2003年2月1日(土)

「その写真、もしかしてもうエーンに見せちゃった?」

ペッブリー(ペチャブリー)18にあるアパート「ヴェネチアレジデンス」の644号室。珍しく制服姿のまま僕の部屋にやってきたジョーイがパソコン画面をのぞき込むや否や、そう尋ねてきた。その写真は、日本人の友人がメールに添付して送ってきたもので、一目見ただけでカンボジア人暴徒がタイ国王の肖像を踏みつけているのものとわかる。

「さすがに、この写真はタイの新聞に掲載されないでしょうね。不敬罪(タイ刑法112条)とかいう以前の問題として、読者からの抗議の電話で新聞社の電話が鳴りやまなくなるから。そういえば、数ヶ月前にあった『アメリカのタイ料理屋が陛下の肖像を部分的に改変して掲載したニュース』を知ってる? あのときも、何万というタイ人が結束して、その不届きものに大量の抗議のメールを送りつけたのよ」

覚えている。その晩、エーンは国王の肖像が改変されたホームページを見ながら涙を流し、友人たちに抗議行動を起こそうと、パソコンにかじりついてメールを送り続けていた。それを思い起こすと、この写真をエーンに見せることが、どれほど愚かなことか容易に想像できる。

そのとき、シャワー室にいたエーンが部屋に戻ってきた。僕は大急ぎでその画像を閉じ、エーンに気づかれないように頭を小刻みに左右に動かして、ジョーイに「まだだ」ということを伝えた。

いずれにしても、八つ当たりされるのはどうせ僕だ。いいことなんて何もない。

今晩、「タイ人のカンボジア観」について、エーンと2時間も議論した。ひとことで総括するならば、それは「日韓関係」そのもの。そのときの内容を詳細に書きとどめておきたい。

「そもそもカンボジアって鬱陶しいのよねえ。知ってるでしょ? 彼らは国内で十分な工業製品を生産できないものだから、何から何までタイからの輸入に頼っているのよ。牛乳もそうだし、タワシだってそう。カンボジア国内に流通しているのはすべてタイ製品。そんなタイに依存しきっている国の大衆が 『我々はタイ人よりも優れた民族』 だって? 大笑いだわ。カンボジア人は何をもって 『タイ人よりも優れている』 と主張しているのかしら? 何もないじゃない。まったく話にもならないわ」

僕は試みに「歴史的観点から見たカンボジア文化の優越」を唱えてみることにした。論拠は①カンボジアには紀元前一世紀から続く長い歴史があることと②カンボジア人王朝「クメール帝国」が一時この東南アジア大陸部一帯を支配していたこと。ひるがえって、タイの歴史は700年しかなく、しかもそれ以前はどこで何をしていたのかも推測の域を超えない。

多くのタイ人がそうであるように、エーンも普段は歴史的な話題を避けている。しかし、さすがに今晩に限っては積極的に議論に応じてきた。なにしろタイ人の誇りと名誉がかかっている。もう必死になってタイ人の優越を唱えるしかない。

日本人に足りない愛国心が、タイ人にはある。しかも、その思いはとんでもなく強い。そのことだけは絶対に忘れてはいけない。

「えっ? わたしたちタイ人がいつカンボジアに後れをとったというの? タイはアユッタヤー朝末期のほんの短期間ミャンマーの植民地になったことがあったけど、まあそれはなかったのも一緒よね? でも、カンボジアは中世以降ずっと西洋人の植民地のままだったじゃないの!」

ここで、カンボジアの略史を紐解いてみたい。これは、エーンとの論争のあとで、どうしても気になって様々なカンボジア関連のホームページから収集し再構成したもの。

カンボジア略史

紀元前1世紀に現在のベトナム・ホーチミン市を中心とするクメール(カンボジア)族国家フナン(扶南)が誕生。貿易国家として栄えたが、7世紀中頃に対立するジャワ族の真鑞国に滅ぼされる。
西暦802年、ジャヤバルマン2世がカンボジア一帯をジャワ系王朝から解放し、クメール王国(別名:プレ・アンコール朝)を建国。ハリハラーラヤに都を建設した。
12世紀に入ると、スールヤヴァルマン2世がアンコール(現在のシアムリアップ)に遷都。アンコールワットをはじめ、数々の歴的建造物を建設した。この時期から、東の隣国「チャンパ」(ベトナム族)、西の隣国「アユッタヤー」(タイ族)、北西のミャンマー族隣国などから侵略を受けるようになる。
1201年、ジャヤバルマン7世の死で急速に国力が衰え、いままで王権により手厚く保護されてきた小乗仏教に代わってヒンズー教が台頭。アンコール遺跡の仏像などが取り壊された。
1432年、アユッタヤー朝(タイ族)に首都を脅かされたため、現在のカンボジア王国の首都「プノンペン」に遷都。
1863年、フランスの植民地となる。
1953年、国王シアヌークが独立を宣言。国号をカンボジア王国と定めるが、1970年にロン・ノルによってクメール共和国と改められた。1975年にはクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が政権を収奪し、国号をカンプチア民主国に改め、厳格な社会主義政策を実行した。この中で、様々な文化的活動が抑圧され、国内のほとんどの知識人が虐殺された。
1979年、ベトナムによるカンボジア侵攻を受け、国号をカンプチア人民共和国に改称。国連の介入でカンボジア王国が成立する1989年まで激しい内戦状態に陥った。

僕は高校時代に世界史Bの授業で習った東南アジア史を思い出しながら、さらにエーンに反論を続けた。今晩は珍しくエーンが歴史の話題に乗ってきただけに、僕は話題を紛糾させたいという欲求をここぞとばかりに追求した。

――中世にはタイを含め東南アジア全域がカンボジア人国家の「クメール王国」に支配されたって、高校の教科書に書いてあったけど?

「されてないもん。タイが植民地に陥ったのはミャンマーにアユッタヤー朝を滅ぼされた時の1度だけだもん」

――この一帯もクメール王国に支配されてたよ?

「そのころ、タイ人はここにはいなくて、もっとずっと北の方にいたのよ。この地がカンボジア人のものだったのは確かかもしれないけど、わたしたちタイ民族がカンボジア人に支配されたなんてことは一度としてないわ」

なるほど。そういう論法があったとは。ちなみに、そのクメール王朝が栄華を極めていた頃にタイ人が何をしていたかというと、北方の誰にも支配されない小さな村で細々と生活していたという。

「実際、カンボジア人はケイイチが言うように 『わたしたちは歴史的に優れている。タイ人はカンボジアの英知を盗んだ!』 と主張しているんだけど、過去における繁栄と未来における繁栄をどうやって比較しろというの? それ自体、かなり無意味なことだけど、強いて言うのなら私は未来の方が重要だと思うわ。そもそも、植民地に陥って以来、同じ民族同士で醜い争いを続けてきたせいで発展できなかった間抜けなカンボジア人に、わたしたちをとやかく言う資格なんてないはずよ。でも、わたしたちタイ人が単に恵まれていただけかもね。国王陛下がいらしたおかげで、幾度もの内戦の危機を乗り越えてこられたんだから。本当に感謝しなくっちゃ」

そして、エーンはこうまとめた。

「タイは国民総生産でカンボジアの380倍、ひとりあたりの所得でも7倍あるの。まったくライバルにもならないわ。べつにカンボジア人が勝手にタイをライバル視するのは構わないけど、よくよく考えてみると、それってタイ人にとってはけっこう迷惑な話よね?」

どこの国にも似たような問題があるようだ。ちなみに、日韓の国民総生産格差は約12倍、ひとりあたりの所得格差は約4倍。さらに付け加えるならば、日タイ間の国民総生産格差は約34倍、ひとりあたりの所得格差は約16倍。

国家間の民族差別問題って、根っこはけっこう深いところにあるのかもしれない。

2003年2月2日(日)

日本人の友人に誘われて、タイ人の家でのタコ焼きパーティーに参加することになった。

日本でしか調達できないタコ焼き専用の鉄板と食材は、日本から戻ってきたばかりの友人が用意してくれた。そこで僕たちは、バンコクにもあるタコなどを買ってから、タクシーでヂャーオプラヤー(チャオプラヤ)川の西側にあるガセートサート(カセサート)大学の学生の家へと向かった。

この学生の父親は警察で大佐の階級にあり、同時にこの村の村長を務めているという。大富豪の豪邸という雰囲気ではなかったが、今まで行ったことのあるタイ人の家とはひと味違かった。

食べきれないほど大量のタコ焼きを食べてから、セントラル百貨店に寄って帰宅した。

2003年2月3日(月)

ラームカムヘーング(ラムカムヘン)大学の学食で働いているおばちゃんの月給、いくらか知ってる? たったの500バーツよ。2,000バーツももらってればまだいい方なんじゃない?」

MBK マーブンクローングセンター(マーブンクロンセンター)の日本料理店 ZEN 。僕が昨日遊びに行った警察大佐の家で働いている使用人の給料の話をしたところ、エーンはこう応じた。ちなみに、その使用人は母屋の隣にある広さ4畳程度の離れに住んでいる。食事代をはじめ家賃などはすべて雇用主の負担。つまり、無駄遣いを1バーツもしなければ、その使用人は月給の2,000バーツをまるまる貯金に回すことができる。

エーンによれば、中流家庭で働く使用人の大部分が(タイより貧しい)隣国からの不法労働者。不法労働希望者の数が求人の数によりも圧倒的に多いこともあって、安い賃金で働くことに甘んじざるを得ないという。ちなみに、その家の使用人はミャンマー人だった。

ここバンコクには数多くの日本人労働者が住んでいる。彼らは日本国内の企業から派遣されてきた「駐在員」と、バンコクで採用されて働いている「現地採用者」に分けられる。この両者のあいだには、同じ日本人であるにもかかわらず待遇に歴然とした格差がある。賃金だけを見てみても、駐在員は日本で働いていたときの1.5~2倍の所得を得ているが、現地採用者は日本で働いていたときの3分の1ももらえればよい方だといわれている。

しかも、同じ日本人現地採用者のなかにも格差がある。バンコクにおける日本人の月給は15,000バーツ(45,000円)から60,000バーツ(180,000円)が相場。45,000バーツが標準的な月給といわれており、70,000バーツももらえば「かなり良い」部類に分類される。ボーナスの相場は1ヶ月。国民皆中流の日本人社会の考え方では受け入れがたいことかもしれないが、ここバンコクの労働市場での待遇は極端な能力主義によって決定される。

友人の会社社長曰く、

「タイの最高学府ヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)大学卒の労働者でも新卒者なら月々15,000バーツで雇えるんだよ? 彼らはなんだかんだいっても頭が切れるし、業務の飲み込みも早いからとても重宝するんだ。それにしても、バンコクにゴロゴロしているあの日本人たちはいったい何なんだ? 何の取り得もない労働者を、なぜ日本人という理由だけで30,000バーツも出して雇ってやんなきゃいけないんだ? チュラ大卒の労働者2人を雇った方が何十倍も絶対に得だ」

この日本人社長によれば、経理なら日本人がやらなくてもタイ人でも出来る。それなら賃金が安くて質も高いタイ人複数を雇った方が、日本人を雇うよりも効率的だということらしい。

バンコクにおける労働市場は、日本人にとって相当厳しいもののようだ。べつに月々の所得が15,000バーツでも良いなら話は別だが、いい話なんてそうそう転がってない。やはり、現地採用者として働くのであれば、まずは広い人間関係を作って、雇用者と知り合うというかたちで就職するのが、良い待遇への近道なのかもしれない。

ちなみに、僕は「タイ語を(で)同時通訳できます」という程度。こんなことでは高給なんてとても期待そうにないから、何らかのかたちで人間性を見て雇ってもらうという以外の選択肢がない。

就職活動とは、自分が「労働市場」に参入しようとする行為である。同時に、いかに自分を「貴重な資源」と思わせるのかが重要なポイントとなる。少なくても、このバンコクではそう断言できる。

2003年2月4日(火)

今晩、日本に一時帰国していた友人2人がバンコクに戻ってきたということで、タニヤのカラオケスナックで「おかえりなさいパーティー」をした。

その中で、僕は友人とやたら複雑な金融関連の話題に花を咲かせていた。

2003年2月5日(水)

ホステスをクビにするのも簡単。ホステスが仕事を探すのも簡単。

日本人向けの夜の歓楽街タニヤにあるカラオケスナックの2階大部屋。店主からの依頼を受けて午前2時の閉店後、僕はタイ語でホステス全員にクビを通告した。彼女らの反応はさまざまで、自らの実績をアピールして残留を主張する者、長きに渡る信義を裏切ったと抗議する者、あっさりと荷物をまとめて店を出て行く者など十人十色。結局、ホステス総勢24人のうち、店にとどまったのはたったの4人。今後の経営が思いやられる。

その後、店にとどまったホステスたちと屋台でビールを飲みながら午前5時半まで話し続けた。この店の雰囲気は好きだったが、店を移ること自体はそう難しいことでもないという意見が大勢を占めた。今晩は「タニヤ嬢の労働観」を知る上で有意義な夜となった。

今日は正午過ぎに友人が経営している会社に遊びに行った。タイ人の業者が出入りするということで、コミュニケーションに誤解が生じないようにしてほしいという依頼だった。そして、日にちが変わる寸前にタニヤのカラオケスナックの店主から電話で呼び出され、5分間タイ語を話し続けるという仕事を与えられた。報酬は1,000バーツ。飲み代は全額店側の負担。

2003年2月6日(木)

昨晩、タニヤの屋台でホステスたちと朝までビールを飲み続け、さらにアパート1階の駐車場で飲んでいたタイ人の一団から安ビール Leo (大瓶39バーツ50サタング)をおごってもらって飲み続けた。おかげで今日は二日酔い。

僕はボケーッとしながらも、このホームページを本格改装することを決め、さっそく作業に取りかかった。少々時代遅れな感もあるが、独自ドメインを取得してレンタルサーバー会社とも契約した。

2003年2月7日(金)

「今からちょうど1時間前、父がこの部屋に来たのよ。こんな時間だから、わたしはてっきりケイイチだと思って扉を開けたんだけど、そこにたっていたのは父だったの。ケイイチの帰宅がいつもより遅くて本当に良かったわ。もしケイイチと父が対面していたら、いよいよ収拾がつかなくなってたはず」

ペッブリー(ペチャブリー)18にあるアパート「ヴェネチアレジデンス」の644号室、午後11時。アルバイトのあとに社用車を借りて深夜のドライブを満喫してから帰宅してみると、そこには深い海溝の底にまで沈み込んでいるかのようなエーンがいた。

本当に危ないところだった。エーンの言うとおり、これでもし僕が友人とドライブに出かけていなかったら、とんでもない事態に直面していただろう。「おまえは私の娘の将来に責任が負えるのか?」という質問を浴びせられて、右往左往するような醜態をさらすのはご免だ。

「家出して彼氏と同棲している女の世間体がどれだけ悪いかは知ってるでしょう? ああ、やっぱり同棲していないことをアピールするためにも、わたしはアヌサーワリーチャイ(アヌサワリーチャイ)戦勝記念塔近くのアパートを借りるべきなんだわ」

アヌサーワリーチャイサモンラープーム(アヌサワリーチャイ)戦勝記念塔の東側、ディンデーング(ディンデン)通りに立ち並ぶボロアパートの家賃は月々2,500バーツ。もちろん冷房や温水シャワーなんかない。

「父はこの部屋に10分くらいいたんだけど、帰り際には泣いていたわ。ケイイチは自分の父が泣いたところを見たことある? はぁぁぁぁぁぁ」

エーンの父親が突然やってくるような事態に備えて、彼女は7階の部屋を5,500バーツも出して借りたというのに、結局無駄になってしまった。

きっと、僕がタイに来た当時にエーンがつるんでいたタンマサート(タマサート)大学のクラスメイトが内通したのだろう。なお、そのクラスメイトとは僕たちがつきあったのをきっかけに絶交している。

2003年2月8日(土)

「どうして MOS から RCA に移動したのよ? ケイイチの友達がナンパをするんだったら絶対に MOS しかない。 RCA でナンパするんだったら・・・・・・そうねえ、自分が高校生とか大学生とかじゃなきゃ、女の子に相手にしてもらえないんじゃないかしら。ところで、一緒に行ったケイイチの友達って何歳だったの?」

今晩、僕は日本人駐在員の友人とディスコ巡りをした。結局ナンパは失敗に終わった。 RCA とカーオサーン(カオサン)が好きというエーンによれば、いくら外国人でも30歳の男が RCA(ロイヤルシティーアベニュー) でナンパをするのはどう考えても無理。しかし、スクンウィット(スクンビット)12にある MOS(ミニストリーオブサウンド) ならナンパ待ちの女性が多いから難しくもないという。いずれにしても、30歳を超えたらディスコでナンパをするのはまず望み薄だとか。

やはりタイを本当に満喫できるのは20代のときだけかもしれない。女性関係に限っていえば、ナンパできるか、買春するしかないかという天と地ほどの開きがある。

ところで、ナンパに必要とされる精神的な負担が、得られるものの価値に比べて極端に大きすぎるように感じるのは、単なる僕の気のせいだろうか?

2003年2月9日(日)

この4日間ほど、時間を見つけてはホームページの改装作業を続けている。夕方になって友人からの電話があり、コンドミニアムの契約条件を話し合うために通訳として出動した。

そのメンバーで、午前4時までタニヤにあるカラオケスナックでウイスキーを飲み続けた。

2003年2月10日(月)

朝から友人の会社に出向いて、午後10時までアルバイト。業務拡張にともなう新事務所の賃貸交渉などの通訳をした。その後、ソーイ・ンガームドゥーパリー通りにあるマレーシアホテル1階の古式マッサージ屋へと出かけた。昨晩、どうやら寝違えてしまったようで首の右側面が痛い。

ああ、バイトがあった日の日記がどうしてもスカスカになってしまう。でも、僕が勝手に友人のビジネスの話を不用意にインターネット上に公開したところで、何かあったときに責任をとるのも面倒だから仕方ない。

2003年2月11日(火)

国際結婚斡旋業者の広告は、これまで日本でも何度か目にしたことがある。しかし、その実情については想像の範囲を超えることはなかった。

今晩、日本人向けカラオケスナックの店主から電話で呼び出され、タイ人妻紹介業者の仲介で結婚したというタイ人女性の相談に乗ってもらいたいと依頼された。そのタイ人妻はカラオケスナックで働くホステスの友人で、日本に行きたいがために仲介業者に申し込んだ。結婚相手の日本人はすぐに見つかり、バンコクで一度だけ会ったという。しかし、それ以降は手紙のやりとりしかなく、日本への関心も薄れたこともあって、現在は離婚を希望している。

今回のケースは、日タイ間の国際結婚にしては珍しく、日本だけでの入籍だった。そこで、タイ人経営の結婚仲介業者から日本の市役所に提出する離婚届のフォームが送られてきた。ところが、そこには記入方法についての説明がなく、彼女は不用意に署名してしまうことで自分に不利益があるのではないかと不安を感じている。

ただでさえ国際結婚にはさまざまな困難がついて回る。しかも、年齢が2倍も離れている言葉も通じない男女が結婚するのするとなると少し無理があるのかもしれない。他人事ながら、僕はそう思った。

2003年2月12日(水)

帰国のための航空券を手配して、アメリカの語学学校を選んだ。

先月26日に受験したヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)大学主催の英語検定 CU-TEP の試験結果が、集中タイ語講座の講師から速報というかたちでもたらされた。

460点。実用英語検定でいう「ぎりぎり準1級に受かるかもしれない」という成績。

ヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)大学の修士課程が出願者に課しているスコアは TOEFL 550点。事務員によれば、タイ語ができるなら500点まで妥協できるということだが、さすがに460点では厳しい。正直、困り果てている。

今晩、バンコクで会社を経営している友人に相談したところ、月給50,000バーツでタイに留まるように勧められた。自分を必要としてくれている人がいることは嬉しいが、やはり効率的に英語を身につけるためには英語圏で生活するのが最良の選択だと考えている。

帰宅後、選定した語学学校の吟味を友人に手伝ってもらい、帰国するための航空券を予約した。

なお、正式な「合否」結果は来週火曜日に通知される。

2003年2月13日(木)

タイに住み始めて1年4ヶ月。はじめてタイ料理が美味しいと思えた。

これまで僕はタイ料理を毛嫌いしてきた。しかし、今日はどうしても外出するのが億劫だったものだから、仕方なくアパート附属の食堂にタイ料理「カーオパットアメリカン(カオパットアメリカン)」(ケチャップ焼き飯)の出前を頼むことにした。値段は40バーツ+5バーツの宅配料金。とても美味しかった。

毎日のように日本料理を食べるというこれまでの生活習慣を改めて、タイ料理を食べるようにすれば、きっと家計に占める食費の割合はかなり軽減されるはず。

エーンの10年間来の親友ジョーイによれば、ラームカムヘーング(ラムカムヘン)大学の学生食堂は美味しいし値段も安いという。ところが、僕がタイ料理を嫌いになったそもそもの原因は、ヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)大学文学部の学生食堂にある。

集中タイ語講座の講師が以前、こう話していた。

「あんな安い値段(カーオパットアメリカン20バーツ)で出しているのよ。高い食材を使ったら赤字になってしまうじゃない。だから安い食材を使ってるんだけど、それではどう工夫したって美味しい料理なんて作れるはずがないわ。あんな料理を食べただけで『タイ料理はまずい』という結論を出されては、タイ人としてはちょっと悲しいわねえ」

タイ料理は、もしかしたら僕が思っているよりもまともな料理なのかもしれない。・・・・・・それとも、あの不味いヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)文学部の学生食堂の料理に1年間も慣らされてきたせいで、ほかのタイ料理すべてが美味しく感じるだけなのか。

今日は MBK マーブンクローング(マーブンクロン)センターでエーンの携帯電話を修理してから、 WTC ワールドトレードセンター(ウォートレート)に入っている ZEN でバレンタインのプレゼントを購入し、バンコクの電脳街「パンティッププラザ」でタイ料理を食べた。

2003年2月14日(金)

昼過ぎに起床。タニヤにあるカラオケスナックの店主から頼まれていた飲み薬をスクンウィット(スクンビット)4の入り口で買ってから、それをスクンウィット(スクンビット)6にある彼のコンドミニアムに届け、そこからバイト先へと向かった。

今日はバレンタインデー。しかし、僕もエーンもバイトに出ている。仕事のあと、友人の引っ越しを手伝いながら、タイ人男性が女性にプレゼントするというバラの花を探してみたが見つけられなかった。

2003年2月15日(土)

午後9時、タニヤにあるカラオケスナックの店主から電話で呼び出され、ひとりの日本人観光客に会ってほしいという依頼を受けた。周囲の噂が事実だとすると、その観光客というのは同性愛者。まったく厄介な客を押しつけられてしまった。

「大学院に落ちても絶対アメリカに行くな!」

そう強い調子で言われても、彼に僕の将来を保証する能力がない以上、僕自身が信じる最善の道を選択する以外に方法がない。もし大学院に入学できなかったら、それはそれで次の機会に入学を果たす方法を模索するだけのこと。

一生涯にわたって、平均的サラリーマンの10倍くらいの所得を保障してくれるのであれば、もちろん喜んでタイに残るつもりだ。

2003年2月16日(日)

日付が変わる直前、僕はスクンウィット(スクンビット)13にある友人の新居を訪ねた。この友人は一昨日、ラーチャプラーロップ(ラチャプラロップ)通りにあるボロアパート「ラーチャプラーロップタワーマンション(ラチャプラロップマンション)」(家賃4,900バーツ)から、スクンウィット(スクンビット)通りにある高級コンドミニアム(同21,000バーツ)へと引っ越してきたばかり。大きなリビングにゴージャスな寝室が印象的だ。

ところで、エーンも新しい部屋を借りたという。アヌサーワリーチャイサモンラプーム(アヌサワリーチャイ)戦勝記念塔付近のコンドミニアム(家賃3,000バーツ)。こちらもリビングと寝室の2部屋。リビングには手料理を作るのに十分なだけのキッチンもついている。なんでも友人の紹介により格安で借りられたとか。

なぜこれらの情報が伝聞型かというと、男子禁制の「女子寮」で、僕が実際に入って確かめたわけではないから。

突然の父親の訪問以来、エーンが「彼氏の家に居候するのは許されないことかも?」と悩み続けた末の選択だった。

もし僕がアメリカに渡ることになっても、タイに残ることになっても、いずれにしてもアパートを移ろうと考えていたからちょうど良い。なにより、僕が突然アメリカに行くことになっても、エーンに自立した生活を送れるだけの環境ができたことは歓迎すべきことだ。

今日はタニヤにあるカラオケスナックの店主に誘われて、ホステスや従業員たちとボーリングをしながらビールを飲んだ。夕方にはバンコク大学に通う友人とその妹に半年ぶりに会い、日本風居酒屋へと出かけた。ところが、今日は仏教の祝日「万仏節(マーカブーチャー)」で、どの店も閉まっていた。タイでは仏教行事および王室行事の祝日には酒を販売できないことになっている。もちろんゴーゴーバー(娼婦の裸踊りバー)やバービア(ビアバー)(娼婦との語らいバー)も休業。それでもアヌサーワリーチャイサモンラプーム(アヌサワリーチャイ)戦勝記念塔ロータリーにあるピザハットでビールを飲んで、帰宅後も自室でアサヒスーパードライを飲み続けた。酒飲みの一日。

2003年2月17日(月)

タイで働くには、いろいろな条件をクリアしなくてはいけない。

今日、友人である会社社長の勧めで、僕は経営コンサルタントからタイの労務関連の法令についての説明を受けた。

日本人がタイで働くときには、①商用ビザ(B-VISA)と②労働許可証(Working Permit)の2つが必要になる。商用ビザがなければ労働許可証を申請できないし、労働許可証がなくてはいつか不法労働で摘発されてしまう。友人によれば、①商用ビザの申請には簡単で会社からの招聘状と会社の登記簿などが整っていれば問題ないが、②労働許可証には「いろいろな条件」があって、それを満たすのがなかなか難しいという。日本人1人を雇い入れるごとに、会社には(A)資本金200万バーツの積み増しと(B)タイ人従業員を4人雇い入れることが課せられている。この日本人の数には社長も含まれる。つまり、日本人3人の企業であれば、資本金200万円×3人の600万円と、タイ人従業員4人×3人の12人が必要となる。

そのなかで、アルバイトの僕にも労働許可証を取っておこうという話になった。

またコンサルタントによれば、今年から所得税と社会福祉税(年金込)の税率がそれぞれ従来の3%から4%に引き上げられたという。この新しい税率では、合計8%の税金が給料から天引きされる。社会福祉税の一部として支払った年金は、帰国時には還付されず、55歳の支払い開始まで待たなければ受給できない。社会福祉税を納めている会社員には納税者身分証(バットプラヂャムトゥワプースィアパースィー)が交付される。ちなみに、所得が月々6,000バーツ(高卒程度平均月給よりやや良い)しかないような場合には、課税が免除される。

いずれにしても、僕のアメリカ行きが決定してしまえば、しばらく自分とは縁遠い話になる。

2003年2月18日(火)

アメリカへの語学留学が決定した。

夕方頃、ヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)大学の研究室に英語検定の結果を聞きに行ったところ、460点では入学を許可できないと知らされた。この英語力で入学しても、どうせ授業についていけないだろうという話だった。

帰宅後、高校時代の友人に電話(インターネット電話:3分10円)をして、一緒に留学をしないかと持ちかけた。友人と共同で留学をすれば、現地での家賃とレンタカー代が安く抑えられる。友人によれば、ロサンゼルス(ロサンゼルス)郊外であれば、月々7万円もあれば家賃とレンタカー代が賄えるという。折半すれば月々約4万円。この金額は、バンコクでの僕の生活費とほぼ同額だ。

留学期間は3ヶ月半から5ヶ月半を予定している。この期間内に TOEFL 550 点を取得できないと、僕の留学計画は瓦解するか、もしくはさらなる延長を余儀なくされる羽目になる。すでに当初目標としていた6月の大学院入学(前期入学)の道が絶たれたことで、すでに半年ほど予定を繰り延べている。

さっそく、アメリカ留学に必要な留学ビザ(F-1)と、その申請に必要な語学学校からの入学許可証(I-20)を取得するための手続きに入った。入学許可証は約1ヶ月後に日本の実家に送られてくる予定。それが届いたら、日本のアメリカ大使館にパスポートを預けるために帰国することになる。

というわけで、僕のタイ滞在は残すところあと1ヶ月となった。その間の在留資格を得るべく、タイに再入国して滞在期限を30日間延長することにした。明晩、タイ東北部(イーサーン)のラオス国境の街「ノーンカーイ」まで寝台特急で移動し、明後日に国境を越えてラオスへと出国してから、すぐにタイに引き返してくる予定。今回の旅行にはエーンも国境まで同行する。

これから日本に帰国するまでのスケジュールはタイトなものになるだろう。どこか家賃の安い部屋を借りて家財道具一式を一時的に移さなければならないし、小学校6年生相当タイ語能力検定(ポーホック)の副産物である「私立学校教員免許」も、申請から受領まですべて済ませなければならない。衛星放送や電話回線を解約することも忘れてはいけない。

たった半年間アメリカに行くための準備が、これほど面倒なものになろうとは思いもよらなかった。できればアメリカ留学は避けたいと考えていたが、英語力の欠如だけを理由に一連のタイ留学計画が台無しになるのは絶対にイヤだ。本来、時間の節約を考えれば、退職前にアメリカ留学の準備を整えて、アメリカ留学後にタイ語を勉強すべきだった。しかし、今更そんなことを後悔しても仕方がない。

こうなったら、これからは金に糸目をつけずに、やれることすべてをやってみるつもりだ。学生をするのにはもういい歳なのだから、ダラダラ勉強だけを続けるというわけにはいかない。

2003年2月19日(水)

環境による強制こそが、すべての挑戦を成功へと導く。

夕方になって、僕たちはバンコク・フワランポーン(ファランポーン)駅で、国鉄東北線寝台特急69号ノーンカーイ(ノンカイ)行きの指定席切符を買った。すでに1階席は満席になっており、手に入れることができたのは563バーツの18号車2等冷房寝台車上部寝台の切符。

今回の旅行目的は、今月24日に有効期限が切れる留学ビザに代わる滞在資格を取得すること。明朝いったんラオスへと出国してから、すぐにタイに引き返して有効期限1ヶ月の到着ビザ(アライバルビザ)を入手する予定。アメリカ留学までにバンコクで済ませておくべきことがいくつかあって、そのためにも半月程度の時間がどうしても欲しい。

衛星放送 UBC の解約、固定電話回線の解約、携帯電話の利用停止申請、アパートへの事前の転出予告、私立学校教員免許の取得、家財道具一式の一時保管先の手配、アメリカの語学学校に入学許可証を申請するための作業、大学院へ出願を半年遅らす旨の申告などなど。

午後6時45分、僕とエーンは一路タイ東北部(イーサーン地方)にある国境の都市「ノーンカーイ(ノンカイ)」へと向かった。

出発直前まで売れ残っていた「上部寝台」に、僕たちは朝まで悩まされ続けた。まず、寝台が上部にあるため窓がなく、外の風景を楽しむことができないこと。たとえ列車が深夜の真っ暗闇の中を走っていても、自分に「外を眺める自由」がないことには落ち着けない。つぎに、車両の上部が丸まっているため、天井が傾斜していること。まったく座ることすらできない。仕方なく、僕はアザラシのように絶えず寝っ転がっていた。極めつけは車両の振動が下部より上部の方が激しく感じること。タイ国鉄には、韓国で使われていたような安普請の中古老朽車両が多く、ただでさえ騒音がひどい。その上、線路の整備状況が悪く上下にも揺れるものだから、寝付けないだけでなく吐き気すら覚える。

シングルベッドの半分しか幅がない閉鎖的な狭い空間では何もできるはずがなく、時間を持てあました僕は18号車から先頭の1号車まで散歩してみることにした。

「もうすぐ各車両の扉が閉鎖されるよ」

16号車2等冷房寝台まで前進したところで、僕は車掌にそう注意されて退却を余儀なくされた。冷房のない3等車でもいいから、エーンが借りてきた少女漫画を椅子に座ってゆっくり読もうと考えていたが、その程度の希望すら叶えられなかった。

仕方なく、今度はふて腐れながら狭い寝台に寝っ転がって少女漫画を読み始めた。少女マンガ特有の「お決まりののパターン」には幾度ともなく呆れながらも、なんとか2時間かけて読破した。内容は完璧に理解できた。それもそのはず。口語すら理解できないようでは、これまで何のために1年間もタイ語を勉強してきたか説明がつかない。

午前零時、車掌が言っていたとおり、寝台スペースの前後にある扉が閉鎖された。昇降口があるスペースに出られなくなった僕は、仕方なく便所でタバコを吸うことにした。便所内には「駅停車中に糞尿を流さないでください」という貼り紙があり、便器の底をのぞいてみると線路が見えた。

翌20日午前1時半、僕は読書を終えて必死に寝ようと努力した。

初めて、漫画本を最初から最後まで読破した。

2003年2月20日(木)

せっかく遠くまで来たというのに、危うく目的を達しないままバンコクへと戻る羽目になるところだった。

国鉄東北線寝台特急69号バンコク・フワランポーン(ファランポーン)ノーンカーイ(ノンカイ)行きの二等寝台、午前8時。僕は周囲の慌ただしさで目を覚ました。狭い上部寝台から降りて窓の外を眺めてみると、そこには東北部(イーサーン地方)第5位(全国第7位)の人口を誇る大都市「ウドーンターニー(ウドンタニ)」の看板があった。目的地である東北線の終着駅ノーンカーイ(ノンカイ行き)まであと55キロの地点だ。

エーンはすでに起きていた。どうやら昨晩は一睡もできなかったという。僕はエーンから石けんと洗顔タオル、それからコンタクトレンズを受け取って、便所前の洗面台へと向かった。ところが、洗顔直後に列車が動き出し、車両が上下左右に大きく揺れたため、コンタクトレンズを無理矢理「目にぶち込む」ようにしてはめざるを得なかった。

寝台特急69号は定刻よりも約1時間遅れて終点ノーンカーイ(ノンカイ)駅に到着した。僕たちは駅前に群がっていたトゥクトゥク(ここではソングテオ(ソンテウ)と呼ばれている)に乗って市街地へと移動した。

一度は自分でクルマを運転して来た街だ。一応の勝手は分かっている。

僕たちは銀行の支店が密集している街の中心部でトゥクトゥクを降りて、ラオス入国料1,500バーツを引き出すために銀行 ATM に直行した。出金しようと、暗証番号を入力して10,000バーツのボタンを押したところ、画面には「残高が足りません」の表示。念のために口座残高を照会してたみところ、なんと23バーツしかないことが判明した。さらに、エーンから借りようとしたが、彼女の預金口座にも65バーツしかない。あまりにも貧しすぎる。ふたりの口座を合わせても、たったの88バーツ(約260円)。

最後の手段として、僕は財布からクレジットカードを取り出し、それを ATM に差し込んだ。画面には「通信エラー。カード発行元にご連絡ください」の表示。同じ作業を4つの銀行の ATM で試してから、バイト先に電話をして未払いだったバイト代の一部を電信振り込みするよう依頼した。

それでも財布にはまだ1,200バーツ残っている。僕たちは友人が銀行振り込みを終えるまでの暇つぶしのために、食堂で75バーツのアメリカンブレックファストを食べてから、食堂向かいの貸しバイク屋で1日200バーツの110ccバイクを借りた。そしてメーコーング(メコン)川沿いに広がる市場を見て回って、再び ATM に戻ったところ、さっそく3,000バーツ振り込まれていた。

エーンを後部座席に乗せて、僕はバイクを運転してメーコーング(メコン)川を横断するタイ・ラオス友好橋へと移動。タイ国内に留まるエーンにバイクを預け、僕はタイ側国境で出国審査を済ませて10バーツの友好橋横断バスに乗り込んだ。ラオス側国境には3分ほどで到着し、到着ビザ(アライバルビザ)(1,500バーツまたは30ドル)を取得してラオスの入国審査を受けた。その1分後にはラオスの出国審査を受けて、友好橋横断バスでタイ側国境へと戻ってきた。

当初の予定では、今晩の寝台特急でバンコクに戻るつもりだったが、昨晩の反省からノーンカーイ(ノンカイ)発午後1時半の2等長距離バスに乗ることにした。

2等バスの車内は戦前の網走刑務所を思い起こさせるような極寒の世界だった。冷房があまりにも強烈だったせいか、鉄製の手摺がキンキンに冷えている。僕は膝の関節に強烈な痛みを感じて今にもキレそうになっていたが、「2等バスの乗客は人権も2等か!?」と言い放つなど、長距離バスのオーナーと口汚い言葉の応酬をするにとどめて、それ以降はジッと我慢し続けた。極寒の長距離バスは、定刻より2時間半遅い午前零時45分にバンコク・モーチットバスターミナルに到着した。

友人からの振込がなかったら今回の旅行の目的は果たせなかっただろう。

2003年2月21日(金)

昼過ぎまでぐっすり眠って旅行の疲れを癒してから、友人の会社へとアルバイトに出かけた。退社時間と同時に、タニヤにあるカラオケスナックの店主から電話で呼び出されて、同僚とともに夜の歓楽街へ繰り出した。

エーンの引っ越しが明後日に控えているため、今日は早めに帰宅した。

2003年2月22日(土)

このゴミ箱部屋がキレイになる日も近い。

ペッブリー(ペチャブリー)18にあるアパート「ヴェネチアレジデンス」644号室。僕の部屋は見渡す限りのゴミの山で溢れかえっている。すべてはエーンが机や床をゴミ箱代わりに使ってきたせいだ。

明日、エーンはこの部屋から出て行く。エーンは当初、アヌサーワリーチャイサモンラプーム(アヌサワリーチャイ)戦勝記念塔付近の女子寮を借りると話していたが、どうやらそれを取りやめて王宮方面の女子寮に変更したという。家賃3,000バーツはそのまま。

いろいろな物が無秩序に散乱している床から、エーンの所有物を探してしてはプラスチック製の収納箱に突っ込んでいった。部屋が汚いのは相変わらずだが、戸棚に空きスペースができた。エーンが引っ越してから徹夜で掃除して、この部屋を「人間が住める部屋」レベルにまで回復させたい。

2003年2月23日(日)

エーンは僕に王宮方面と偽って、フワイクワーング区のスーンウィヂャイ(スンヴィチャイ)8にあるコンドミニアム「プライトンプレイス」へと引っ越していった。

エーンの荷物は、プラスチック製の収納箱1つと国内旅行用のカバン1つ、それからリュックサック1つに納まった。この部屋に住んでいた14ヶ月間、エーンは生活消費財を充実させていったが、耐久消費財を何一つとして買わなかった。

一方、僕が来月下旬に予定している引っ越しは大掛かりなものになりそうだ。この部屋には日本で一人暮らしをしている大学生並みの家財道具がある。①テレビ、ミニコンポ、冷蔵庫、電子レンジ、全自動洗濯機は友人の会社に預け、②このホームページを更新するために使っているデスクトップはコンドミニアムに住んでいる別の友人に預け、③それ以外の小物類はプラスチック製の収納箱に詰め込んでさらに別の友人宅に預け、④机や本棚は処分することになっている。なお、エーンはこれらの荷物を預かることの一切を拒否した。きっと、彼女なりの思惑があるのだろう。

さて、何を日本に持ち帰り、何をアメリカに持って行くべきか。

ペッブリー(ペチャブリー)18にあるアパート「ヴェネチアレジデンス」644号室、日没後。エーンの10年来の親友であるジョーイが、エーンの引っ越しを手伝うために僕の部屋へとやってきた。エーンの荷物をみんなで1階駐車場に運び出してから、ペッブリー(ペチャブリー)通りまでタクシーを呼びに行った。エーンの荷物はタクシー(トヨタコロナ)1台に納まり、それでもあと4人が座れるだけのスペースが残っていた。

エーンが去ってから、僕は翌24日の午前8時まで部屋の掃除を続けた。部屋中に散乱していたゴミは、アパートの集合ゴミ捨て場に入りきらないほどの量。無造作に置かれていた衣類は畳んで洋服ダンスにしまった。数ヶ月ぶりに床をホウキとモップで掃除した。

僕の部屋は一晩で蘇った。整然と片付いた自分の部屋を見ると奇妙にすら思える。そして自分が一人暮らししていることを思い起こして、しんみりと感慨ふけった。これまでは、自分がどんなに望んでも一人でいることなどできなかったが、今後は自分がどんなに望んでも毎晩のように繰り返していた無駄話ができなくなる。そう思うと、寂しさがグッとこみ上げてくる。

2003年2月24日(月)

自由すぎるのも、なんだか気持ちが悪い。

今日からは、起きる時間も、部屋の電気を点ける時間も、誰に電話するのも自由だ。世間では自由がいかにも素晴らしいことのように言われているが、いざ実際に自由を手にしてみると案外それほど良いもののように思えないから不思議だ。

今日から新たに加わった自由の最たるものは「一日中ひとこともタイ語を話さなくて良い自由」。これから自分のタイ語会話力がジワリジワリと低下していくのが容易に想像できる。

昨晩、部屋の掃除を終えてベッドに入ったのは、日が昇り、外が慌ただしくなってきてからのことだった。僕は午後2時に目が覚め、寝起きの気持ちの良い時間をダラダラと過ごしてから、アパートから徒歩2分のところにある美容室へと出かけた。洗髪とブローで50バーツ。人工のさらさらヘヤーを完成させてから、アルバイトへと出かけた。

仕事を終えて部屋に戻ってくると、机の上にエーンからの書き置きがあった。それによると、僕を訪ねてきたらしいが、終バスがなくなる前には帰ったという。

僕はこの部屋に一人で住んでいる。14ヶ月も続けてきた習慣を変えるのは容易ではない。精神的に。

2003年2月25日(火)

アメリカ留学まであとわずか。面倒なことは、さっさと片付けてしまいたい。

今日は、ポーホックの合格証を受け取るために、ラーチャダムヌーンノーク(ラチャダムヌンノーク)通りにある教育省証書発行課へと出かけた。この試験の正式名称が「私立学校教員免許申請者のための初等教育第6学年相当のタイ語能力検定」であることから、僕はすっかり同時に教員免許証も受け取れると信じていたが、どうやらそれは別途申請する必要があるらしい。その手続きはアメリカから戻ってきてから改めてすることにした。合格証の内容はつぎのとおり。

(公文書章省略)
กรมวิชาการ
กระทรวงศึกษาธิการ

教育省学芸局
ที่ 126 / 2546
第 126 / 2546 号

หนังสือฉบับนี้ให้ไว้เพื่อแสดงว่า นายเคอิชิ เกิดวันที่ 19 มีนาคม พ.ศ. 2521 เป็นผู้สอบความรู้ภาษาไทยได้ เทียบเท่าชั้นประถมศึกษาปีที่ ๖ เพื่อขอรับใบอนุญาตให้เป็นครูในโรงเรียนเอกชน ตามพระราชบัญญัติโรงเรียนเอกชน พ.ศ. 2546 ให้ไว้ ณ วันที่ 20 เดือน กุมภาพันธ์ พ.ศ. 2546
2546年改正私立学校法に基づく私立学校教員免許申請のための初等教育第6学年相当タイ語能力検定において2546年3月20日、ケイイチ(タイ仏教歴2521年3月19日生)が合格したことを証明する。

อธิบดีกรมวิชาการ        เจ้าพนักงานทะเบียน
学芸局長(署名・印章)        証書担当職員(署名)
(合格者顔写真欄)

教育省学芸局の庁舎入り口にはポーホックの合格者の名前が布告とともに張り出されていた。受験者数は230-300人。うち合格者は125人で、日本人の合格者は77人(男性36, 既婚女性22, 独身女性19)。日本人以外の合格者は48人(男性24, 既婚女性6, 独身女性18)。全受験者に占める合格者の割合は約6割。布告の内容はつぎのとおり。

(公文書章省略)
ประกาศกรมวิชาการ
学芸局布告

เรื่อง ผมการสอบความรู้ภาษาไทย เทียบชั้