2004年2月5日(木)

午前8時、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)前から、貸切ロットゥー(12人乗りバン)でターク県メーソート郡(メーソット郡またはメソト郡)へと向かった。今回の目的は、ターク県ターソーングヤーング郡(ターソンヤン郡)メーラ村にある難民キャンプの調査。

国家法秩序回復委員会が1988年、軍事革命(クーデター)を起こしてミャンマー(ビルマ)の政権を掌握。当時ミャンマー連邦からの離脱を図っていたカレン族に対して厳しい弾圧を加え、強制移住や強制労働を課した。そのため、これを忌避したカレン族が難民化しタイ側へと大量に流れ込んだ。

午後3時半、僕たちはメーソート郡(メーソット郡またはメソト郡)に到着。国境地帯のムーイ川東岸にあるメームーイ市場で土産物を調達した。

この付近の国境は依然未確定のままになっている。このメームーイ市場では、写真にある①の領域がタイ領、②の領域がミャンマー領、③の地域が帰属未確定地域。国境ゲートは市場の南にある橋の両端にあるが、ミャンマー人は国境ゲートを使わずに川を渡ってやってくる。国境に架かる橋の通行料は10バーツ。

そこで、不法に越境してくるミャンマー人について、メームーイ市場の軽食屋店主に聞いてみた。

「以前は(③で示した)帰属未確定領域にも市が出ていたが、昨年バンコクで催されたAPECを契機にタイ当局によって閉鎖されてしまった。タイ人がこの川を渡ってミャンマー領に入ることはまずないが、ミャンマーの少数民族「カレン」が荷物を抱えて越境してくる。カレン族が持ち込んでくる荷物の大半が中国からミャンマーへと流入したタバコ。しかも、それは品質保持期限が切れたものを中国人が二束三文で売り払ったもので、とてもではないが喫煙に耐えうる品質にない。実際のところ、ミャンマー人が売りに来るものはほとんどがロクでもないものばかり。ロクでもないといえば、その最たるものはミャンマー政府そのものだ。彼らはロクな民生政策がなく、国民に自力救済を強い、軍の兵器も老朽化がひどく使い物にならない。国民も馬鹿ばっかりで、とても話のできる相手ではない」

また、この店主は彼らの置かれた事情を次のように説明した。

「だからといって、もし仮に彼らが賢くミャンマー政府の不満を言い出すようになったら大変だ。政治に関する話を一言でもすれば、すぐに政治犯として捕らえられ即刻政治犯収容所行き。彼らは政府から生活に関する支援を何も受けられずにおり、だからといって政治的手段に訴えて生活の向上を図ることもできないから、生きるためにもタバコを売りに来ざるを得ないんだ。気の毒といえば気の毒だが、さしあたって俺たちにできることは何もない」

「あんたのミャンマー嫌いも相当なものだからね」

軽食屋の店主による演説会は学生8人を前に、彼の妻が頻繁に横から突っ込みを入れるといったスタイルで約30分にもわたって繰り広げられた。少し長すぎるような気もしたが、自分が知らない話を個人的な視点で語ってくれたのは興味深かったし参考にもなった。

彼らミャンマー人の窮状については、明日以降の調査で徐々に判明することを期待している。

ところで、今晩ルームメートのカンボジア人から興味深い話を聞いた。これは今日の日記の主題ではないから概要だけにとどめる。

プノンペン大学講師の月給45ドル。NGOなど民間から請け負った調査報酬1日30-50ドル。妻(公務員)の月給350ドル(破格の待遇とか)。使用人の月給45-50ドル。王宮から5キロ離れたところにある土地(5×16メートル)の値段2000ドル。家の建設費4000ドル。ラナリット元第1首相はカンボジア人の誰もが認める無能者で、現首相フンセンに排除されたのも当然。内戦時のプノンペンは大騒ぎだった。プノンペンにいる日本人の大半は調査目的。外国人向けのゲスト街は王宮周辺の数百メートルのところにあり、一方はまとも、もう一方は麻薬利用者向けで酷く不潔。これらの地域は分かれている。プノンペン市内の外国人英語教師の質は低く、その大半は麻薬常用者だと考えて良い。彼らの報酬は時給2-20ドル程度で能力によって異なる。「俺自身の生年月日が今ひとつはっきりしない。原始的生活を強いられたポルポト時代には、カレンダーすらなかったから」。地名のカンボジア語読みは、英語よりもタイ語に近い。(ゴッゴング・ポーイペートなど)。

今晩はターク県メーソート市内のホテル「ポーンテープ」に宿泊した。ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)アジア研究所の研究員によれば、このメーソート(メーソットまたはメソト)市内ではこのホテルが一番まともで、唯一エレベーターを装備しているという。

2004年2月6日(金)

ターク県ターソーングヤーング郡(ターソンヤン郡)メーラ村第9集落にあるカレン族臨時居住区。タイ政府はカレン族越境者を ผู้ลี้ภัย(難民) と認めない立場をとっており、ここを ค่ายพักผู้ลี้ภัย(難民キャンプ) ではなく พื้นที่พักพิงชั่วคราว(臨時居住区) と呼んでいる。

この難民キャンプはタイ内務省が管理しており、各国の NGO が運営している。なお、この難民キャンプの運営に協力しているNGO団体は次の14団体。BBC, ADRA, SMRU, COERR, TOPS, SVA, HI, ICS, MSF, CONSORTIUM, PPAT, ZOA, IRC。

カレン族難民自治組織の幹部によれば、ここにはミャンマー連邦のカレン族やムスリム系民族など5,425世帯、32,904人(成人男子10,839, 成人女子10,569, 未成年男子5,942, 未成年女子5,556)が住んでおり、民族構成比はカレン族85%、ムスリム系15%。住民の55%がキリスト教、35%が仏教、10%がイスラーム教を信仰している。施設内には29の宗教施設(キリスト教会22, 仏教寺院3, モスク4)、46の教育機関(小学校13, 中学校4, 高等学校5, 高等専門学校2, 神学校4)と10の無料医療機関(総合病院2, マラリア療養所4, 婦人科医院1, 身体障害者療養所3)のほか、電力網や上水道網(一部区画は井戸)が整備されている。これだけあれば難民がライフラインに困ることはない。

各種学校では、難民または NGO の職員が、英語をはじめ歴史や理科などを教えている。タイ人講師が不足しているため、タイ語の授業はない。ほとんどの難民がカレン語(ビルマ語と文字がそっくりだが文法から単語まですべて違う)を第一言語としているが、キャンプ内ではビルマ語や英語、タイ語なども使われている。神学カレッジでは、社会学などの教育も受けられる。

次にキリスト教会の支援で運営されているカレッジ「カメソーレイ・カレン族浸礼派神学校 」のシモン校長に話をうかがった。キャンプ生活でのエピソードが話の主題となったが、そのなかに興味深い話がいくつかあった。

このキャンプは、標高778メートルのドーイパールー山(ドイパル山)の麓に建設された。放物線状の軌跡を描いて飛んでくるミャンマー軍からのミサイルを回避するには絶好の立地条件。しかし、1996年にミャンマー軍がドーイパールー山(ドイパル山)を越えて攻め込んできたとき、難民はタイ側の山(名称不明, 標高436メートル)に逃げ込んだという。このときに虐殺された難民たちの墓所は、いまもその山頂付近にあるという。

昼食後、グループごとに分かれての聞き取り調査。僕はカナダ人学生と組んで健康問題について調査するために病院へと向かった。

2004年2月7日(土)

聞き取り調査のためにキャンプ内を徘徊していると、意外なほどたくさんの発見があった。僕たち日本人が「難民キャンプ」という言葉からイメージするのは、きっと不衛生で過酷な環境ではないだろうか。しかし、ここの「難民」たちは、そのイメージとはかけ離れた豊かな生活を送っている。

僕たち先進国の納税者の夢を壊さないよう配慮しているのか、キャンプ内の建設物には工業製品を使わないためのさまざまな工夫が見られた。住居はすべて木材で作られており、まるで山小屋のよう。本来、費用をかけずに家を建てるのであれば、適当な木材を支柱にして、それをトタンで囲めば十分のはず。そんな僕たちへの些細な配慮が涙を誘う。

キャンプ内で建設資材として用いられる木材はきちんと規格どおりに加工され、茅葺屋根(かやぶきやね)も手作りだが一箇所で集中生産されている。その結果、画一的で美しい町並みに仕上がっている。

キャンプ内には商店街もあり、石鹸やシャンプーなどの生活必需品のほか、テレビやラジオまで売られている。僕たちのグループ調査に同行した研究員によれば、難民がキャンプ外へ農作業に出かけたときに、これらの商品をタイ人商人から預かって、キャンプ内で代行販売しているという。そこで発生する利益は、キャンプ内のカレン族商人とタイ人商人のあいだで分配される。資本のないカレン族難民でも大量に仕入れることができるため、街にはたくさんの商品が溢れている。難民キャンプという場所で通貨を使った商取引が行われているとは意外だった。

難民たちの衣服は、どれも清潔で状態もよい。僕たち日本人が着ている T シャツと比べても遜色ない。キャンプの運営規則では、年に1度だけ難民に衣類が配給されることになっているが、彼らには自分の金で買ってきた服が何着かあるはずだ。

キャンプ内の難民の表情はとても明るい。難民という不遇な立場になると、性格が歪み表情にも表れそうなものだが、彼らは何にも不自由のない生活を送っているためか、精神的にとても安定しているように見える。

「いま一番不満なこと」を10人の難民に尋ねてみたところ、国籍がないなどの政治的地位に関する不満が最も多く、逆に日常生活での不満は一切耳にしなかった。また健康状態について尋ねてみたところ、医者に診てもらったり治療薬を使ったりするような病気に罹ったがないという回答が大半を占めた。なお、このキャンプでは、医療サービスから避妊具まで、すべて無料で提供される。

「このキャンプは、観光客はもちろん、マスコミにすら公表されていない」

事前のガイダンスで研究員が話していた言葉の意味がようやく理解できた。カレン族難民は、農村部のタイ人よりも遥かに豊かな生活を送っている。貧困が社会問題となっているタイで、このような難民の実態が広く知れ渡ってしまったら、何らかの抗議運動が起きること疑いない。このキャンプ自体が「タイ人の不興と反感」を買って、政府は閉鎖を余儀なくされるだろう。しかし、そんなことをしたら「国際社会からの批判」にさらされる。このような厄介な問題から回避するためにも、政府としてはこの情報を絶対に自国民に知られるわけにはいかない。

今晩、メーソート(メーソット)市内のフォークソングバー「クロコダイルの涙」でクラスメートたちと午前1時まで酒を飲み、タイ語で語り合った。

2004年2月8日(日)

外国人による不法就労には、どの国も手を焼いているようだ。特にタイは最貧国(後発発展途上国)であるラオス、カンボジア、ミャンマーの3国と陸続きで隣接しているため、日本より深刻な事態に直面している。こうした不法労働者の多くは、バンコクでは経済的に恵まれている市民の邸宅で使用人として働くか性風俗産業に従事し、地方では小作農として働くケースが多い。

不法労働者は安価な労働力として国家の競争力を高める効果がある反面、国内の非熟練労働者(単純労働者)の失業を招き犯罪件数が増えるという副作用をともなう。そのような理由から、政府は国境地帯に数多くの検問して、陸路による外国人の流入を食い止めようとしている。検問では、国民 ID カードやパスポートなどの身分証の提示が求められる。

「実は・・・・・・パスポートを持ってきてないんだ。でも、大丈夫。俺には天下のヂュラーロンゴーン大学の学生証がある。これがある限り、タイ国内での俺の立場は安泰だ。なにしろ、こいつには魔法の力があるのだから」

カンボジア人学生が財布から学生証を取り出して、こう話していた。しかし、彼のタイ語力ではタイの警察当局が不法滞在者を確認するときに使う「タイ国歌斉唱」には耐えられないだろうし、パスポートがなければ「不法入国したミャンマー人」としてミャンマー当局に引き渡されかねない。

・・・・・・というのは、タイ語が使える学生たちの冗談話。実際には、タイ内務省が発行した「調査目的の難民臨時居住区進入許可証」を見せるだけで通過できた。

鳥インフルエンザによる鶏肉の販売不振は全国に広がっている。ナコーンサワン(ナコンサワン)県内のサービスエリアには、鶏料理が一つもなかった。報道によれば、政府は鶏料理を無料で振舞うキャンペーンが催したり、徴収兵たちの食事に鶏をふんだんに使ったりして国内の鶏の消費量を維持しようと躍起になっている。

2004年3月18日(木)

タイ研究科主催のクメール遺跡ツアーに参加した。

今回のゲスト講師はスィンラパーゴーン大学(シラパコン大学)の考古学部長。僕たちは茹だるような暑さで倒れそうになりながら、現地で考古学講座を受けた。

パノムルング遺跡宮殿(パノムルン遺跡)は、仏教歴15世紀から18世紀まで仏教の中心地として栄えた。タイ国内で唯一山の斜面に建立された宗教的建造物で、仏教歴2531年に史跡に指定された。一方、ムアングダム遺跡宮殿(ムアンダム遺跡)はそこから8キロほど離れており、仏教歴1550年頃から1625年頃まで栄えたが、史料不足から詳細は依然謎に包まれている。

ホテルに戻ってから、参加者およそ30人のうち、元気のある若者10人で酒を飲みながら深夜までトランプゲームを楽しんだ。午前零時に自室に戻り、カンボジア人ルームメイトとカンボジアの国防問題や外交問題などについて夜を徹して話し合った。

僕は考古学に全く興味がない。今日の出来事にも解説を付け加えるような感想もないから、とりあえず「旅行のしおり」にある日程表を載せておく。

วันแรกของการเดินทาง วันพฤหัสสบดีที่ 18 มีนาคม 2547 (กรุงเทพฯ – บุรีรัมย์ – ปราสาทหินพนมรุ้ง – โคราช)
旅程第1日目 2547年3月18日 (バンコク – ブリーラム – パノムルゥング遺跡宮殿 – コラート)

06.30 น. คณะเดินทางพร้อมกัน ณ จุฬาลงกรณ์มหาวิทยาลัย คณะอักษรศาสตร์ (ถนนอังรีดูนังต์ ตรงข้ามสปอร์ตคลับ)
ヂュラーロンゴーン大学文学部(スポーツクラブ向かいのアングリードゥーナング通り)に集合

07.00 น. นำท่านเดินทางสู่จังหวัดบุรีรัมย์ โดยรถโค้ชปรับอากาศชั้นหนึ่ง พร้อมบริการอาหารว่าง และเรื่องดื่มบนรถ
1等冷房バスでブリーラム県へ向かって出発。(飲食サービス付き)

12.00 น. รับประทานอาหารกลางวัน ณ ห้องอาหารลักษณา ขาหมูนางรอง จังหวัดบุรีรัมย์
ブリーラム県にある「名物・ナーングローング焼き豚」のラクサナー食堂で昼食

13.30 น. นำท่านเดินทางสู่ปราสาทพนมรุ้ง โดยผ่านขึ้นสู่เขาพนมรุ้งทางสะพานนาคราชอันยิ่งใหญ่ ศาสนบรรพตที่งดงามที่สุดในประเทศไทยให้ท่านได้ชมปฎิมากรรมอันลำค่าที่บรรจงสร้างในสมัยพระเจ้าชัยวรมันที่ 7 สมัยขอมเรืองอำนาจ และนำท่านเดินทางต่อสู่ อ. ประโคนชัย
ナーカラート大橋側からパノムルゥング高地を通って、パノムルゥング遺跡宮殿へ。クメール覇権時代にチャヤオラマン7世によって建立された、タイで最も荘厳な宗教的建築物をご覧いただいてから、プラコーンチャイ郡へ皆さんをお連れします。

16.00 น. นำท่านชมปราสาทเมืองต่ำ ศาสมสถานขนาดเล็ก ที่งดงามด้วยลวดลายจำหลัก ศิลปะแบบบาปวนที่สร้างเป็นปราสาทอิฐ 5 หลัง อยู่บนฐานเดียวกันก่อด้วยศิลาแลง ได้เวลาอันสมควรนำท่านเดินทางต่อสู่จังหวัดนครราชสีมา
ムアングタム遺跡宮殿へ。紅土で作られた土台の上にそびえる、パープワング(?)様式の石造りの5棟の宮殿からなる荘厳な小規模宗教施設をご覧いただいて、折を見てナコーンラーチャシーマーへ皆さんをお連れします。

19.00 น. รับประทานอาหารค่ำที่ภัตตาคารเสียวเสี้ยว โดราช นำเข้าสู่ที่พัก โรงแรมสีมาธานี ถนนมิตรภาพ จังหวัดนครราชสีมา 30000 044-2133100
レストラン「シアオシアオ」で夕食後、宿泊地「シーマーターニー」ホテルへ。(郵便番号30000 ナコーンラーチャシーマー県ミトラパープ通り 044-2133100)

2004年3月19日(金)

昨晩、午前3時までルームメイトのカンボジア人と語り合っていたせいでひどい睡眠不足。猛暑の影響をモロに受けてフラフラになりながら、ピマーイ遺跡と附属博物館で聞いても分かるはずのない専門的な話を聞いた。予定より1時間半遅れの午後7時半に大学前に到着。季節外れに雨のなか、直ちに解散してタクシーで帰宅した。 

วันที่สองของการเดินทาง วันพฤหัสสบดีที่ 19 มีนาคม 2547 (ปราสาทหินพิมาย – กรุงเทพฯ)
旅程第2日目 2547年3月19日 (ピマーイ石造遺跡宮殿 – バンコク)

07.00 น. รับประทานอาหารเช้าในโรงแรม
ホテルで朝食

09.00 น. นำท่านเดินทางสู่ อ.พิมาย นำชมแหล่งโบราณคดีที่ทรงคุณค่าทางประวัติศาสตร์ “ปราสาทหินพิมาย” ปราสาทหินที่ใหญ่ที่สุดในประเทศไทย สัมผัสกับความงดงามอันเป็นแม่แบบให้ดับนครวัดในเขมร และลวดลายที่สลักบนทับลังและหน้าบันของปราสาท
ピマーイ石造宮殿へ。タイ国内最大の石造宮殿で歴史的貴重とされている古典の舞台であり、またカンボジア国内の寺院都市の原型となった。宮殿の紅土壁面の表裏には精細な細工が施されている。

11.00 น. แล้วนำท่านเข้าชม พิพิธภัณฑ์สถานแห่งชาติพิมาย ชมศิลปะโบราณวัตถุประเภทต่าง ๆ ที่จังแสดงเรื่องราวเกี่ยวกับความเจริญรุ่งเรื่องของวัฒนธรรมอีสานในอดีต โบราณวัตถุสมัยก่อนประวัติศาสตร์ที่นำมาจัดแสดงได้แก่ เครื่องปั้นดินเผาโบราณโครงกระดูก เรื่องมือ เครื่องประดับที่ทำจากสำริดและหิน โดยเฉพาะที่ค้นที่พบปราสาทหินพิมาย เช่น ทับหลังหน้าบัน เสาประดับหรอบประตู ทวารบาล และประติมากรรมรูปเคารพ อาทิ พระพุทธรูป เทวรูป รูปพระโพธิสัตว์ แบะรูปสลักศิลาพระเจ้าชัยวรมันที่ 7 เป็นต้น
その後、ピマーイ国立史跡資料館へ。古代イサーン地方における文化的繁栄を示す多種多様な古典芸術のほか、ピマーイ遺跡宮殿で見つかったリンテルやその後ろに置く装飾品、門神像、造形芸術(仏像、女神像、動物神像、ジャヤバルマン7世石像など)に代表されるような、古典的火葬釜、道具、青銅や石で作られた装飾品をご覧いただけます。

12.30 น. รับประทานอาหารกลางวัน ณ ร้านอาหารใบเตย (หน้าปราสาทหินพิมาย) หลังอาหารนำท่านเดินทางกลับสู่กรุงเทพฯ ระหว่างทางแวะช้อปปิ้งเลือกชื้อสินด้าได้ตามอัธยาศัย
昼食後、ピマーイ遺跡宮殿前の食堂「バイトーイ」での昼食後、バンコクへ。帰途、ショッピングのために停車し、自由行動でお土産を選べます。
18.00 น. ถึงกรุงเทพฯ โดยสวัสดิภาพ
無事にバンコクに到着

2004年4月20日(火)

午前10時、クラスメイト25人がバンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)の出発ロビーに集合した。今回の調査旅行は、東南アジア研究科の学生全員に参加が義務づけられており、欠席すると修了できなくなる。予算はひとり65,000バーツで、全額が研究室の予算から支出される。外国人学生の大半が、昨晩または今朝未明に母国からバンコクに戻ってきたばかりで、みんなひどくグッタリとしている様子。

午前12時15分、僕たちはプレジデント航空876便でバンコクから飛び立った。13時25分、カンボジアの首都にあるプノンペン・ポーチェントン国際空港に着陸。後発開発途上国とはいえ首都の空港だけあって、小規模ながらも整備が行き届いている。空港から老朽化が激しい大型観光バスに乗ってプノンペン市街へと向かった。

プノンペンは、メコン川、トンレサップ川、バサック川が合流する海上交通の要衝で、人口約99万人。ノロドム王によって建設された1866年以降、今日までこの都市はカンボジア王国の首都であり続けている。

トンレサップ川に面したカンボジア料理店「トンレ」で昼食をとった。ヴェトナム人クラスメイトによると、カンボジア料理はタイ料理よりもヴェトナム料理に似ているそうで、味もヴェトナム人を満足させるレベルにあるという。しかし、タイ人クラスメイトは不慣れなカンボジア料理を嫌い、店外にあるグワイッティアオ(クッティオ)(タイ風ラーメン)屋台に殺到した。

食後、僕たちは王城「カンボジア王宮」へと向かった。1919年にフランス人建築家によって建設され、現在でも国王と王妃の居住と公務の場となっている。典礼施設のほか、歴史的にも貴重な国家遺産を見て回ることができる。仏教寺院「シルバーパゴダ」に隣接しており、カンボジア人ガイドによるとタイの王宮建築の影響を受けているという。

その後、国立博物館で国内各所から発掘された銅像や壁画などの解説を受けてから、1時間ほど船に乗ってたどり着いたメコン川畔の海鮮料理店「ラムチョング」で夕食をとり、今晩の宿泊地ホテル「プノンペン」へと向かった。

タイの教育機関が主催する調査旅行だけに、てっきりひどいホテルに泊まらせられると思っていたが、ホテル「プノンペン」は贅を尽くした超高級ホテルだった。カンボジア人ガイドによると、宿泊料金は一泊100ドル前後。

日本で買ったデジタルカメラの使い方を深夜までクラスメイトたちに教えてから自室へと引き取った。

2004年4月21日(水)

朝、 CKS クメール研究所で、カンボジア遺跡についての講義を受けた。各時代の彫刻の特徴などについて学んだが、まったく理解できなかった。クラスメイトたちも退屈しているようで視線が宙を彷徨っていた。

昼、ホテル Juliana Hotel Phnom Penh(ジュリアナホテルプノンペン) のレストラン VANDA (ヴァンダ)で7ドルのランチビュッフェを食べ、シャワーを浴びるためにホテルに戻ってから、ポルポト時代の粛清と虐殺の歴史を今に物語るトゥール・スレン虐殺博物館を見学した。

この博物館は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党, ポル・ポト派)支配下のカンボジアに設けられた政治犯収容所 S21 を、侵攻してきたベトナム軍が発見して一般公開したもの。中等教育学校の校舎を改装して作られ、クメールルージュ党内の反革命分子をはじめ、教員、学生、資本家など約20,000人が収容され、少なくともその99.97%が処刑されたという。館内には多くの拷問器具、大小さまざまな独房、処刑された人々の写真などが展示されている(あまりにも気分が悪いので、館内で撮影した写真はすべて削除した)。

その後、市場「ロシアンマーケット」でカンボジア語フォント CD-ROM (1ドル)、カンボジア語学習 CD-ROM (1ドル)、扇子(1ドル)を購入。ふたたびホテルへと戻って今日3回目のシャワーを浴びた。主任教官から「CKS クメール研究所の研究員たちとの親睦会があるため、フォーマルで見栄えの良い衣服を着用するように」と指示を受けた。

ビュッフェ形式のディナーを食べ、カンボジア国産ピール「アンコール」を飲みがらクメール研究所の研究員たちと話を弾ませた・・・・・・と書きたいところだが、彼女たちの英語力は凄まじく低く、ロクに会話にもならなかった。彼女たちは他に職業を持ち、夜間の時間帯を利用して勉強に励んでいるという。そこで「あなたが日本人だと聞いて・・・・・・」といって近づいてきた若くて美しい学生もいたが、僕は肩をすくめて手早く会話を切り上げ、足早にゲートの外に脱出した。食後、カンボジア様式なのかタイ様式なのかも分からない意味不明なフォークダンスを踊ってホテルへと戻った。

今日は朝のシャワーを含めて、1日4回ものシャワータイムが用意された。照りつける灼熱の太陽と、未舗装路を走るクルマが巻き上げる砂埃のせいで、シャワーを浴びてスッキリしたいという欲求を常に感じていたが、同時に「どうせシャワーを浴びたところですぐに汚くなってしまうだろう」という諦めの気分もあった。

深夜、CKS クメール研究所の研究員から紹介してもらったディスコ Heart of Darkness にクラスメイトたちと繰り出した。 DJ の腕は最高にヘボかった。曲と曲とをつなぐときに空白の時間ができてしまうのには正直あきれ果てた。しかし、ここプノンペンでは外国人や娼婦(売春婦)が集まるディスコとして定評があるらしい。そこで偶然「一生プノンペンに住み続ける」という日本人に出会った。なお、ベトナム人クラスメイトによれば、ここの娼婦(売春婦)の相場は20ドル。僕なら特別に15ドルまで負けてくれるという。

カンボジア人クラスメートからの忠告がある。

「おそらく君はバンコクの事情には精通しているだろうが、ここはバンコクじゃない。まずはその点を確認しておいてくれ。バンコク都内の娼婦(売春婦)もかなりの確率でエイズに感染しているが、プノンペンはその比ではない。娼婦(売春婦)を見たら、まずエイズ患者と思って間違いない」

2004年4月22日(木)

いよいよ今日から本格的な遺跡調査が始まる。とはいえ、僕たちにはカンボジア考古学の専門知識がないため、せいぜい観光ガイドブックの解説を元に見て回るのが精一杯だろう。

※ このシリーズでは、タイ語表記を元に日本語に起こしています。これは、筆者がタイ語環境のなかで遺跡を回ったからです。そのため、日本で一般的に用いられている英語発音から起こした名称とは異なります。カンボジア人クラスメイトによれば、英語発音よりもタイ語発音のほうがカンボジア語発音に近いそうです。

ひとつめの遺跡は、今晩の宿泊地ガンポントム(コンポントム)の北約100キロにある遺跡群「サンボー・プレークック」。西暦7世紀初頭に国王イシャーナヴァルマン一世が建立した。今回の調査旅行に同行しているマイケル・ヴィクリー博士(カンボジア考古学)によると、遺跡を見るときには①建築技術による年代の推定と②壁画装飾による宗教文化の伝播に注目しなければならないという。壁画に描かれている神と「その他のオブジェクト」との位置関係などが重要な手がかりになるというが、ヒンズー教に疎い僕にはさっぱり理解できなかった。

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040422-2.jpg" width="300" height="169" align="right" />夜、カンボジア中央部にあるガンポントム(コンポントム)市街のホテル「スタングセン・ロイヤルガーデン」に宿泊。ひどい客室と、ひどい料理、黄色いシャワーなどは、僕たちをひどくウンザリさせた。それでも、ここは後発発展途上国の地方都市。ホテルに冷房があるだけでもラッキーだったかも。

2004年4月23日(金)

クラスメイトたちは、僕の旅行カバンを「ゴミ袋」と呼んでいる。由来はゴミ袋(黒, 45リットル用)のなかにカバンが入っていることから。

カンボジアの都市と都市とのあいだを結ぶ主要幹線道路は、ほぼすべてが未舗装路。この国で道路が舗装されているのは、せいぜい首都の近郊と地方都市の中心部くらいのもの。物流の大動脈である国道6号線(プノンペン – タイ・アランヤプラテート間)も例外ではなく、僕たちを乗せたバスは未舗装路にできた凸凹を避けながらジグザグに走っている。車内はまるでトランポリン。ろくに昼寝すらできない。

交通量が多く、沿道に住む人々は一日中砂埃を被りながら生活している。僕たちが乗っているオンボロ観光バスの貨物室にも大量の砂埃が侵入してしまう。だから、僕はこうしてカバンをゴミ袋に入れて砂埃から守っている。

幹線道路に架けられている橋は、非常に簡素で強度もない。そのため、複数のクルマが同時に通過するのを防ぐために、あえて狭く作られている。沿道の家々には電力をはじめ、上下水道や都市ガスなどの基本的なライフラインが普及しておらず、人々はまるで原始人のような生活を送っている。カンボジア人ガイドによると、アンテナが立っている家屋がちらほらとあるが、ほとんどは自家発電で電力をまかなっているため、電力を大量に消費するカラーテレビは使えず、今でも白黒テレビが活躍しているという。

何時間も車外の風景を眺めていると、それぞれの集落に共通した特徴を発見した。集落の入口には政党の看板が掲げられており、まるでその政党が集落全体を支配しているかのよう。実際に各集落にある政党事務所は、集落一の有力者の(一番大きくて一番豪華な)家がほとんどだ。

今日はアンコール遺跡群西部にある西バライ(仏教様式, 11世紀末にスールヤヴァルマン一世とウダヤーディティヤヴァルマンにより建立)と、アック・ヨム(ヒンドゥー教様式, 7世紀初頭に建立)を見学した。

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040423-4.jpg" width="300" height="169" align="right" />ホテル「シティ・アンコール」にチェックインしてシャワーを浴び、レストラン「バイヨンⅡ」でカンボジア固有の伝統芸能「アプサラ」を見物した。

今回の調査旅行に同行しているヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)大学院准教授(政治学)の話。

「我々タイ人にも、ラーマギアン(ラーマキエン)(タイ伝統舞踊)とアプサラ(カンボジア伝統舞踊)の違いがあまりよく分からない」

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