。

その後、国立博物館で国内各所から発掘された銅像や壁画などの解説を受けてから、1時間ほど船に乗ってたどり着いたメコン川畔の海鮮料理店「ラムチョング」で夕食をとり、今晩の宿泊地ホテル「プノンペン」へと向かった。

タイの教育機関が主催する調査旅行だけに、てっきりひどいホテルに泊まらせられると思っていたが、ホテル「プノンペン」は贅を尽くした超高級ホテルだった。カンボジア人ガイドによると、宿泊料金は一泊100ドル前後。

日本で買ったデジタルカメラの使い方を深夜までクラスメイトたちに教えてから自室へと引き取った。

2004年4月21日(水)

朝、 CKS クメール研究所で、カンボジア遺跡についての講義を受けた。各時代の彫刻の特徴などについて学んだが、まったく理解できなかった。クラスメイトたちも退屈しているようで視線が宙を彷徨っていた。

昼、ホテル Juliana Hotel Phnom Penh(ジュリアナホテルプノンペン) のレストラン VANDA (ヴァンダ)で7ドルのランチビュッフェを食べ、シャワーを浴びるためにホテルに戻ってから、ポルポト時代の粛清と虐殺の歴史を今に物語るトゥール・スレン虐殺博物館を見学した。

この博物館は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党, ポル・ポト派)支配下のカンボジアに設けられた政治犯収容所 S21 を、侵攻してきたベトナム軍が発見して一般公開したもの。中等教育学校の校舎を改装して作られ、クメールルージュ党内の反革命分子をはじめ、教員、学生、資本家など約20,000人が収容され、少なくともその99.97%が処刑されたという。館内には多くの拷問器具、大小さまざまな独房、処刑された人々の写真などが展示されている(あまりにも気分が悪いので、館内で撮影した写真はすべて削除した)。

その後、市場「ロシアンマーケット」でカンボジア語フォント CD-ROM (1ドル)、カンボジア語学習 CD-ROM (1ドル)、扇子(1ドル)を購入。ふたたびホテルへと戻って今日3回目のシャワーを浴びた。主任教官から「CKS クメール研究所の研究員たちとの親睦会があるため、フォーマルで見栄えの良い衣服を着用するように」と指示を受けた。

ビュッフェ形式のディナーを食べ、カンボジア国産ピール「アンコール」を飲みがらクメール研究所の研究員たちと話を弾ませた・・・・・・と書きたいところだが、彼女たちの英語力は凄まじく低く、ロクに会話にもならなかった。彼女たちは他に職業を持ち、夜間の時間帯を利用して勉強に励んでいるという。そこで「あなたが日本人だと聞いて・・・・・・」といって近づいてきた若くて美しい学生もいたが、僕は肩をすくめて手早く会話を切り上げ、足早にゲートの外に脱出した。食後、カンボジア様式なのかタイ様式なのかも分からない意味不明なフォークダンスを踊ってホテルへと戻った。

今日は朝のシャワーを含めて、1日4回ものシャワータイムが用意された。照りつける灼熱の太陽と、未舗装路を走るクルマが巻き上げる砂埃のせいで、シャワーを浴びてスッキリしたいという欲求を常に感じていたが、同時に「どうせシャワーを浴びたところですぐに汚くなってしまうだろう」という諦めの気分もあった。

深夜、CKS クメール研究所の研究員から紹介してもらったディスコ Heart of Darkness にクラスメイトたちと繰り出した。 DJ の腕は最高にヘボかった。曲と曲とをつなぐときに空白の時間ができてしまうのには正直あきれ果てた。しかし、ここプノンペンでは外国人や娼婦(売春婦)が集まるディスコとして定評があるらしい。そこで偶然「一生プノンペンに住み続ける」という日本人に出会った。なお、ベトナム人クラスメイトによれば、ここの娼婦(売春婦)の相場は20ドル。僕なら特別に15ドルまで負けてくれるという。

カンボジア人クラスメートからの忠告がある。

「おそらく君はバンコクの事情には精通しているだろうが、ここはバンコクじゃない。まずはその点を確認しておいてくれ。バンコク都内の娼婦(売春婦)もかなりの確率でエイズに感染しているが、プノンペンはその比ではない。娼婦(売春婦)を見たら、まずエイズ患者と思って間違いない」

2004年4月22日(木)

いよいよ今日から本格的な遺跡調査が始まる。とはいえ、僕たちにはカンボジア考古学の専門知識がないため、せいぜい観光ガイドブックの解説を元に見て回るのが精一杯だろう。

※ このシリーズでは、タイ語表記を元に日本語に起こしています。これは、筆者がタイ語環境のなかで遺跡を回ったからです。そのため、日本で一般的に用いられている英語発音から起こした名称とは異なります。カンボジア人クラスメイトによれば、英語発音よりもタイ語発音のほうがカンボジア語発音に近いそうです。

ひとつめの遺跡は、今晩の宿泊地ガンポントム(コンポントム)の北約100キロにある遺跡群「サンボー・プレークック」。西暦7世紀初頭に国王イシャーナヴァルマン一世が建立した。今回の調査旅行に同行しているマイケル・ヴィクリー博士(カンボジア考古学)によると、遺跡を見るときには①建築技術による年代の推定と②壁画装飾による宗教文化の伝播に注目しなければならないという。壁画に描かれている神と「その他のオブジェクト」との位置関係などが重要な手がかりになるというが、ヒンズー教に疎い僕にはさっぱり理解できなかった。

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040422-2.jpg" width="300" height="169" align="right" />夜、カンボジア中央部にあるガンポントム(コンポントム)市街のホテル「スタングセン・ロイヤルガーデン」に宿泊。ひどい客室と、ひどい料理、黄色いシャワーなどは、僕たちをひどくウンザリさせた。それでも、ここは後発発展途上国の地方都市。ホテルに冷房があるだけでもラッキーだったかも。

2004年4月23日(金)

クラスメイトたちは、僕の旅行カバンを「ゴミ袋」と呼んでいる。由来はゴミ袋(黒, 45リットル用)のなかにカバンが入っていることから。

カンボジアの都市と都市とのあいだを結ぶ主要幹線道路は、ほぼすべてが未舗装路。この国で道路が舗装されているのは、せいぜい首都の近郊と地方都市の中心部くらいのもの。物流の大動脈である国道6号線(プノンペン - タイ・アランヤプラテート間)も例外ではなく、僕たちを乗せたバスは未舗装路にできた凸凹を避けながらジグザグに走っている。車内はまるでトランポリン。ろくに昼寝すらできない。

交通量が多く、沿道に住む人々は一日中砂埃を被りながら生活している。僕たちが乗っているオンボロ観光バスの貨物室にも大量の砂埃が侵入してしまう。だから、僕はこうしてカバンをゴミ袋に入れて砂埃から守っている。

幹線道路に架けられている橋は、非常に簡素で強度もない。そのため、複数のクルマが同時に通過するのを防ぐために、あえて狭く作られている。沿道の家々には電力をはじめ、上下水道や都市ガスなどの基本的なライフラインが普及しておらず、人々はまるで原始人のような生活を送っている。カンボジア人ガイドによると、アンテナが立っている家屋がちらほらとあるが、ほとんどは自家発電で電力をまかなっているため、電力を大量に消費するカラーテレビは使えず、今でも白黒テレビが活躍しているという。

何時間も車外の風景を眺めていると、それぞれの集落に共通した特徴を発見した。集落の入口には政党の看板が掲げられており、まるでその政党が集落全体を支配しているかのよう。実際に各集落にある政党事務所は、集落一の有力者の(一番大きくて一番豪華な)家がほとんどだ。

今日はアンコール遺跡群西部にある西バライ(仏教様式, 11世紀末にスールヤヴァルマン一世とウダヤーディティヤヴァルマンにより建立)と、アック・ヨム(ヒンドゥー教様式, 7世紀初頭に建立)を見学した。

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040423-4.jpg" width="300" height="169" align="right" />ホテル「シティ・アンコール」にチェックインしてシャワーを浴び、レストラン「バイヨンⅡ」でカンボジア固有の伝統芸能「アプサラ」を見物した。

今回の調査旅行に同行しているヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)大学院准教授(政治学)の話。

「我々タイ人にも、ラーマギアン(ラーマキエン)(タイ伝統舞踊)とアプサラ(カンボジア伝統舞踊)の違いがあまりよく分からない」

2004年4月24日(土)

朝からシアムリアップ(シェムリアップ)市内の小学校敷地内に設けられた「アンコール研究所」に閉じこもり、一日中カンボジア考古学の講義を受けていた。休み時間になって消化不良のまま屋外に出ると、近づいてきたベトナム人クラスメイトがポツリと呟いた。

「今日のレクチャー、理解できた?」

英語が堪能な奨学生でも分からないものが、僕なんかに理解できるはずがない。そもそもフランス人の英語のクセがあまりにも強すぎる。

僕たち東南アジア研究科の一行は、シアムリアップ(シェムリアップ)市内から約4キロも離れている市内最大級の高級ホテル「シティー・アンコール」に宿泊している。カンボジア人ガイドによると、1泊(1部屋)120-135ドル。<このホテルはRUBY>シアムリアップ県(シェムリアップ県)選出の有力国会議員が経営しており、同議員は遺跡へと通じる私道を敷設してそこから通行料も得ているという。海外からの援助金が、こうした私的な事業にもふんだんに使われる。

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040424-3.jpg" width="300" height="169" align="right" /> ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)は「お堅い」ことで有名だが、そのなかでも東南アジア研究科は特にハイソなタイ人学生の集まりのせいか、時には粋な計らいをしてくれる。今晩午後5時から7時までの2時間、お洒落なバー FCC でのカクテルタイムが設けられた。久々に飲むマルガリータは、まさに砂漠の中のオアシス。

2004年4月25日(日)

「シヴァリンガの長さについて話すのは一切禁止! 勉強しようという意欲が一気に失せるから本当にやめてよね」

シヴァリンガとは、ヒンドゥー教寺院に神体として安置されている礼拝の対象。方形の「ヨーニ」(女性器の象徴)の中に円柱の「リンガ」(男性器の象徴)が立っている。これはシヴァ神が性交しているところを女性器の内側から見たもの。

今日のプレゼンテーションは僕たちの担当だった。パノムグレーン(プノンクレン)滝の上流に、「1000体のリンガ」が刻まれている川がある。シヴァリンガの長さは通常数十センチはあるが、当時の技術では川底の岩を20センチ以上削ることができなかったため高さ10センチ以下のリンガが大半を占める。

パノムグレーン(プノンクレン)の滝は人気のピクニック上のようで、ピクニック小屋や食堂が豊富。僕たち一行は、ピクニック小屋2棟を借り切って昼食をとった。

その後、ロールワイ遺跡群にあるプラーサート・バークゴーング、プラーサート・プラコー、プラーサート・ロールワイなどを見た。夕食をレストラン&バー FCC でとった。現地で遺跡を調査しているフランス人研究者によると、この店は NGO や政府機関の外国人に人気があるという。

2004年4月26日(月)

考古学者による解説を聞きながら遺跡めぐりをしていると、次第に「考古学とは何か」という疑問が強くなっていく。

カンボジア史については、文字による史料がほとんど残されていない。だから遺跡の建築様式から年代を特定して、その時代の政治や文化の姿を推定している。ところが、考古学者にどんな質問をしても、返ってくる答えは常に「学者のあいだでも意見が分かれていて正確なところは分からない」という生ぬるいものばかり。カンボジア考古学は19世紀のフランス領インドシナ時代から続けられているそうだが、200年ものあいだ学者たちはいったい何を見て何を研究してきたのか。

考古学とは、正体不明な遺跡を前に、同年代に書かれた他国の文献を参考にして、なんとなく辻褄を合わせながら、男たちが過去に思いを馳せる歴史物語のことなのか? 日本人として、豊富な史料に裏打ちされた歴史を学んできたせいか、このような根拠の薄い仮説や伝説を聞かされ続けるのには強い違和感を感じる。

僕は考古学を専攻したことはないし、この分野に関する知識もほとんどない。だから、このような疑問は考古学者を逆上させるだけの極めて的外れなものかもしれないが、どうしても僕にはこれらがロマンの域を越えているとは思えない。

今日の遺跡はつぎの6ヶ所。プラーサート・パックシーヂャムグロング、プラーサート・東メーブン、プラーサート・バンターイサリー、プラーサート・パープワング、プラーサート・ピマーンアガート、プラサート・バンターイサムレー。遺跡めぐりの毎日にもそろそろ食傷気味。

2004年4月27日(火)

「大東亜戦争に対する償いって、いまでもこんなに大規模にやってるんだぁ。アジアの優等生である日本国クンも、けっこう大変な思いをしてるのね~」

今回の遺跡めぐりでは、教員・学生・添乗員ら総勢25人が①英語バスと②タイ語バスの2台に分かれて行動している。日頃から英語に悩まされ続けている僕にとっては、まさに渡りに船。タイ語バスの存在を知らされてから、すぐに英語バスから乗り換えた。タイ語バスでは、特にタイ語を使うことが強制されているわけではないが、カンボジア人ガイドがタイ語で説明してくれるし、各学生に割り当てられているプレゼンテーションもタイ語ですることが認められている。

ナコーンワット(アンコールワット)では現在、大規模な修復工事が行われている。その前を通りかかったとき、カンボジア人ガイドが「これは第二次世界大戦時に日本国が東南アジア諸国の人々を苦しめたことに対する補償の一環として行われているものです。日本政府はカンボジアに年間10億ドル規模の無償資金援助を行っています」と説明した。冒頭の言葉は、それを聴いたときのタイ人学生の驚きの声。

これまで僕は政府開発援助を、日本に対する国民感情にプラスの効果をもたらし、外交的にも日本が旧宗主国のような影響力を行使するための手段と信じてきた。ところが、これが「東南アジア諸国に対する償いの行為」と受け止められると、何のために援助しているのか説明がつかなくなる。効果が不確かな政府開発援助なんてすぐにでも中止して、ただちに国内の景気刺激策にまわすべきだ。でも、この種の制度は日本国内の有力者のためにあるようなものだから、そう簡単に廃止できるはずもない。

今日の遺跡はつぎの2ヶ所。ガバーン・スピアンとプラサート・ブングミーリア。

2004年4月28日(水)

今日は、今回のカンボジア調査旅行のクライマックス。

午前6時起床。7時過ぎにそろそろ飽き始めてきた感のあるビュッフェ形式の朝食をとり、8時にタイ語バスに乗って、プラサート・ターゲーオを見て回った。
 
 
昼食後、カンボジア遺跡でも最も壮麗で歴史的価値が高いとされるアンコールワット(プラーサートヒン・ナコーンワット)へと向かった。毎年、ここを多くの日本人観光客が訪れる。しかし実際に行ってみると噂ほどではなかった。第1回廊にインド古代の叙事詩「マハーバーラタ」と同じインド古代の叙情詩「ラーマヤナ」の壁画が描かれているほかには、基本的にこれまで見たたくさんの遺跡と何も変わらない。他の遺跡よりも比較的規模が大きく、単に修復工事が進んでいるというだけ。個人的には、未だ復旧プロジェクトが組まれておらず、発見された当時のままの姿で残されているプラーサート・ブングミーリアの方がよほど興味深い。

「一生に一度は訪れてみるべき」といわれているアンコールワットだが、本当の意味で興味深いのは遺跡の歴史的価値なのか、それともシエムリアップの街の観光資源なのか。もし後者であるとすれば、日頃から発展途上国に住んでいる僕にとって、それは何の変哲もないツマラナイ「日常的風景」にすぎない。

夕食後、クラスメート6人でバックパッカー向けのゲストハウス街にあるナイトクラブ Angkor What? The Night Club(アンコールウァット?) へと繰り出した。

2004年4月29日(木)

昨日までの8日間、僕たちは15ヶ所もの遺跡を炎天下「登って」きた。カンボジア遺跡に対する新鮮な喜びなどとうの昔になくなっている。

カンボジア遺跡は、その時代の権力者が階段を登って中央祠堂まで行けるように設計されている。しかし、その階段の段差があまりに急で、ロッククライミングのような姿勢で慎重に登らなければならない。しかも、登るのはまだマシで、下るときには決死の覚悟が必要だ。観光客に人気があるアンコールワット(プラーサートヒン・ナコーンワット)などの大型遺跡では、年に何件もの転落死亡事故が発生している。

今日の遺跡はつぎの4ヶ所。プラーサート・ターポーンホム、プラーサート・プラカン、プラーサートナートパン、プラーサート・バンケークドーイ。

昨日までは、カンボジアの古典舞踊「アプサラ」や、それに関連する見せ物がある店で夕食をとっていたが、旅行も終盤に近づき宿泊先のホテル「シティーアンコール」で美味くもないビュッフェを食べることになった。

こうも毎日、朝昼晩とビュッフェ料理ばかりを食べていては太ってしまいそうで困る。

2004年4月30日(金)

日本人愛国主義者説。タイ人とフツウにコミュニケーションがとれる日本人であれば、バンコク生活のなかで一度は聞く仮説もしくは風評。その根拠は、日本人が日本製品をこよなく愛し、日本国に対して絶対の自信を持っていること。

個人的には、この仮説は間違っていると思う。一億層中流と信じている日本人が、単に「自分は中流である」という夢や妄想を満たすために、自分以下の人を見つけては差別的に扱うことに喜びを見いだしているにすぎないのではないか。本当は「日本人は愛国主義者などではなく排他的な差別愛好家だ」と自分の意見をストレートにぶつけてみたいところだが、まさか国力に大きな隔たりがある国の人々に対してこのような主張を唱えられるはずもなく、タイ人にこの仮説を聞かされるたびに僕はいつも俯いて黙り込んでいる。

今日の遺跡はつぎの7ヶ所。アンコールトム(アーナージャック・ナコーントム)、プラーサート・バーヨン、ワット・トーリーゲート、プラーサート・チャルング、ピマーンアーガート、プラーサート・テープパノム、プラーサート・プラーサート・プレーパリライ。すでに忘却の彼方にある遺跡も何カ所かあるが、僕のメモによると今回のカンボジア遺跡調査旅行では少なくとも25の遺跡を回った。クラスメイトたちも遺跡にはもうウンザリといった様子で、研究者(カンボジア考古学)の解説を無視してダラダラと無駄話ばかりをしている。

今回の遺跡めぐりについて、タイ人クラスメイトはこう話している。

「まだ徴集兵として軍事教練を受けていた方が楽でいい。機関銃をぶっ放してさえいればよく、こんな長時間にも渡って直射日光にさらされることもないし、こんな長距離を歩かされることもない」

今回のカンボジア旅行で僕はすっかり日に焼けてしてしまった。一見しただけではタイ人との見分けが付かないかも。