2005年3月5日(土)
午前5時、ようやく
1時間半の仮眠をとってから、友人にバンコク・
ミャンマーは、第二次世界大戦終結にともない旧日本軍が撤退すると、イギリス連邦による再侵攻を受けて1948年までふたたび植民地化された。独立後、共産主義政権が発足したが、度重なるクーデターを経て、現在ではミャンマー国軍が政治と経済の両面を支配している。
この国はとにかく変わった国だ。軍事政権は、国際線で帰国した国民に血液検査を義務づけており、クラスメイトのミャンマー人も空港で血液検査を受けていた。ウワサによると、この血液検査でエイズの感染が確認されると処刑されるという。
タイの片田舎でも問題なく使える
数年前にようやくインターネットが解禁されたそうだが、ホテルのビジネスセンターからはウェブサイトを開くことができず、ウェブメールを送ることもできなかった。実際に送受信を試みたクラスメイトによると、聞いたこともないウェブメールサービスを使って英文メールを送ることはできても受信する手段がないという。
到着後、ヤンゴン市内にある政府系の中級ホテル「ユザナ」(一部屋20ドル)で現地研究者による講義を受けてから、カンドンヂー湖の畔にあるレストラン「カラウェイパレス」でミャンマー古典舞踊を鑑賞しながら不味い夕食をとった。食後、中国人街があるマハーバンドーラ通りの19番街でミャンマービールを生で飲もうと考えていたが、これもツアー旅行の悲しさ、集合時間に追われていため観光バスまでそのまま歩いた。




金融機関(社内SE職)を退職後、タイ国立ヂュラーロンゴーン大学文学部の集中タイ語講座を修了。米国語学留学を経て、同大学東南アジア研究科で修士号を取得。現在、日本国内の専門商社で海外営業に従事。
旅の指さし会話帳①タイ
タイ語読解力養成講座
タイ日大辞典
タイを知るための60章
地図がつくったタイ
タイのこころ
ギック―友達以上、でも恋人じゃない
Sexteen Thailand
午前中、現地の専門家をホテル「ユザナ」に招いて行われたミャンマー外交の講義に出席してから、中国の援助で建設されたヤンゴン川に架かる橋を渡って首都ヤンゴン近郊の
夕食前、ヤンゴンにおける商業の中心地である公営市場「ハッピーワールド」を見て回った。民族衣装や生鮮食料品などが豊富に揃っており、現地の人々で賑わっていた。交通の要衝でもあり、京成電鉄バス、新京成バス、神奈川中央バス、都営バスなどの中古車両がひっきりなしに発着を繰り返していた。老朽化が激しいヤンゴンの市場と、日本でもまだまだ使えそうな日本製中古路線バスのコントラストが印象的だった。
道行く人々は老若男女を問わず皆がロンヂーと呼ばれるスカートを腰に巻いている。見た目には少し違和感があるこの巻きスカート(900~3,000ヂャット=1ドル~3ドル)だが、日頃から熱帯の炎天下でジーンズ生活している僕にとっては、風通しがよくて快適な画期的なニューファッションだった(僕はこの旅の間、ずっと木陰に隠れてロンヂーをパタパタさせて涼んでいた)。
夕食前、ユザナホテルの裏道を散策していると、道路脇の公衆水浴び場で老若男女かまわず巻きスカート「ロンヂー」を身に纏ったまま体を洗っていた。公務員や銀行員もロンヂーをはいて出勤しており、部屋着から余所行き服、そして水着(?)至るまでさまざまなシチュエーションに対応できる衣服として人々の生活に深く根付いている。
夜、小洒落た高級中華料理店で夕食をとり、ホテルのロビーに集合したクラスメイトたちとクラブ「パイオニア」へ出かけた。 入場料は1ドリンク付き4,500ヂャット(おそらく外国人料金)。西洋人1名を含む僕たちアジア諸国人グループ10人は、フロアの一番奥にあるテーブル2つを占拠して、カンボジアの放送局が生中継しているサッカーの試合を眺めながら店内が盛り上がるのを待っていた。当初、ミャンマー人はロンヂーをはいてクラブに来るのかと心配したが、盛り上がってくるにつれて増えてきた若者たちはいずれもタイ系または日本/台湾系のオシャレをしており、僕たちは胸をなで下ろした。タイよりも社会風紀の統制がとれているせいか、グループ間にある壁が日本以上に高かった。僕たちはそんな雰囲気を無視して、狂ったように踊りまくり、タクシーでホテルへと戻った。
「ホテルは水道工の出張修理代金や部品交換費用として45ドルの請求をしてきたわ。いまホテルの支配人と金額について話し合っているところなんだけど、あなたの考えはどう?」
「これ、たったの1ドルだよ。ハッピーマネーなんだから買ってよ。ね、おねがい」
国立博物館を見学してから、ミャンマー国内で有名な女優が演じているテレビドラマの撮影現場にお邪魔して、昨日の講義にあった「少ない予算でもそれなりの映像を作り上げるための工夫」について学んだ。
ミャンマー料理は脂っこすぎる。もしかしたら脂っこくないミャンマー料理もあるのかもしれないが、僕の知る限りミャンマー料理はすべて脂っこい。あんな脂っこい料理ばかり食べていて、どうしてミャンマー人の胃はもたれないのだろうか。
昼食の中華料理もひどかった。隣国の中華人民共和国と密接な関係にあるため、ミャンマーには中華系移民が数多く住んでおり中華料理屋も全国各地にあるというが、今日の中華料理はとにかく最低だった。
ただでさえ昼夜を問わずクラスメイトたちとの団体行動を強いられ、自分の時間を持てずにストレスが溜まっているのに、まったく興味もない
午前4時半起床。ヤンゴン国際空港は、戦時中の地下鉄新橋駅を思い起こさせるように暗く、飛行機の到着を待っているミャンマー人の老若男女は国民服である巻きスカートをはいている。そこからマンダレー航空461便でミャンマー中部にある古都
その後、僕たち東南アジア研究科のクラスメイト一行はシュエジゴンパゴダ(西暦1084年建立)をはじめ、ヂヤンシター寺院、ティローミンロー寺院などを見て回り、無数のヂェーディーの彼方に見える地平線に太陽が沈むのをミンガラーヂェーディーの頂上から眺めた。
日没後、ミャンマー芸能であるパペットを観劇しながら、パーテーションで区仕切られたプレートに乗っている温野菜、魚料理、肉料理などのミャンマー宮廷料理を食べた。僕はすっかりココナッツライスの虜になってしまい、パペット劇を無視してむさぼり食べていたところ、同じテーブルに座っていたクラスメイトたちからツッコミを受けた。
いつもと変わらぬ
今日の見どころは
ストレスが着実に蓄積していくなか、ホテルの格も日々パワーアップしている。
ミャンマー第2の都市であるマンダレーは国土のほぼ中央に位置している。ミンドン王がここに都を移してヂェーディーを建立し、1885年にイギリス軍に滅ぼされるまでの約25年間、コンバウン朝最後の都として栄えた。
正午すぎ、マンダレー航空432便でパガンからマンダレーへと向かった。観光バスでは登ることのできない斜面を小型トラックの荷台に乗って移動し、ミャンマー最大の寺院群「ガンダーヨング僧院」を拝観してまわって寺院内の壁画についての解説を受けてから、外国人観光客がほとんど訪れることのない古都インワへ渡し船や馬車などで移動した。このあたりには産業と呼べるようなものはほとんどなく、地域住民の収入はもっぱら数少ない外国人観光客がもたらす観光収入に依存している。現地住民が着ているTシャツの襟首を見てみると、生活の厳しさを容易にうかがい知ることができる。
今日のメインイベントは馬車レースだった。道路が舗装されておらず、前方を走る馬車が巻き上げる砂埃をモロにかぶってしまったため、カンボジア人クラスメイトが現地の馬車乗りから手綱を奪って先頭を目指したところ、ほかの馬車も次々とレースに参加していった。
今回、東南アジア研究科の一行は、ガイドブックに掲載されている大小さまざまな都市のほとんどに足を運んでおり、しかも地図にすら書かれていないような都市にも立ち寄っている。
今回の旅行では無数の寺院を拝観してきたが、バンコクにいるときよりも平凡な日々を送っている。おかげで日記に書けるような興味深い事件が起こらずに困り果てている。クラスメイトたちは、酒に酔ってホテルのプールで泳いでいたり、バイオリン奏者から楽器を拝借してホテルのロビーでビールジョッキ片手に演奏するなどして気を紛らわせながら、バンコクに戻れる日を指折り数えている。
朝、予定を変更して JICA 独立行政法人国際協力機構 の ODA 政府開発援助事業を見学した。昨年のカンボジア旅行でも現地ガイドやクラスメイトたちとともにアンコールワット遺跡の修復事業を通じて日本の途上国援助について学んだが、今回はもう少し一般市民の視点に立って考えてみたい。
その後、遊覧船や木製の小船でマンダレー市郊外にある寺院をめぐり、夕方には首都ヤンゴンに戻ってヤンゴン随一の中華料理店で夕食を満喫した。当初の予定ではホテル「ユザナ」に泊まることになっていたが、僕たちを乗せた観光バスがミャンマー最高級のホテル
ニタニタとしている主任教授が僕のほうを見て「ホテルがヘボいという苦情があったから、仕方なく今晩は君のために5つ星ホテルを用意したよ。これでまた予算オーバーになるけど、まあ仕方ないか」と話し、隣の席にいたクラスメイトが僕に「みんなを代表して、ちゃんとお礼を言っておいてね」と耳打ちしてきた。