2003年11月29日(土)

気ままな旅には危険がいっぱい。

昨晩、日本から来ている中学時代の友人と話していたところ、タイ南部のビーチリゾート「プーゲット(プーケット)島」が話題にのぼった。この友人とは以前、アメリカ南部国立公園探訪ドライブ(総走行距離3,000キロ)を敢行したこともあって、当初冗談にすぎなかったこの話も翌日の今日には実現した。

バイトのあと、僕の部屋で待機していた友人と合流。高架電車 BTS アソーク駅前にあるデパート「ロビンソン」地下のスーパーで食料を調達し、僕たちはタイスキ店 MK で夕食をとりながら走行計画を立てた。

この走行計画の甘さが、僕たちを夜明けまで悩ませることになる。僕はドライブの鉄則を無視して、思い込みだけで計画を立ててしまった。走行経路の地形など全く意に介さなかったし、「数字の小さい国道ほど整備されていて走りやすい」というのも単なる思い込みにすぎなかった。

午後10時10分、僕たちは高架電車 BTS アソーク駅前のデパート「ロビンソン」を出発。サムットサーコーン県を通る国道35号線プララームソーング(ラマ2世)通りを経由して、サムットソンクラーム県パークトーで国道4号線ガーンヂャナーピセーク(カンチャナピセーク)通りに合流。11時半にペッブリー(ペチャブリー)県、翌30日午前零時10分にプラヂュワップキーリーカン(プラチュアップキリカン)県の県境を越えた。

ところが、チュンポン市で国道41号線と分岐する交差点を右折すると、それまで片側2車線あった国道4号線が片側1車線になった。さらにインドシナ半島を南北に走るグラ地峡を越える山道が続き、速度も60キロ以上出せず、疲労が加速度的に蓄積していくのとは裏腹に距離をなかなか稼げなくなった。午前2時20分ラノーング(ラノン)県入り。その後もミャンマー国境から数キロのところを通過し、いくつもの検問に遭遇しながらもゆっくりと南下を続けた。

村の沿道には野良犬がウロウロしている。そのため野良犬を轢き殺さないように注意深く運転せざるを得ず、疲労の蓄積にさらなる拍車をかけた。実際、ほかのクルマに轢かれてグチャグチャになっていた犬の死骸を3体見つけ、生きている猫1匹を危うく跳ねそうになり、さらに何台ものクルマに踏まれ跡形もなくなっていた犬の死骸1体を踏みつけた。

そんななか、午前5時半には力尽き、周囲に町といった町もないミャンマー国境から10キロも離れていない僻村の道路脇にクルマを停め、窓を開けてぐっすりと寝込んでしまった。

2003年11月30日(日)

午前8時、僕たちは国道4号線沿いに駐めた車中で目を覚ました。

そこは山間部の僻村だった。開け放たれた窓から入ってくる朝の空気がオイシイ。外から聞こえてくる音から、バイク以外の交通がほとんどないことが分かる。そして夜明けまで運転していたせいでボンヤリとしている頭をハッキリさせようと、運転席の椅子を起こして周囲の風景を眺めた。

昨晩は暗くて気付かなかったが、案外まともだと思っていた村の家々は貧相な掘っ立て小屋。道路脇を歩いている村の人々もミャンマーの民族衣装「ロンヂー(サロング)」を穿いて裸足で土の上を歩いている。僕はそんな僻村で無警戒にも窓を開放したまま寝入ってしまったという無謀さに愕然とした。

過ぎたことを心配しても仕方がない。僕たちはそのことをすぐに頭から追い払い、この悩ましい山道から一刻も早く脱出するためにアクセルを踏んで再び南下を続けることにした。

これといった街に遭遇することもなく、午前10時50分にパンガー県ターヌンとプーケット県タラーングとを結ぶサーラスィン(サーラシン)橋を横断。プーゲット(プーケット)島に入ったところで、ゲッソリとした顔をしていた僕たちは県境検問中の警察官に呼び止められ、車内と旅行カバンのすべてを調べられた。

バンコクからプーゲット(プーケット)島までの移動にかかった時間は9時間20分。当初予定では10時間だったから、なんとか予定通りに到着したことになる。しかし、その疲労たるや想像をはるかにこえるものだった。復路はスラートターニー(スラタニ)を経由する平地を走る国道41号線を使いたい。

ところで、意外なことにプーゲット(プーケット)の観光基盤はパッタヤー(パタヤ)と比較するとかなり脆弱だった。観光客に人気のパートーング(パトン)ビーチでさえ、全長500メートルのバングラ通りに観光客向けの商店があるだけで、ほかの地域には地元民向けの商店しかない。おそらく、ここでは高級ホテルに泊まって、ホテルの施設に期待するのが一番だろう。

もし再びプーゲットに来ることがあったら、今度は2,500バーツ以上のホテルに泊まることにしたい。

僕たちはホテル「パートングリゾート」にチェックインして荷物を下ろしてから、徒歩5分のところにあるマクドナルドでビッグマックを食べ、すぐにホテルへと戻って午後10時まで死んだように眠った。

午後11時、パートングビーチで一番栄えているバングラ通りで夕食をとって、旅の疲れを癒すために Go Go Bar(ゴーゴーバー) でビールを飲んだ。そこで働く娼婦(ゴーゴー嬢)に、「これだけタイ語が堪能なら、売春を斡旋してピンハネすれば絶対にいい稼ぎになる」とガイドになるよう勧められた。なお、この娼婦の話によると、プーゲットにも日本語学校があるそうで、授業料は週5日(1日1時間)で月々4,000バーツ。

2003年12月1日(月)

往路の罰ゲームのようなドライブとはうってかわって、復路は快適そのものだった。

午後2時23分にサーラスィン(サーラシン)橋を渡り、午後4時45分にマレー半島東海岸のスラートターニー(スラタニ)に到着。大型スーパー「テスコ・ロータス」のタイスキ屋 MK で夕食をとって、午後7時にスラートターニー(スラタニ)を出発。片側3車線の平坦な道路を時速130キロでとばし、およそ6時間後の午前2時半に帰宅した。

もし、往路も国道35号線プララームソーング(ラマ2世)通り→国道4号線ガーンヂャナーピセーク(カンチャナピセーク)通り→国道4号線というルートでプーケットに向かっていたなら、きっと途中の僻村で朝を迎えることもなく、出発約9時間後の午前7時にはプーゲット(プーケット)に到着していたはず。

2005年3月19日(土)

「明日から『パッタヤー国際音楽祭(パタヤインターナショナルミュージックフェスティバル)』が3日間の日程で開催されるんだけど知ってる? そのためにホテルを一部屋抑えておいたんだけど、ドタキャンされて一緒に行く相手がいなくなっちゃったのよね。宿泊料金として前払いしてある600バーツをドブに捨てるのももったいないから、もし良かったらどう?」

昨日の昼、突然友人からそう誘われて、僕たちはいまバンコクからクルマで3時間ほどのところにあるビーチリゾート、チョンブリー県パッタヤー市(パタヤ市)に来ている。

パッタヤー市(パタヤ市)の当局はなかなかの商売上手ね。公道を民間の商店に貸すことで、かなりの収入を得ているはずよ」

国際音楽祭開催にともない、北パッタヤー(北パタヤ)中央パッタヤー(中央パタヤ)にある海岸沿いの道路は通行止めになり、白いテントがひしめき合う即席のショッピングモールになった。白いテントを張っている屋台街には、食料品以外にも OTOP(一村一産品, ヌングタンボンヌングパリッタパン) 商品や旅行代理店のブースもあった。

この影響で、一方通行ばかりのパッタヤー(パタヤ)の道路は完全に麻痺して、市内各所で大渋滞が発生した。僕たちは大型スーパー Tesco Lotus(テスコロータス) で夕食をとり、3人乗りのバイクタクシー(モーターサイ)でコンサート会場に向かったためたどり着けたが、ソングテオ(乗り合いトラック, ソンテウ)や自家用車で移動していた人たちは到着までに気の遠くなるほどの時間を浪費したはずだ。

海外沿いの特設屋台でストロベリー味のかき氷(10バーツ)を購入し、市内3ヶ所に設けられている舞台で最大規模の青ステージ Love Box(ラブボックス) を見物した。コンサートには、ターターヤング(タタヤン)をはじめ AB Normal(エービーノーマル) などの有名歌手のほか、日本からも Lucifer(ルシファー) のマコトが参加した。会場は超満員でステージ100メートル以内に接近することができなかったため、5分もしないうちに会場から引き揚げホテルへと戻った。

結局、国際音楽祭を楽しむことはできなかったが、泊まりがけでパッタヤー(パタヤ)までドライブに来たと思えばそう悪くない。

2006年2月1日(水)

「そんなこと、ぜんぜん聞いてないわ。マレーシアへ行くってことは、つまり南部国境3県を通過してスンガイゴーロック国境(ナラーティワート県)を越えるってことでしょう? 私は絶対にイヤよ。パスポート持って来てないし、リスクがあまりにも高すぎる」

午前零時半、タイ国道41号チュンポーン(チュンポン)パッタルング(パッタルン)線の始点チュンポーン市(チュンポン市)で、「このままマレーシアの首都クアラルンプールまで運転してっちゃおうか?」と思いつきで提案したら、友人は拒否反応を全開にして言った。現在、南部国境3県(タイ深南部)へ行くことは、自殺行為と同義と考えられている。

南部国境3県(タイ深南部)とは、マレーシア国境に隣接しているパッターニー(パタニー)ヤラー(ヤッラー)ナラーティワート(ナラティワート)の3県。この地域に住んでいる住民の特徴は、①アッラーを崇拝し、②イスラーム教を信仰し、③マレー語でコミュニケーションをとっていること。冷戦時代、タイ政府は同化政策(汎タイ民族主義)を打ち出して、①国王を崇拝し、②仏教を信仰し、③タイ語でコミュニケーションをとるよう全国の国民に強要したが、かえって200年来の分離独立運動を激化させる原因となった。

タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)警察中佐の首相就任(2001年)以降、タイ政府はこれまでの宥和政策を転換して、汎タイ民族主義的な強硬策を前面に押し出した。陸軍は2004年4月28日、イスラームモスク「マスユィット・グルーセ」を占拠して立てこもった、ナイフやナタで武装したマレー系住民を虐殺。深南部における分離独立運動が一層激化した。これを受けて2005年5月19日、政府は南部国境3県に非常事態宣言を発令した。

一連の分離独立テロにおける死者は、ついに1,000人を超えた。この数字には、軍警察が射殺した過激派、当局の不手際により護送中に死亡した容疑者、テロリストたちの敵である軍警察の関係者、イスラーム文化の壊乱者としてテロの標的となっている教育関係者、そのた多数の一般市民が含まれている。テレビや新聞で関連するニュースが連日のように伝えられており、「南部で誰かがぶっ殺される」ことはいわば日常茶飯事となっている。

ちなみに、昨年2005年に発生した主なテロは次のとおり。

ナラーティワート県スンガイゴーロックで40人が重軽傷を負った自動車爆弾事件(2月17日)、ナラーティワート県スンガイパーディーで列車が脱線し警察官や鉄道職員など22人が負傷した鉄道爆破事件(3月27日)、ソンクラー県で2人が死亡し、70人が重軽傷を負ったハートヤイ国際空港、商店街、ホテル連続爆破事件(4月3日)、ヤラー県ヤハーで鉄塔が爆破され、路上でメモが添えられた男性の遺体が発見された事件(6月5日)、ナラーティワート県ヂャネで1人が死亡しこの年21人目の殉職教師となった学校長襲撃事件(6月24日)、ナラーティワート県ランゲで2人が死亡した海兵隊員拉致殺害事件(9月21日)、中国人2人が武装集団の襲撃を受け死亡、同日ヤラー県で教師護衛中の警官1人が射殺された事件(9月30日)、パッターニー県で3人が死亡した寺院襲撃仏僧殺害事件(10月16日)

これに対して、タイ政府は南部国境3県に対する経済制裁を実施。各村落をそれぞれレッド、イエロー、グリーンのゾーンに分類し、イスラーム過激派が多数潜伏しているレッドゾーン358村向けの地方開発費交付を停止する検討に入った。

深南部における政情不安と治安の悪化は、完全に泥沼化の様相を呈している。タイ政府は、イスラーム過激派の資金源に打撃を与えることを口実としているが、元来、この分離独立運動の背景には南部住民の貧困に対する不満がある。そこに経済制裁を仕掛けたら、いよいよ収拾がつかなくなるのは目に見えている。ただでさえ、イスラーム世界全域で近年、「イスラームのイスラーム化」という右傾化の気運が高まり、異文化に抵抗する原理主義運動が盛んになっている。

ある社会人類学者によると、イスラームのイスラーム化の背景には、『よりイスラーム的』に生きるよう促す教義が聖典クルアーン(コーラン)にあり、近年の急速な西洋化がムスリム(イスラーム教徒)を過激で反動的な原理主義へと駆り立てているという。

また、南部国境3県と中央政府とのあいだには、歴史的に根深い対立の構図がある。

15世紀中頃、タイ南部のソンクラー県からマレーシア東部のトレンガヌ州までの領域を支配していたヒンドゥー教国「ランカスカ王国」がイスラーム化。17世紀以降には交易で栄えたイスラーム教国「パッターニー王国(パッタニー王国)」が、宗主国の仏教国「スコータイ朝→アユッタヤー朝」に対して度重なる反乱を起こした。これが今日の分離独立運動スピリッツの起源となっている。18世紀に政権内部の闘争でパッターニー王国(パッタニー王国)が弱体化すると、ラッタナゴースィン朝(サヤーム, シャム, サイアム, 現在のタイ)プラプッタヨートファーヂュラーローク大王(ラーマ1世)(1737-1809)の侵攻を受けて滅亡。1882年、スルタン制が廃止されタイに完全併合された。1909年、タイのパッタニー領有がバンコク条約で国際的に承認され、パッタニー州となった。1933年、モントン(州県制)の解体により、現在の行政区分となった。第二次世界大戦中には、陸軍元帥ピブーン・ソンクラーム政権が、愛国主義政策(ラッタニヨム)に則って、国内のイスラーム教徒に対しても仏教信仰を強要し、それが今日に至るまで禍根となった(戦後、この政策は一部修正され穏健なものとなったが、それでも基本的な概念は現在でも大して変わっていない)。1945年、イギリスと同盟していた独立運動の指導者がパッタニー(パッターニー)独立を宣言。しかし、この同盟はイギリスに反故にされ、パッタニー(パッターニー)は引き続きタイに帰属することになった。その後、政府は1970年代までこの地域におけるゲリラを掃討。1980年代からは融和政策に転換して、積極的に開発予算を交付するようになった。

この問題に対する具体的な解決策はない。いろいろと自分なりのアイデアはあるが、この日記に掲載するのは適切ではないと考え割愛する。

午後5時、スクンウィット(スクンビット)13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート(スクンビットスイート)」を出発。午後6時からの40分間、エーガチャイ付近の自動車整備工場でタイヤを交換(2,500バーツ)して車体のバランスを調整(300バーツ)。午後9時、プラーンブリーで夕食をとった。目的地のスラートターニーに到着したのは翌2日午前2時50分。街のはずれにある安ホテル SR (500バーツ)に泊まった。本日の走行距離654kmだった。

1 タイの総人口は6,487万人。そのうちイスラーム教徒は230万人であり、全体の約3.5%を占める。また南部6県におけるイスラーム教徒の人口は183万人(50%)であり、特に深南部でイスラーム教徒の割合が高い。それぞれナラーティワート県で54万人(82%)、パッタニー県で48万人(80%)、ヤラー県で29万人(69%)の順。

2006年2月2日(木)

「スゴイ人混み。まるで外国にいるみたい。タイの春節は先週末で終わってるけど、本場中国人の春節休みって今週末まであるもんね。それにしても、あの部屋・・・・・・本当に出ないかしら。中国人観光客の霊感が強くて、幽霊に気づいて別のホテルに移ったとかだったらどうしよう」

午後8時40分、ソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)のショッピング街で、友人が言った。街中のいたるところに赤い春節の装飾が施され、あちらこちらから中国語が聞こえてくる。黒いナンバープレートの、見たことも聞いたこともないクルマもたくさん走っている。このクルマは、マレーシアが1983年に三菱自動車工業と合弁で設立した国策自動車メーカー「プルトン社」製。なんでもヨーロッパでは知名度が高いという。

ハートヤイ(ハジャイ)は、マレーシア国境「パーダングベーサー(パダンブサール)」の北51キロの地点にあり、マレーシア人に人気の歓楽街として知られている。マレーシア国内のマレー系(65%)は、法律によって生まれながらのイスラーム教徒と定められており、酒を飲んだり豚肉を食べたりすると宗教警察に逮捕されるため、週末になるとハメを外しにクルマで大挙押し寄せるという。タイ南部には中国系タイ人が多く、この時期には各地で大々的な春節の祭典が催されるため、ここハートヤイ(ハジャイ)プーゲット(プーケット)は中国系マレーシア人でいっぱいになる。

市内最高級ホテル Novotel Central Sukhontha Hat Yai(ノボテル・セントラル・スコーター・ハートヤイ) (3,000バーツ)に泊まろうとしたが、電話で問い合わせたところ満室のため断られてしまった。つぎに市内で最高層の Lee Gardens Plaza Hotel(リー・ガーデンズ・プラザ) (1,300バーツ)のフロントで直接かけ合ったが、ここも団体客で満室だった。やむなく、すぐ近くにある The Regency Hotel Hatyai(ザ・リージェンシー・ホテル・ハートヤイ) へと向かった。

The Regency Hotel Hatyai(ザ・リージェンシー・ホテル・ハートヤイ) には1部屋だけ空室があった。客室扉のカードキーが故障しており、入退室のたびに1階フロントの客室係を呼んで開けてもらわなければならない。それに我慢できなくなった中国人がチェックアウトして近所にある別のホテルに移ったため、今さっき空いたばかりという。このような事情を考慮して宿泊料を650バーツにまけてくれたが、この時期、そこそこのホテルに泊まれるだけでもありがたかった。しかし、友人は「絶対に何かあるはず」と勘ぐって、普段は絶対に身に付けないプラクルアングラーング(プラクルアン, 携行仏像, お守り)をクリップで T シャツの襟首にくくりつけていた。

タイ人が異常なまでに幽霊を恐れるのは、一部の日本人たちのあいだで①タイ人が精神的に幼いから、②教養がなく科学的思考ができないからと説明されている。しかし、アホな娼婦(売春婦)ならそうかもしれないが、世間一般のタイ人はもう少しまともな理由で幽霊を怖がっている。

タイ人の95%は「タイ仏教」を信仰している。これは「小乗仏教」もしくは「南方上座部仏教」と呼ばれているもので、日本国内で信仰されている「大乗仏教」とはまったくの別物。日本人的な解釈で「仏教の一派」と考えると思わぬ誤解や錯覚の原因となる。

タイ仏教は、上座部仏教40%に、土着の精霊信仰(サイヤサート)60%をかけ合わせたようなもので、日本人にとっては謎の宗教に変質している。その原因は、①難解な仏教の教義を分かりやすく説明するために奇跡の話が用いられたこと、②僧侶が寺院の建設費用を調達するために「寄進して功徳を積めば『お守り』の仏パワーで願いが叶います」と宣伝したこと、③王権の正統性を主張するために国家が仏教、バラモン教(プラーム)、精霊信仰の良いとこ取りをしことなど。だから、一般市民にとっての仏教とは、単に両親の幸福や恋愛の成就を願ったり、金運 UP の願掛けをするためのツールとされており、教義を正確に理解している人は少ない。仏教徒究極の目標は、誤った執着心おから起こる業の束縛を解放させ、迷いの世界の苦悩から脱することだが、タイ仏教は皮肉にも際限のない人々のエゴによって支えられている。

タイ人の子供は、仏教寺院密着型の地域社会で成長していく。仏教寺院で催されるお祭り(ンガーンワット)へ行き、仏教寺院の隣にある旧仏教寺院立の公立学校へと通い、一時的に出家して親孝行する(親の功徳を高め)ことで成長していく。また、1970年代の愛国主義政策(ラッタニヨム)の名残で、現在でもテレビやラジオなどのマスコミを通じて国王とセットで仏教の偉大さが宣伝されており、価値観のベースとなる精神世界に大きな影響を与えている。

言い換えれば、タイ人は日本人が想像しているような仏教ではなく、いわば宗派横断的な魔術を信仰しているため、幽霊や呪いは日本人以上にリアルな存在と受け止められている。同じホラー映画でも、日本映画「呪怨」が流行り、ハリウッド発のものがウケない理由もそのあたりにある。

午後1時45分、大型スーパー Tesco Lotus(テスコロータス) スラートターニー(スラタニー, スラーターニー)店を出発。午後5時45分にソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)を通過して、マレーシア国境がある「パーダングベーサー(パダンブサール)」入国管理局へと向かった。ところが出国審査係官によると、クルマをマレーシアに乗り入れるためには、国際通行許可証のほかに、マレーシア専用の英語ナンバープレートステッカーが必要で、しかも国境通行許可証(タイ人専用)では出入国できないという。パスポートを持ってきていない友人をここに置いていくわけにもいかないから、ハートヤイ(ハジャイ)へと引き返して今晩のホテルを探した。本日の走行距離は349キロだった。

2006年2月3日(金)

小型ソングテオ(ソンテウ, 貨物車両改造タクシー)を400メートル乗っただけで100バーツ。割高感もあるけど、それがこの島の物価なのよ。イヤなら辛抱強く自分の足で歩くことね。あ、でもこの程度のことで驚いてもらっては困るわ。物価全体が高いから、地価、人件費、家賃、食費の相場もかなり押し上げられている。ホテルもバンコクとは比較にならないほど高いはずよ」

プーゲット県(プーケット県)ガトゥー郡のパートーング(パトン)海岸にある、白人男性が経営している旅行代理店の女性従業員がこう説明してくれた。バンコクの物価も比較的高いが、30バーツのタイ料理「グワイヂャップ」が40バーツで売られている。バンコクなら行列ができる有名店しかつけられない超強気な値段。

パートーング(パトン)海岸は2006年12月26日、スマトラ沖大地震とインド洋大津波で壊滅的な被害を受けた。県内のホテルはどこも赤字必至のバカ安料金で観光客を呼び戻すためのプロモーション活動を行っていたが、復興作業が急ピッチで進められ、いまでは以前の賑わいを完全に取り戻している。宿泊料金の相場も被災前より高い。

午前10時半にソンクラー県ハートヤイ(ハジャイ)を出発し、昼食をとるためにパッタルング(パッタルン)市内を30分かけてくまなく探したがバンコク人に耐えられるような食堂が一件もなく、市街地の西約5キロにある食堂で昼食をとった。午後4時10分、きょうの目的地だったグラビー県にあるビーチリゾート「アーオナング」に到着したが、想像以上に寂れていたため、プーゲット島(プーケット島)へと向かった。パートーング(パトン)海岸のホテル「ディーワーナー」(3,300バーツ)に宿泊。本日の走行距離は453キロだった。

2006年2月4日(土)

タックスィン(タクシン)のサービスをバカンス先のリゾートホテルでも使わなきゃいけないなんて、なかなか皮肉でイイんじゃない? アイツは、国民に『国益のためにタイ製品をつかいましょう』と呼びかけておきながら、権益を私物化して親族や在外中国人たちに分配してるだけの売国奴。商法を犯して、タイの巨大企業をシンガポール企業に売却して、しかも納税の義務を無視して、それで得た巨額の資金を一切国庫に納めない。この国の首相には、国家の富を独占して、納税の義務を免れ、国を売る権利まであるというの!? で、わたしたちはタックスィン(タクシン)が中国人を接待するために建てた新築リゾートホテルに泊まっていると。なかなかオシャレよね」

午後4時半、プーゲット(プーケット)パートーング海岸(パトンビーチ)のホテル「プーゲットクレースランド」から、窓の外に広がる青い海を眺めながら友人が言った。首相の友人たちが喜びそうな中国語で溢れかえっている宮殿のようなホテルで聞くと、亡国の行く末を案じながらも手の講じようもない一般市民の歯痒さを感じる。

友人は、この部屋の豪華な内装を気に入っていたが、嫌悪感を露骨に表していた。テレビの電源を入れると、そこには日刊紙「プーヂャッガーン」の社主ソンティ・リムトーングンを指導者とする、首相退陣要求(救国運動)デモの様子が生中継されていた。

今朝、タイ首相タックスィン・チンナワット(タクシン・チナワット)警察中佐に愛想を尽かせた都市部の住民およそ50,000人が旧国会議事堂前のサナームマー広場に集結。1992年2月17日に当時の軍事政権(国家治安維持評議会→サマッキータム党=団結行動党)に対して行われたデモ(大量虐殺事件「プルッサパータミン(5月の流血事件)」)以来約13年ぶりの規模となった。人々は額に「グーチャート」(救国)と書かれた黄色いはちまきを巻いて、国王への忠誠の象徴である巨大なタイ国旗と黄色のソングプラヂャルーン旗(国王旗)を大きく左右に振り、「タックスィン(タクシン)は退陣せよ」とシュプレヒコールを上げている。テレビに出演したバンコク都知事アピラック・ゴーサヨーティン(プラチャーティパット党(民主党))は、「この集会は平和裏におこなわれる」と話した。

タックスィン政権(タクシン政権)は、「ばらまき政治」によって地方の貧困層から絶大な支持を受けている。支持率は比較的貧しい北部と東北部(イーサーン地方)で高く、比較的裕福なバンコクから南部で極端に低い。2001年の首相就任以降、貧困農民に医療の道を開いた30バーツ医療(ただし薬品代は含まれない)をはじめ、貧困農村地帯に特産品を作らせる「一村一品運動」(でも在庫がだぶついている)など、貧困農民に夢を与える政策を次々と実行に移してきた。また、地方出身の出稼ぎ者に対しては、タクシープレゼントやバイクプレゼントなど、特定の職種に就いている人々の支持を得るために多額の予算と時間とを費やしている。さらに、選挙区がある人口25万人の小都市チアングマイ(チェンマイ)に、地下鉄網を敷設することを計画しているという。これらの集票政策は、露骨な政治ショーとして、都市部の比較的教育レベルの高い住民から、とことん嫌われている。市民をバカにした政治にも限度がある。

午後、タックスィン首相(タクシン首相)が事実上所有している財閥の新築ホテル「プーゲットグレースランド」(8,800バーツのところ3,300バーツ)に移り、セントラル百貨店プーゲット店へ3度も行くなど、比較的ゆったりと過ごした。

2006年2月5日(日)

ピーピー島(ピピ島)の復興再開発はほとんど進んでないようね。それだけ海岸もキレイでいいけど」

午後12時半、マレー半島とプーゲット島(プーケット島)の中間地点に浮かぶピーピードン島(ピピドン島)に再建されたリゾートホテル Holiday Inn Resort Laem Tong Beach(ホリデーインリゾートレームトーングビーチ) で友人が言った。友人にとって今回はおよそ1年ぶりの訪問。一昨年末のインド洋大津波では、島の両岸から高さ10メートルの津波に襲われ壊滅状態になったという。

アンダーマン海(アンダマン海)のエメラルドグリーンとマリンブルーが織りなすグラデーションはとてもキレイ。シュノーケリングをすると、ゴーグルに付いている手垢が気になるほど。透明度がこれだけ高ければ、海水のベタベタを忘れて思いっきり楽しめる。黄色、白、黒の縞模様をしている熱帯魚と一緒に泳ぐのはロマンがあっていいが、その群れが自分から離れてくれないと少しだけ怖くなる。パッタヤー海岸(パタヤ海岸)バーングセーン海岸(バンセン海岸)のように、海水に浸かると汚れるようなイメージがないのはウレシイ。

朝、旅行代理店が用意したツアー(ひとり1,400バーツ)で、カイ島、ヒングラーング島、ピーピードン島、ピーピーレ島(ヴァイキング洞窟)を見物した。波が高く、スピードボートでは船酔いに苦しんだ。フラフラになってホテルに戻り、夕食もとらないまま午後8時には就寝した。

2006年2月6日(月)

「はじめて来たけど、想像以上に栄えててイイカンジじゃない? 観光産業だけに依存してる街って言ったらそれまでだけど、ちゃんと Lotus(Tesco Lotus, テスコロータス) もあるし、田舎の県庁所在都市なんかに比べたらよほどまともよ」

午後7時10分、タイで3番目に大きい島、サムイ島のチャウェーング海岸(チャウェンビーチ)沿いの通りには、メータータクシー(スラートターニー県(スラタニー県)ナンバー, 黄色と赤茶色のツートンカラー)が頻繁に行き交っていた。西洋料理店の白人オーナーが、道行く観光客に手当たり次第「まあ、これを食べてみてくれ」と声を掛けている。メイン通りが狭いため、タイ国内のほかのリゾート地より寂れているイメージだが、いちおう観光地らしい陽気さはある。

今回は予定を立てずに自由気ままな旅を楽しんでいる。もちろん今晩のホテルも決めておらず、旅行代理店でホテルを選ぶつもりだった。しかし、偶然見つけた旅行代理店の女性従業員は、ホテルの空室状況をまったく知らず、ホテルの位置さえまともに説明できなかった。もしや、白人経営のこの女性従業員、娼婦(売春婦)あがりの阿呆ではないか・・・・・・と思い、ちょうど同じ不安を感じていた友人と目を合わせた。

旅行代理店の従業員に「ここしか空いてない」と言われて向かったホテル Sea Cape Beach Resort(シーケープビーチリゾート) (3,500バーツ)は、予想以上にひどかった。今月1日にスラートターニー県(スラタニー県)で泊まった安ホテル SR (500バーツ)にも劣る。唯一の救いは幅40mのプライベートビーチがあることくらい。

午後10時半、リゾートホテル「プーゲットグレースランド」をチェックアウト。セントラル百貨店プーゲット店(プーケット店)の薬局で液体状の胃薬を買った。きのうの船酔いを治すために運転しながら胃薬を飲んでいると、次第に視界がハッキリしなくなった。クルマを田舎道の路肩に駐めてクスリの成分に目を通すと、なんと「アルコール9.5%」と書いてあった。すでに750ccのうち半分飲んでいたが、こんなところで休憩するわけにもいかず、そのまま目的地のスラートターニー(スラタニー)へとクルマを走らせた。途中で気が変わり、スラートターニー(スラタニー)の東およそ74キロにある船着場「ドーンサック」から、フェリー(乗用車325バーツ、同乗者110バーツ)でサムイ島へと向かった。本日の走行距離268キロ。

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