2005年3月5日(土)

午前5時、ようやくペーパー(小論文)が仕上がり、データを教官にメールしてから帰宅。外付けハードディスクにデータのバックアップをとって、ソニーのサービスセンターへ修理に出すよう友人に依頼した。予算は3万バーツ。ミャンマー旅行中に、悩みの種を完全に解決してしまいたい。

1時間半の仮眠をとってから、友人にバンコク・ドーンムアング空港(ドンムアン空港)まで送り届けてもらい、ミャンマー航空332便でミャンマー・ヤンゴン(ラングーン)空港へと向かった。

ミャンマーは、第二次世界大戦終結にともない旧日本軍が撤退すると、イギリス連邦による再侵攻を受けて1948年までふたたび植民地化された。独立後、共産主義政権が発足したが、度重なるクーデターを経て、現在ではミャンマー国軍が政治と経済の両面を支配している。

この国はとにかく変わった国だ。軍事政権は、国際線で帰国した国民に血液検査を義務づけており、クラスメイトのミャンマー人も空港で血液検査を受けていた。ウワサによると、この血液検査でエイズの感染が確認されると処刑されるという。

タイの片田舎でも問題なく使える移動体通信網(携帯電話網)も、ミャンマーではほとんど普及していない。 SIM カードは政府の管理下にあり、いつも唐突に、しかも数量限定で売り出される。3日もしないうちに売り切れて、その後は十万バーツ以上の値段で個人売買されるという。現在、タイ首相タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)の資本が移動体通信網を整備して、 SIM カードを200バーツ前後で売り出すのウワサもあり、人々は15万バーツも出して今すぐ購入するべきか、それとも今は様子見をして安くなるのを待つべきかと頭を悩ませている。

数年前にようやくインターネットが解禁されたそうだが、ホテルのビジネスセンターからはウェブサイトを開くことができず、ウェブメールを送ることもできなかった。実際に送受信を試みたクラスメイトによると、聞いたこともないウェブメールサービスを使って英文メールを送ることはできても受信する手段がないという。

到着後、ヤンゴン市内にある政府系の中級ホテル「ユザナ」(一部屋20ドル)で現地研究者による講義を受けてから、カンドンヂー湖の畔にあるレストラン「カラウェイパレス」でミャンマー古典舞踊を鑑賞しながら不味い夕食をとった。食後、中国人街があるマハーバンドーラ通りの19番街でミャンマービールを生で飲もうと考えていたが、これもツアー旅行の悲しさ、集合時間に追われていため観光バスまでそのまま歩いた。

ヂェーディー(パゴダ)の国といわれるだけあって、ホテルの部屋からもシュエダゴンパゴダを臨むことができた。ミャンマーを代表するヂェーディーのひとつと聞いているが詳細は不明。予定表によると、今回の旅行のクライマックスという位置づけにあるようだ。

2005年3月6日(日)

午前中、現地の専門家をホテル「ユザナ」に招いて行われたミャンマー外交の講義に出席してから、中国の援助で建設されたヤンゴン川に架かる橋を渡って首都ヤンゴン近郊のシリアム(タニン)へと向かった。ここで今回の旅行で最初のヂェーディー(仏塔, パゴダ)を見せられ、その南にある水中寺院イェレーに立ち寄った。

夕食前、ヤンゴンにおける商業の中心地である公営市場「ハッピーワールド」を見て回った。民族衣装や生鮮食料品などが豊富に揃っており、現地の人々で賑わっていた。交通の要衝でもあり、京成電鉄バス、新京成バス、神奈川中央バス、都営バスなどの中古車両がひっきりなしに発着を繰り返していた。老朽化が激しいヤンゴンの市場と、日本でもまだまだ使えそうな日本製中古路線バスのコントラストが印象的だった。

道行く人々は老若男女を問わず皆がロンヂーと呼ばれるスカートを腰に巻いている。見た目には少し違和感があるこの巻きスカート(900~3,000ヂャット=1ドル~3ドル)だが、日頃から熱帯の炎天下でジーンズ生活している僕にとっては、風通しがよくて快適な画期的なニューファッションだった(僕はこの旅の間、ずっと木陰に隠れてロンヂーをパタパタさせて涼んでいた)。

夕食前、ユザナホテルの裏道を散策していると、道路脇の公衆水浴び場で老若男女かまわず巻きスカート「ロンヂー」を身に纏ったまま体を洗っていた。公務員や銀行員もロンヂーをはいて出勤しており、部屋着から余所行き服、そして水着(?)至るまでさまざまなシチュエーションに対応できる衣服として人々の生活に深く根付いている。

夜、小洒落た高級中華料理店で夕食をとり、ホテルのロビーに集合したクラスメイトたちとクラブ「パイオニア」へ出かけた。 入場料は1ドリンク付き4,500ヂャット(おそらく外国人料金)。西洋人1名を含む僕たちアジア諸国人グループ10人は、フロアの一番奥にあるテーブル2つを占拠して、カンボジアの放送局が生中継しているサッカーの試合を眺めながら店内が盛り上がるのを待っていた。当初、ミャンマー人はロンヂーをはいてクラブに来るのかと心配したが、盛り上がってくるにつれて増えてきた若者たちはいずれもタイ系または日本/台湾系のオシャレをしており、僕たちは胸をなで下ろした。タイよりも社会風紀の統制がとれているせいか、グループ間にある壁が日本以上に高かった。僕たちはそんな雰囲気を無視して、狂ったように踊りまくり、タクシーでホテルへと戻った。

タイ生活のなかで、僕は「美白こそ究極の美」というタイ人的な価値観にすっかり馴染んでしまっている。それだけにミャンマー人女性の肌の黒さには心底ガッカリした。

2005年3月7日(月)

「ホテルは水道工の出張修理代金や部品交換費用として45ドルの請求をしてきたわ。いまホテルの支配人と金額について話し合っているところなんだけど、あなたの考えはどう?」

ヤンゴン(ラングーン)中心部にあるホテル「ユザナ」2階の食堂で不味いアメリカンブレックファストをとっていたところ、ミャンマー人ガイドがタイ語でそう話しかけてきた。

昨晩、クラブ「パイオニア」でミャンマービールの中ジョッキを少なくとも10杯は飲んだ。当然それなりに酔っぱらっていたが、泥酔というほどではなかった。ホテルに戻ってからシャワーを浴びていたところ水道の蛇口が閉まらなかったため、少し体重をかけたら蛇口から変な音がして水が止まらなくなってしまった。すぐにハウスキーピングに連絡を入れ、指示通り水道の水を出したまま翌朝に修理工が来るまで放っておいた。

ホテルの支配人と協議した結果、「老朽化により弱っていた備品の損傷についてはホテルが責任を負うべき」という大学側(ミャンマー人ガイド、タイ人ガイド、主任教授)の主張が通り、ホテルが費用の全額を持つことになった。僕の「備品の老朽化のせいで、朝まで騒音に悩まされたのだから、宿泊費用を返却すべき」という主張は退けられた。

今日は、現地のテレビ映画監督をホテル「ユザナ」の会議室に招いて行われたミャンマー映画演劇論の講義に出席した(終日)。賠償交渉も丸一日かかった。つい最近まで鎖国状態にあったミャンマーでグローバルスタンダードを押し通すのは難しい。

2005年3月8日(火)

「これ、たったの1ドルだよ。ハッピーマネーなんだから買ってよ。ね、おねがい」

ミャンマーの物売りは素朴だ。マフィアに管理されている柄の悪いタイの物売りたちとは少し違う。物売りの少女は「ハッピーマネー」という言葉を繰り返し口にしていた。クラスメイトによると、ハッピーマネーとは「今日一日の商売を占う最初の売り上げ」のことという。物売りの少年少女たちは、片言のタイ語、英語、日本語が操れたため、お互いにからかい合っているうちに次第にうち解け、さらに偶然居合わせた日本人が連れていたマッサージパーラー(!?)の女性従業員3人組も交えて、パゴダの前でとんだドタバタ劇を演じてしまった(最後には鬼ごっこまでやってしまった)。

「だからって、物売りの少女から商品をただでもらって来ちゃうのは、ちょっとやりすぎなんじゃない? ケチすぎるわ」

タイを知らない日本人が「タイ人って貧乏で可愛そう」と本気で思い込んでいるのと同じで、タイ人クラスメイトたちも「ミャンマー人って貧乏で可愛そう」と思っている。テレビドラマを収録しているスタジオに着くまで、観光バスのなかでひどく詰られた。

(それなら、学食で君たちに果物やベトナム風春巻きを勧められたときに、僕は断らなきゃいけなかったのかい?)

そう切り返したくなったが、さすがにやめておいた。むやみにケンカを売ったところで何も得しない。厚意でプレゼントされたものは、素直に受け取っておくのが一番だ。自分を基準にしてものを考えるあまりに物事の本質を見失ってはいけない。

国立博物館を見学してから、ミャンマー国内で有名な女優が演じているテレビドラマの撮影現場にお邪魔して、昨日の講義にあった「少ない予算でもそれなりの映像を作り上げるための工夫」について学んだ。

2005年3月9日(水)

ミャンマー料理は脂っこすぎる。もしかしたら脂っこくないミャンマー料理もあるのかもしれないが、僕の知る限りミャンマー料理はすべて脂っこい。あんな脂っこい料理ばかり食べていて、どうしてミャンマー人の胃はもたれないのだろうか。

朝、市内の大衆食堂をテレビドラマ監督に紹介された。タイの大衆食堂のような店構えだったが、出てくる料理は得体の知れないものばかり。付き合いで仕方なく発酵米麺モヒンガーに口を付けたが、監督と別れて観光バスに戻ってから、タイ人ガイドが気を利かせて用意してくれていた蟻入りサンドイッチを食べて空腹を紛らわせた。

昼食の中華料理もひどかった。隣国の中華人民共和国と密接な関係にあるため、ミャンマーには中華系移民が数多く住んでおり中華料理屋も全国各地にあるというが、今日の中華料理はとにかく最低だった。

夕食はシーフード料理というウワサだったが、なんとなくイヤな予感がしたからホテルに居残ってふて寝した。クラスメイトのジャネットちゃん(仮名)が翌朝、「料理のあまりのひどさに、温厚なあのオちゃん(仮名)が口汚くこきおろしたほど」と話していた。あんな拷問のような料理を食べさせられるくらいなら、精神的にも一日の疲れを癒すために部屋で寝ていた方がよほど良い。

ただでさえ昼夜を問わずクラスメイトたちとの団体行動を強いられ、自分の時間を持てずにストレスが溜まっているのに、まったく興味もないヂェーディー(仏塔, パゴダ)を炎天下何ヶ所も見せられ、しかも出てくる料理が食うに耐えないとあっては本当に救われない。

午後10時就寝。僕のほかにも2人の学生が今日の夕食を拒否した。

2005年3月10日(木)

パガン(プガーム)はビルマ人最初の王朝パガン朝(プガーム朝)(西暦11-13世紀)の首都として栄えた。エーヤワディー川の中流域にある平野部には、アホとしかいいようがないほどたくさんのヂェーディー(仏塔, パゴダ)が林立している。現在、ここにあるものは道路と樹木を除けば、小さなヂェーディー、普通のヂェーディー、大きなヂェーディーしかない。ここにいると、ヂェーディー(仏塔, パゴダ)が地平線の彼方まで続いているのではないかと錯覚する。ミャンマー人ガイドによると、この一帯には3,000~5,000くらいのヂェーディーがあるという。

ミャンマー政府は、ヂェーディー(仏塔, パゴダ)だらけの古都の一部「オールドバカン」を考古学保護区に指定している。ところがミャンマー考古学者の教授によると、政府や国際機関はオリジナルの建築様式を調査することなく、倒壊した遺跡の尖塔部にそれっぽいものを「ポン」と乗せてしまったという。しかも、観光客の誘致と外貨の獲得のために21世紀に入った現在でも次から次へとヂェーディー(仏塔, パゴダ)を建立し続けている。これは、考古学者たちが最も忌み嫌っている「ロマンを消し去る考古学的破壊行為」であり、国際的な評価を得るのはまず期待できない。当然ユネスコ世界遺産の登録にも失敗している。しかし、それだけにパガン(プガーム)の遺跡群には、カンボジア遺跡のような寂れたイメージはない。

午前4時半起床。ヤンゴン国際空港は、戦時中の地下鉄新橋駅を思い起こさせるように暗く、飛行機の到着を待っているミャンマー人の老若男女は国民服である巻きスカートをはいている。そこからマンダレー航空461便でミャンマー中部にある古都パガン(プガーム)へと向かった。
 
 
その後、僕たち東南アジア研究科のクラスメイト一行はシュエジゴンパゴダ(西暦1084年建立)をはじめ、ヂヤンシター寺院、ティローミンロー寺院などを見て回り、無数のヂェーディーの彼方に見える地平線に太陽が沈むのをミンガラーヂェーディーの頂上から眺めた。
 
 
日没後、ミャンマー芸能であるパペットを観劇しながら、パーテーションで区仕切られたプレートに乗っている温野菜、魚料理、肉料理などのミャンマー宮廷料理を食べた。僕はすっかりココナッツライスの虜になってしまい、パペット劇を無視してむさぼり食べていたところ、同じテーブルに座っていたクラスメイトたちからツッコミを受けた。

「ココナッツライスを気に入ってもらえたようでとても嬉しいわ。実は、タイ料理にも似たようなメニューがあるんだけど食べたことないかしら? まあ、いいわ。久々のまともな料理だから必死になって食べるのは分かるけど、ココナッツライスには気をつけたほうがいいわよ。とにかく太るのよ。カロリーがものすごく高いの。・・・・・・だから、私たちはこの牛肉をお代わりすることにするわ」

そんなことを話しながら、日頃からの料理への鬱憤を晴らすかのように、僕たちはひたすら食べ続けた。それにしても、パペット劇をまじめに見ていた人なんていたのだろうか。

2005年3月11日(金)

いつもと変わらぬヂェーディー(尖塔, パゴダ)めぐり。おのおののヂェーディー(尖塔, パゴダ)にはそれぞれ異なる名前がつけられており立地もまるで違うのだが、そんな些細なことなどもうどうでも良くなった。朝食後にヂェーディー(尖塔, パゴダ)を見に行き、お楽しみの昼食をとってからまた別のヂェーディー(尖塔, パゴダ)を見に行くというルーチンワークのような毎日を送っている。クラスメイトたちもタイに戻れる日を心待ちにしており、夕食から午前零時までのカクテルタイムを唯一の楽しみにしている。

今日の見どころはパガン(プガーム)近郊にあるナット信仰の聖地「ポッパ山」で、標高は標高1518m。西部劇に出てくるような台形の岩山で、その頂上にはやっぱりヂェーディーがある。600段もの石段を裸足で登り、周囲の山々を眺めてから山を下りた。麓にある高級ホテル Popa Mountain Resort(ポッパマウンテンリゾート) で遠くに見えるポッパ山を眺めながら高級中華料理と午後のコーヒーを楽しんだ。

ストレスが着実に蓄積していくなか、ホテルの格も日々パワーアップしている。パガン(プガーム)・タラバー門前の高級リゾートホテル The Hotel @ Tarabar Gate(ザ・ホテル・アット・タラバーゲート) に宿泊し、プールサイドにあるカクテルバーが閉店するまでクラスメイトたちと飲み続けた。酒でも飲んでないと本当にやってらんない。

2005年3月12日(土)

ミャンマー第2の都市であるマンダレーは国土のほぼ中央に位置している。ミンドン王がここに都を移してヂェーディーを建立し、1885年にイギリス軍に滅ぼされるまでの約25年間、コンバウン朝最後の都として栄えた。
 
 
正午すぎ、マンダレー航空432便でパガンからマンダレーへと向かった。観光バスでは登ることのできない斜面を小型トラックの荷台に乗って移動し、ミャンマー最大の寺院群「ガンダーヨング僧院」を拝観してまわって寺院内の壁画についての解説を受けてから、外国人観光客がほとんど訪れることのない古都インワへ渡し船や馬車などで移動した。このあたりには産業と呼べるようなものはほとんどなく、地域住民の収入はもっぱら数少ない外国人観光客がもたらす観光収入に依存している。現地住民が着ているTシャツの襟首を見てみると、生活の厳しさを容易にうかがい知ることができる。

今日のメインイベントは馬車レースだった。道路が舗装されておらず、前方を走る馬車が巻き上げる砂埃をモロにかぶってしまったため、カンボジア人クラスメイトが現地の馬車乗りから手綱を奪って先頭を目指したところ、ほかの馬車も次々とレースに参加していった。

僕たちはいま、遺跡や寺院を見て回ること以外の娯楽を求めている。

夜、マンダレー市内の高級ホテル Mandalay Hill Resort(マンダレーヒルリゾート) に泊まり、プールサイドやラウンジで生演奏を聴きながら優雅に酒を飲んだ。

2005年3月13日(日)

今回、東南アジア研究科の一行は、ガイドブックに掲載されている大小さまざまな都市のほとんどに足を運んでおり、しかも地図にすら書かれていないような都市にも立ち寄っている。

昼、学生街にある中華料理屋で昼食をとってから、その隣にあるこぢんまりとした海賊版 CD 屋でミャンマーポップスを聴きながら出発までの時間をつぶした。この都市は高地にあり、古くからの避暑地として知られるが、現在では陸軍士官学校の城下町となっている。背筋を伸ばして足早に歩いている学生たちが、教官とすれ違うたびに立ち止まって敬礼をしていた。まるで軍事基地にいるかのようだ。

今回の旅行では無数の寺院を拝観してきたが、バンコクにいるときよりも平凡な日々を送っている。おかげで日記に書けるような興味深い事件が起こらずに困り果てている。クラスメイトたちは、酒に酔ってホテルのプールで泳いでいたり、バイオリン奏者から楽器を拝借してホテルのロビーでビールジョッキ片手に演奏するなどして気を紛らわせながら、バンコクに戻れる日を指折り数えている。

今日も数え切れないほどたくさんの寺院を拝観した。しかし、どうしても丁寧にひとつひとつ紹介する気分になれないから、写真を貼ってやり過ごしたい。

2005年3月14日(月)

朝、予定を変更して JICA 独立行政法人国際協力機構 の ODA 政府開発援助事業を見学した。昨年のカンボジア旅行でも現地ガイドやクラスメイトたちとともにアンコールワット遺跡の修復事業を通じて日本の途上国援助について学んだが、今回はもう少し一般市民の視点に立って考えてみたい。

午前7時起床。眠い目を擦りながら朝食のビュッフェを平らげ、追い立てられるように食堂を後にしてロビーに集合し、 JICA のミャンマー人スタッフの案内でマンダレー市郊外にある寺院へと向かった。

僕たちがそこで目にしたのは、後進国の田舎にありがちな寺院附属の仮設教室だった。ひとことで仮設教室といっても、この場合は木の柱に屋根が乗っているだけの掘っ立て小屋で、雨風をしのげるような施設ではなかった。3つある教室のあいだに仕切りはなく、緑色のおそろいのロンヂーをはいている休暇中の若手の教員たちが、普段学校へ行くことのできない子供たちに教育を施している。

教員によると、マンダレー市内に張り巡らされているバス路線は郊外まで来ていないし自動車普及率もかなり低いため、学校までの移動手段がなく教育を受けられない子供たちがたくさんいるという。しかし、この取り組みは教育を受けられない子供たちに教育を受けられるための環境を整えることではなく、最悪な状況をいくらかマシにすることを目的としており、仮設教室を運営するための費用はすべて寄付によってまかなわれているという。 JICA の職員がなぜこの事業にかかわっているのかは結局分からずじまいだった。

ひととおり仮設教室の説明を受けてから、正体不明の中華料理と不味そうなホットミルクコーヒーを前にこの寺の僧に事業の詳細を尋ねた。最後に寄付を募る箱が回ってきて、今回のもてなしの真意を理解した。なんだか少し横暴すぎるようにも思えたが、僕は仕方なく財布から1ドル札を取り出して箱に突っ込んだ。

その後、遊覧船や木製の小船でマンダレー市郊外にある寺院をめぐり、夕方には首都ヤンゴンに戻ってヤンゴン随一の中華料理店で夕食を満喫した。当初の予定ではホテル「ユザナ」に泊まることになっていたが、僕たちを乗せた観光バスがミャンマー最高級のホテル Traders(トレーダーズ) へ入っていくと、車内から大きな歓声が沸き起こった。

ニタニタとしている主任教授が僕のほうを見て「ホテルがヘボいという苦情があったから、仕方なく今晩は君のために5つ星ホテルを用意したよ。これでまた予算オーバーになるけど、まあ仕方ないか」と話し、隣の席にいたクラスメイトが僕に「みんなを代表して、ちゃんとお礼を言っておいてね」と耳打ちしてきた。

みんな、あまりにもちゃっかりしすぎている。こうして、今晩もいつもと変わらぬプールサイドでの飲み会が始まった。

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