2004年7月22日(木)

20040722.jpg朝、タイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環として、研究室が用意したワゴンでアユッタヤー(アユタヤ)へと移動し、歴史資料館やヂャーオサームプラヤー(チャオサムプラヤー)史跡博物館のほか、周囲の遺跡寺院を見学して回った。

先月末にタイ国立博物館を見学したときには、タイ国内にはまともな博物館など存在しないとすら思ったが、アユッタヤー(アユタヤ)歴史資料館は近代的な作りでタイ史に興味を持っている人々の期待を裏切らない作りになっている。

2004年8月4日(水)

朝、タイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環として、2530(西暦1988)年に工学部横の「ヂャッグラポング館(チャックラポン館)」に設置されたヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)歴史館を見学した。館内では、卒業した王族たちの記念写真をはじめ、日本の国民服に似ている第二次大戦中の制服、大学章のモデルとなったプラギアオ(プラキアオ)などが展示されている。

ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)の「もうひとつ」の学生街である「サームヤーン(サムヤン)」のコーヒー屋で文献を読んでから、サームヤーン市場(サムヤン市場)で夕食をとった。

2004年9月12日(日)

モムラーチャウォング・クックリット・プラーモート(ククリット・プラモート) หม่อมราชวงศ์ คึกฤทธิ์ ปราโมช は、ラーマ2世の曾孫にあたる王族のひとり。1975年からの約1年間タイの首相を務め、その後も日刊紙サヤームラットを創刊するなど立憲君主制下における民主化の立役者となった。王朝四代記(スィーペンディン)の作家としても知られ、芸術に関する造詣も深かったと伝えられる。

南サートーン町プラピニット通り19番地にあるモムラーチャウォング・クックリット(ククリット・プラモート)・プラーモート邸(2513年完成)の敷地面積は約5ライ。ラーマギアン(ラマキエン物語)を演じるためのステージと純タイ様式の母屋が、氏の文化人らしい嗜好を色濃く反映している。

クックリット80財団によって、いまもなおそのままの状態で保存されており、土曜日・日曜日・祝日の午前10時から午後5時まで一般に公開されている。

今日はタイ研究科の講座「タイ史博物館論」の授業の一環として、クックリット・プラーモート元首相邸を見学し、友人たちとサヤームスクウェア(サイアムスクエア)で昼食を取ったあと、Starbucks Coffee(スターバックスコーヒー)ペーパー(小論文)を書いた。

2004年9月16日(木)

今日はタイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環で、正午に文学部前に集合してワゴン2台に分乗し、西に約40キロの地点にあるプッタモントン仏教公園へと出かけた。

プッタモントン พุทธมณฑล は仏教暦2500年、プッタガーン(仏教信仰がブッダの死後5000年は続くという伝承)の半分が経過したことを記念して、ナコーンパトム県(ナコンパトム県)に造営された仏教公園。陸軍元帥ピブーン・ソンクラーム政権期の2498年に造営事業が始まり、途中、内政問題などでたびたび中断を余儀なくされたが、陸軍大将グリアンサック・チャナナン政権期の2521年に再開された。2,500ライ(約4キロ平方メートル)の敷地には、仏教会議所、仏教博物館、石碑展示場などを備えている。現在でもプッタモントンファーイカラーワート補完委員会によって、さまざまな事業が行われている。

この公園のシンボルは、広大な庭園内に公園中央部にそびえ立つ、高さ15.895メートルの巨大な観音菩薩像。スィラパーゴーン大学(シラパコン大学)教授シン・ピーラスィーが設計したスコータイ様式の青銅像で、国王から「プラスィーサーガヤタットポンラナーン・プラターンプッタモントンスタット」という名が下賜されたという。

夕方、大学に戻っていつもの自習仲間たちと中央図書館に籠ってタームペーパー(学期松小論文)作業を続けた。

2004年9月23日(木)

タイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環として、スィンラパーゴーン大学(シラパコン大学)考古学部副学部長の案内で、同大学の附属美術館を見学した。が、僕は自習仲間たちとクラスメイトの一団から脱出して、同大学中央図書館で文献を収集し、提出期限が間近に迫ったタームペーパー(学期末小論文)を書いていた。

だから、この美術館について僕が知っているのは「有名なタイ人芸術家達が作った彫刻や絵画などが展示されている」ことくらい。

2004年12月7日(火)

タイにおける労働社会は、封建制度下に築かれたサックディナー制(位階田制)11月2日付留学生日記参照)の上に成り立っている。このサックディナー制(位階田制)による影響については、タイの労働論のみならず、タイに関することすべてを語るうえで絶対に避けては通れない。

今日は労働論の授業の一環として、マッガサン通り(マッカサン通り)にあるタイ労働者博物館に行った。1991年に設立された東南アジア地域唯一の労働者博物館で、封建制度下における奴隷売買、近代化と奴隷労働力、中国移民とアヘン問題、ヂュラーロンゴーン大王(ラーマ5世)による奴隷制廃止、カナラーサドーン(人民党)による立憲革命、戦後の労働争議や現代の「こどもの強制労働」などの貴重な資料が展示されている。入場料は無料。開館時間は午前10時から午後4時半まで。

夕方、12月5日の国王誕生日を祝う祭りが行われている、ウドムスック通りのスワンルワング(スアンルアン)公園へ友人と出かけた。OTOP(1村1品政策)産品の市が立ち、屋台射撃や輪投げなどの景品付きアトラクションもあった。普段はジョギングや水泳を楽しむ市民たちに人気があるという。入場料は有料。開館時間は午後7時まで。

2004年12月18日(土)

東南アジア価値観論の講義の一環として、水を重視した都市開発について学ぶために、旧都トンブリー地区にあるチャックプラ運河に出かけた。

チャックプラ運河(別名:バーングクンスィー運河)は、ヂャーオプラヤー川(チャオプラヤ川)の旧本線で、現在ではスワンナキリー寺の対岸にあるバーングコークノーイ運河からバーングコークヤイ運河・パースィーヂャルーン運河までの全長約8キロを結ぶ、用水路、水上交通路、観光資源として用いられている。その名称は旧暦の12月にナーンスィー寺で行われていた行事に由来しているという。

タリングチャン区(タリンチャン区)役所前から大学がチャーターした高速船に乗り、いまだ運河とともに生活を送っている人々の生活をかいま見ながら、さまざまな仏教寺院に寄りつつ、環状運河を一周してタリングチャン区(タリンチャン区)役所前の船着場へと戻った。

この講座を担当している外国人講師によると、水路交通が交通の重要な位置を占めていた頃の船首像の文化は、現在でもバンコク都内を走る路線バスやタクシーなどの公共交通機関が掲げている国旗や国王旗に受け継がれているという。

タリングチャン区(タリンチャン区)役所前の船着場にある水上食堂で昼食をとってから、王室の典礼船か係留されている海軍基地を見学した。

2005年2月7日(月)

「わたしは敬虔な仏教徒よ。だからバラモン教(プラーム)の信仰対象にはワーイ(手を合わせる)しないの」

昼前、午前中の講座「東南アジア映画演劇論」の講師を交えてクラスメイトたちと昼食をとるために、徒歩で CWP Central World Plaza(セントラルワールドプラザ) へと向かっていた。ラーチャプラソング交差点(ラチャプラソン交差点)前に差し掛かったところで、クラスメイトのエーちゃん(仮名)に「タクシー運転手だってエーラーワン廟にワーイ(手を合わせる)をしているのに、どうしてやらないのか」と尋ねたところ、このような答えが返ってきた。

エーちゃんによると、エーラーワン廟(サーンターオマハーラームエーラーワン, エラワン廟)の起源は、インド・バラモン神の乗り物の名「エラワン」を掲げている高級ホテル Grand Hyatt Erawan Bangkok(グランドハイヤットエラワン) の建設中に火災や死亡事故などの災難が相次ぎ、当時、建設前に十分な祈祷を行わなかったために土地神が祟ったのが原因であるとウワサされたため、ヒンドゥー教とバラモン教の創造神「ブラフマー」を奉納したことにさかのぼる。現在では祈れば恋愛が成就すると信じられている。

エーラーワン廟は、外国人向けツアー旅行のルートになっている CWP Central World Plaza(セントラルワールドプラザ) ちかくにある。東南アジア映画演劇論の講師によると、ここで奉納できるタイの伝統舞踊「ラーマギアン(ラーマキエン)」の技術はかなりお粗末という。

その後、スィーロム通り(シーロム通り)の珈琲屋でペーパー(小論文)を書いた。

2005年7月13日(水)

「ちょっとぉ、あの辺なんて洪水になってるじゃないの? ここから、どうやって出ればいいのよ!?」

昼、ヂャッグリー・マハープラサート宮殿(チャクリ大宮殿)内部の荘厳な謁見の間や拝謁者控室で、優雅に歴代の国王や王族の肖像画を眺めていたところ、突如、滝のような大雨が宮殿全体を襲った。

ヂャッグリー・マハープラサート宮殿(チャクリ大宮殿)は、ラッタナゴースィン朝(ラタナコーシン朝, チャクリ朝)開闢100周年を記念して、プラヂュンラヂョームグラーオ大王(チュラロンコーン王, ラーマ5世)(1853-1910)の命で建設された。風格あるビクトリア様式と純粋なタイ様式が見事に融合されており、白亜の宮殿とも呼ばれている。

日本庭園では白砂が池に例えられているが、タイの伝統建築では石畳で海や川を表現している。

王族の担当講師は、すでに左隣のアマリンウィニッヂャイ堂(アマリンウィニッチャイ堂)へと移動していた。しかし、一般公開されていない王宮に、雨に濡れたくないという理由だけで、王族の講師なしに居座り続けるのは難しい。しかも雨脚が弱まる気配は一向にない。そこで一念発起して靴を脱ぎ、宮殿前に広がる「海」(=石畳, 水深25センチ)を裸足で駆け抜け、アマリンウィニッヂャイ堂(アマリンウィニッチャイ堂)へと飛び込んだ――と書くと、いかにもそれっぽいカンジになるが、実際はシャワーより強い雨に打たれ、アマリンウィニッヂャイ堂(アマリンウィニッチャイ堂)に着いた頃には、まるでプールに落ちた子供のように服がびしょ濡れのグジャグジャになっていた(昔から豪雨の屋外でシャンプーしてみたいと考えていたが、チャンスが到来するたびに「こんな歳になって、そんなことはしてはイケナイ」と思って自制してしまう)。

午前8時、王宮前で集合。豪雨のなか、王宮やワットスィーラッタナサーサダーラーム寺院(ワットプラケオ, エメラルド寺院)の非公開部分を見学してまわり、予定を切り上げて正午に解散。スィンラパーゴーン大学(シラパコン大学)前の食堂でクラスメイトたちと昼食をとった。洋服がびしょ濡れのままだったため、普段なら絶対に乗らない普通バス(赤バス)(エアコンなし, 6バーツ)で帰宅した。

その後、アヌサーワリーチャイサモンラプーム戦勝記念塔駅(ビクトリーモニュメント駅)前にあるパブ Saxophone(サクソフォーン) でタイ旅行中の L.A.(ロサンゼルス) 留学時代の友人たちと夕食をとり、カーオサーン通り(カオサン通り)にあるクラブを3件ハシゴした。友人の解説のおかげで、なんとかタイのクラブシーンを L.A.(ロサンゼルス) や六本木と比較できるようになった。 L.A.(ロサンゼルス) のクラブは一応知っているから、つぎの休みに六本木へ行って、参考文献リストを作れば、ミニ論文くらいなら書けてしまうかも。ちなみに、友人によると、カーオサーン通り(カオサン通り)のクラブがもっとも日本の感覚に近いそうだが、タイ式の Pub and Restaurant(パブまたは飲み屋) に慣れきっている僕にとっては、貧相でまったくイケてない印象の方が強い。

2005年8月17日(水)

「タイ音楽を西洋楽器で演奏するのにも、西欧音楽をタイ楽器で演奏するのにも賛成できない」

タイ研究科の必修講座「タイ文化論」を担当している講師は、国王の曾孫に与えられる「モムラーチャウォング(モムラチャウォン)」の称号を持ち、王統派史家の牙城「サヤーム協会(サイアムソサエティー)」の会長を務めている。それだけに、先祖代々受け継がれてきた上流文化にとりわけ強いコダワリを持っている。「タイ伝統文化のスゴさ」をテーマにした講義が多く、王統派史家の歴史観を学ぶことができる。

午前9時半、サナームルワング(王宮前広場)前にある国立博物館に集合。チケット売場で館内撮影許可をもらい、スコータイ時代以降の王朝史に関する展示物がある本館へと向かった。水の都アユッタヤー(アユタヤ)プラヂュンラヂョームグラーオ大王(ラーマ5世, チュラロンコーン大王)(1853-1910)による中央集権国家建設と州県制の整備(ヂャッグリー改革(チャクリ改革))、英仏への領土割譲(内容はトングチャイの「地図が作ったタイ」と背反する)等に関する数々の史料がある。しかし、歴代王朝の華々しい歴史のみを扱っているため、サックディナー制(位階田制)と奴隷制、1932年以降の軍事革命(クーデター)と民衆虐殺など、タイ史における負の部分についてはマッガサン通り(マッカサン通り)にある労働者博物館の方が詳しい。

正午、国立劇場裏手にある芸術局付属ナーダスィン(ナタシン)高等専門学校バンコク校の学生食堂で夕食をとり、構内中心部にあるプラウボーソットブワンサターンスターワートを見学した。ヂャッグリー改革(チャクリ改革)以前に存在した「副王」は、芸術の分野で王室と競い合っていたため、ここにインド文化をふんだんに取り入れた壁画を作り上げた。その後、映画「風の前奏曲(ホームローング)」に出演した音楽教師が教室で弦楽器曲「プラチャンプレーングチェートナイチャンディアオ」をソロ演奏してくれ、次第に学生たちも加わっていった。タイ楽器のオーケストラ演奏に、感動のあまり涙を流す学生が続出した。

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