2004年2月5日(木)
午前8時、
国家法秩序回復委員会が1988年、
午後3時半、僕たちは
この付近の国境は依然未確定のままになっている。このメームーイ市場では、写真にある①の領域がタイ領、②の領域がミャンマー領、③の地域が帰属未確定地域。国境ゲートは市場の南にある橋の両端にあるが、ミャンマー人は国境ゲートを使わずに川を渡ってやってくる。国境に架かる橋の通行料は10バーツ。
そこで、不法に越境してくるミャンマー人について、メームーイ市場の軽食屋店主に聞いてみた。
「以前は(③で示した)帰属未確定領域にも市が出ていたが、昨年バンコクで催されたAPECを契機にタイ当局によって閉鎖されてしまった。タイ人がこの川を渡ってミャンマー領に入ることはまずないが、ミャンマーの少数民族「カレン」が荷物を抱えて越境してくる。カレン族が持ち込んでくる荷物の大半が中国からミャンマーへと流入したタバコ。しかも、それは品質保持期限が切れたものを中国人が二束三文で売り払ったもので、とてもではないが喫煙に耐えうる品質にない。実際のところ、ミャンマー人が売りに来るものはほとんどがロクでもないものばかり。ロクでもないといえば、その最たるものはミャンマー政府そのものだ。彼らはロクな民生政策がなく、国民に自力救済を強い、軍の兵器も老朽化がひどく使い物にならない。国民も馬鹿ばっかりで、とても話のできる相手ではない」
また、この店主は彼らの置かれた事情を次のように説明した。
「だからといって、もし仮に彼らが賢くミャンマー政府の不満を言い出すようになったら大変だ。政治に関する話を一言でもすれば、すぐに政治犯として捕らえられ即刻政治犯収容所行き。彼らは政府から生活に関する支援を何も受けられずにおり、だからといって政治的手段に訴えて生活の向上を図ることもできないから、生きるためにもタバコを売りに来ざるを得ないんだ。気の毒といえば気の毒だが、さしあたって俺たちにできることは何もない」
「あんたのミャンマー嫌いも相当なものだからね」
軽食屋の店主による演説会は学生8人を前に、彼の妻が頻繁に横から突っ込みを入れるといったスタイルで約30分にもわたって繰り広げられた。少し長すぎるような気もしたが、自分が知らない話を個人的な視点で語ってくれたのは興味深かったし参考にもなった。
彼らミャンマー人の窮状については、明日以降の調査で徐々に判明することを期待している。
ところで、今晩ルームメートのカンボジア人から興味深い話を聞いた。これは今日の日記の主題ではないから概要だけにとどめる。
プノンペン大学講師の月給45ドル。NGOなど民間から請け負った調査報酬1日30-50ドル。妻(公務員)の月給350ドル(破格の待遇とか)。使用人の月給45-50ドル。王宮から5キロ離れたところにある土地(5×16メートル)の値段2000ドル。家の建設費4000ドル。ラナリット元第1首相はカンボジア人の誰もが認める無能者で、現首相フンセンに排除されたのも当然。内戦時のプノンペンは大騒ぎだった。プノンペンにいる日本人の大半は調査目的。外国人向けのゲスト街は王宮周辺の数百メートルのところにあり、一方はまとも、もう一方は麻薬利用者向けで酷く不潔。これらの地域は分かれている。プノンペン市内の外国人英語教師の質は低く、その大半は麻薬常用者だと考えて良い。彼らの報酬は時給2-20ドル程度で能力によって異なる。「俺自身の生年月日が今ひとつはっきりしない。原始的生活を強いられたポルポト時代には、カレンダーすらなかったから」。地名のカンボジア語読みは、英語よりもタイ語に近い。(ゴッゴング・ポーイペートなど)。
今晩はターク県メーソート市内のホテル「ポーンテープ」に宿泊した。



金融機関(社内SE職)を退職後、タイ国立ヂュラーロンゴーン大学文学部の集中タイ語講座を修了。米国語学留学を経て、同大学東南アジア研究科で修士号を取得。現在、日本国内の専門商社で海外営業に従事。
旅の指さし会話帳①タイ
タイ語読解力養成講座
タイ日大辞典
タイを知るための60章
地図がつくったタイ
タイのこころ
ギック―友達以上、でも恋人じゃない
Sexteen Thailand
ターク県
次にキリスト教会の支援で運営されているカレッジ「カメソーレイ・カレン族浸礼派神学校 」のシモン校長に話をうかがった。キャンプ生活でのエピソードが話の主題となったが、そのなかに興味深い話がいくつかあった。
聞き取り調査のためにキャンプ内を徘徊していると、意外なほどたくさんの発見があった。僕たち日本人が「難民キャンプ」という言葉からイメージするのは、きっと不衛生で過酷な環境ではないだろうか。しかし、ここの「難民」たちは、そのイメージとはかけ離れた豊かな生活を送っている。
キャンプ内で建設資材として用いられる木材はきちんと規格どおりに加工され、
難民たちの衣服は、どれも清潔で状態もよい。僕たち日本人が着ている T シャツと比べても遜色ない。キャンプの運営規則では、年に1度だけ難民に衣類が配給されることになっているが、彼らには自分の金で買ってきた服が何着かあるはずだ。
事前のガイダンスで研究員が話していた言葉の意味がようやく理解できた。カレン族難民は、農村部のタイ人よりも遥かに豊かな生活を送っている。貧困が社会問題となっているタイで、このような難民の実態が広く知れ渡ってしまったら、何らかの抗議運動が起きること疑いない。このキャンプ自体が「タイ人の不興と反感」を買って、政府は閉鎖を余儀なくされるだろう。しかし、そんなことをしたら「国際社会からの批判」にさらされる。このような厄介な問題から回避するためにも、政府としてはこの情報を絶対に自国民に知られるわけにはいかない。
外国人による不法就労には、どの国も手を焼いているようだ。特にタイは最貧国(後発発展途上国)であるラオス、カンボジア、ミャンマーの3国と陸続きで隣接しているため、日本より深刻な事態に直面している。こうした不法労働者の多くは、バンコクでは経済的に恵まれている市民の邸宅で使用人として働くか性風俗産業に従事し、地方では小作農として働くケースが多い。
タイ研究科主催のクメール遺跡ツアーに参加した。
昨晩、午前3時までルームメイトのカンボジア人と語り合っていたせいでひどい睡眠不足。猛暑の影響をモロに受けてフラフラになりながら、ピマーイ遺跡と附属博物館で聞いても分かるはずのない専門的な話を聞いた。予定より1時間半遅れの午後7時半に大学前に到着。季節外れに雨のなか、直ちに解散してタクシーで帰宅した。
午前10時、クラスメイト25人がバンコク・
午前12時15分、僕たちはプレジデント航空876便でバンコクから飛び立った。13時25分、カンボジアの首都にあるプノンペン・ポーチェントン国際空港に着陸。後発開発途上国とはいえ首都の空港だけあって、小規模ながらも整備が行き届いている。空港から老朽化が激しい大型観光バスに乗ってプノンペン市街へと向かった。
トンレサップ川に面したカンボジア料理店「トンレ」で昼食をとった。ヴェトナム人クラスメイトによると、カンボジア料理はタイ料理よりもヴェトナム料理に似ているそうで、味もヴェトナム人を満足させるレベルにあるという。しかし、タイ人クラスメイトは不慣れなカンボジア料理を嫌い、店外にある
食後、僕たちは王城「カンボジア王宮」へと向かった。1919年にフランス人建築家によって建設され、現在でも国王と王妃の居住と公務の場となっている。典礼施設のほか、歴史的にも貴重な国家遺産を見て回ることができる。仏教寺院「シルバーパゴダ」に隣接しており、カンボジア人ガイドによるとタイの王宮建築の影響を受けているという。
その後、国立博物館で国内各所から発掘された銅像や壁画などの解説を受けてから、1時間ほど船に乗ってたどり着いたメコン川畔の海鮮料理店「ラムチョング」で夕食をとり、今晩の宿泊地ホテル「プノンペン」へと向かった。
ホテルに泊まらせられると思っていたが、ホテル「プノンペン」は贅を尽くした超高級ホテルだった。カンボジア人ガイドによると、宿泊料金は一泊100ドル前後。
朝、 CKS クメール研究所で、カンボジア遺跡についての講義を受けた。各時代の彫刻の特徴などについて学んだが、まったく理解できなかった。クラスメイトたちも退屈しているようで視線が宙を彷徨っていた。
この博物館は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党, ポル・ポト派)支配下のカンボジアに設けられた政治犯収容所 S21 を、侵攻してきたベトナム軍が発見して一般公開したもの。中等教育学校の校舎を改装して作られ、クメールルージュ党内の反革命分子をはじめ、教員、学生、資本家など約20,000人が収容され、少なくともその99.97%が処刑されたという。館内には多くの拷問器具、大小さまざまな独房、処刑された人々の写真などが展示されている(あまりにも気分が悪いので、館内で撮影した写真はすべて削除した)。
その後、市場「ロシアンマーケット」でカンボジア語フォント CD-ROM (1ドル)、カンボジア語学習 CD-ROM (1ドル)、扇子(1ドル)を購入。ふたたびホテルへと戻って今日3回目のシャワーを浴びた。主任教官から「CKS クメール研究所の研究員たちとの親睦会があるため、フォーマルで見栄えの良い衣服を着用するように」と指示を受けた。
ビュッフェ形式のディナーを食べ、カンボジア国産ピール「アンコール」を飲みがらクメール研究所の研究員たちと話を弾ませた・・・・・・と書きたいところだが、彼女たちの英語力は凄まじく低く、ロクに会話にもならなかった。彼女たちは他に職業を持ち、夜間の時間帯を利用して勉強に励んでいるという。そこで「あなたが日本人だと聞いて・・・・・・」といって近づいてきた若くて美しい学生もいたが、僕は肩をすくめて手早く会話を切り上げ、足早にゲートの外に脱出した。食後、カンボジア様式なのかタイ様式なのかも分からない意味不明なフォークダンスを踊ってホテルへと戻った。
深夜、CKS クメール研究所の研究員から紹介してもらったディスコ Heart of Darkness にクラスメイトたちと繰り出した。 DJ の腕は最高にヘボかった。曲と曲とをつなぐときに空白の時間ができてしまうのには正直あきれ果てた。しかし、ここプノンペンでは外国人や
いよいよ今日から本格的な遺跡調査が始まる。とはいえ、僕たちにはカンボジア考古学の専門知識がないため、せいぜい観光ガイドブックの解説を元に見て回るのが精一杯だろう。
クラスメイトたちは、僕の旅行カバンを「ゴミ袋」と呼んでいる。由来はゴミ袋(黒, 45リットル用)のなかにカバンが入っていることから。
幹線道路に架けられている橋は、非常に簡素で強度もない。そのため、複数のクルマが同時に通過するのを防ぐために、あえて狭く作られている。沿道の家々には電力をはじめ、上下水道や都市ガスなどの基本的なライフラインが普及しておらず、人々はまるで原始人のような生活を送っている。カンボジア人ガイドによると、アンテナが立っている家屋がちらほらとあるが、ほとんどは自家発電で電力をまかなっているため、電力を大量に消費するカラーテレビは使えず、今でも白黒テレビが活躍しているという。
何時間も車外の風景を眺めていると、それぞれの集落に共通した特徴を発見した。集落の入口には政党の看板が掲げられており、まるでその政党が集落全体を支配しているかのよう。実際に各集落にある政党事務所は、集落一の有力者の(一番大きくて一番豪華な)家がほとんどだ。