2002年6月12日(水)

ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)文学部主催の集中タイ語講座(インテンシブタイ)中級1進級試験の出題内容は、長文読解4問、リスニング14行、語彙補充40問、文法50問。150点満点で、満点の6割に相当する90点を下回ると放校される。

これまで長文読解問題は教科書からそのまま出題されていたが、きょうの試験では教科書とは無関係な文章ばかり出題されたため、最初からじっくり読まなければならなかった。さらに、試験対策が不十分だったため、語彙補充問題で時間を浪費した。試験終了後、暗い表情をしているクラスメイトたちに試験の出来を訊いてまわったが、みんな自身がない様子だった。サイアクの場合、今回の試験を限りに、集中タイ語講座(インテンシブタイ)から追放されるかもしれない。

その後、パッポング(パッポン)2にあるバービア(オープンバー)へクラスメイトと出かけた。ハイネケンビールを飲みながらビリヤードに挑戦したが、あまりの暑さに汗が手にこびりつき、キューを上手く押し出せない。

本来、バービア(オープンバー)は、売春婦と語り合いながらビールを飲み、もし気に入れば連れ出し料金(ペイバー)を払ってセックスの相手を確保するための店だが、このときはまだ午後4時前で、まだ売春婦も出勤していなかった。午後6時、トゥックトゥック(トゥクトゥク, 3輪バイク改造タクシー)(50バーツ)で帰宅すると、エーンに叱られた。

「今晩、7時20分発の電車でチアングマイ(チェンマイ)へ行くのは覚えてるわよね? まだ荷物も用意してないでしょう? 電話したのに、なんで出なかったのよ!?」

ハイネケンビール小ビン4本のせいでフラフラしていたが、それでもシャワーを浴びて荷造りを済ませ、午後6時45分には自室を発った。一時は間に合わないかと心配したが、午後7時にはフワランポーン駅(ファランポーン駅)に到着した。

特急「スプリンター号」(バンコク発チアングマイ(チェンマイ)行, 480バーツ, 全車両2等車)は、寝台列車ではないため普通の座席しかないが、足下のスペースは十分確保されており、足を乗せるための台もある。現代重工(韓国)製の客車で、10年前の日本の特急列車並みで、乗り心地もなかなか良かった。

しかし、飛行機の深夜便もそうだが、普通の座席で寝るのは困難を極め、午前3時ころまで寝付けなかった。

2002年6月13日(木)

特急「スプリンター号」は、タイ航空の国内線との競争を意識しているため、ビーマンバングラデシュ航空などの格安航空会社と比較すると、サービスは良い。

午前5時、電車の外はまだ薄暗かったが、照明が点灯し朝食が配られた。軽食とコーヒーのためだけに起こされて困惑した。まだ寝てから2時間しか経ってない。食後、客室乗務員に許可をもらってデッキでタバコを吸い、吸い殻を捨てようとしたところ、灰皿がどこにもなかったため、やむなくゴミ箱に捨てた。灰皿がない場所で喫煙を許可するとは、どういう安全管理をしているんだ?

午前7時20分、タイ国鉄北線の終着駅、チアングマイ(チェンマイ)駅に到着した。北線は現在、チアングラーイ(チェンライ)まで路線伸張工事をしている。駅前のヂャルーンムアング通りから、ソングテオ(ソンテウ, 乗り合いトラック)で街のはずれまで行き、そこからバイクタクシー(モーターサイ, モタサイ)を3人乗りして、サンガンペーング温泉(サンガムペーン, サンカンペン)へと向かった。山間の村々を通過したが、道路の整備状況は日本並み。

午前8時、山間の村々を通過して、サンガンペーング温泉(サンガムペーン, サンカンペン)に到着。宿泊受付所はまだ始まっておらず、清掃婦以外に誰もいない。リゾート内唯一のレストランで時間をつぶした。

午前9時、ヂュラーロンゴーン大学(チェンマイ)文学部の集中タイ語講座(インテンシブタイ)オフィスに、テスト結果を電話で照会した。得点は114点、正答率は76.5%で、クラス6人中3位だった。順位は低下の一途をたどっている。「1週間に3日、毎週月・水・金は、わたしと勉強すること!」とエーンに言い渡された。

サンガンペーング温泉(サンガムペーン, サンカンペン)の宿泊施設は、それぞれが独立しているコテージで、約40%のスペースが浴室に充てられている。冷房はないが、天井に扇風機が付いており、宿泊料は500バーツ。夜行列車の疲れを癒すために浴室に直行したが、石けんが用意されていないことに気づいて外へ出た。

リゾート内には、整備が行き届いている花畑があり、チョウチョが飛び交っている。6分ほど歩くと、温泉の吹き出し口に到着した。そこには、温泉卵を作るための池があり、現地の人々がその支流に足を入れていた。健康に良いという。その現地の人々の中に、エーンの祖父がいた。エーンは自分の居場所を家族に知らせていないので、大急ぎで部屋に戻った。

午前11時、サンガンペーング温泉(サンガムペーン, サンカンペン)チアングマイ(チェンマイ)行のソングテオ(30バーツ, 約1時間)に乗り、花卉市場前にある Seven Eleven(セブンイレブン) で温泉グッズを一通り揃えた。

午後2時、ふたたびサンガンペーング温泉(サンガムペーン, サンカンペン)へと戻り、ようやく熱い温泉にありつけた。タイ留学開始以来、はじめて湯船に、しかも温泉につかることができた!! (ペッブリー(ペチャブリー)18にあるアパート Venezia Residence(ヴェネチアレジデンス) には浴槽がない)。

最高な気分になって、リゾート内唯一のレストランへ、遅めの昼食をとりに出かけた。ここのアメリカ風炒飯(カーオパットアメカン)(50バーツ)は、タイ留学以来もっとも美味しい。こんな店が近所にあったら、タイ料理が好きになれるかもしれない。その後、昼寝して、温泉に浸かって、そしてまた寝た。

2002年6月15日(土)

チアングマイ(チェンマイ)市内にあるメーサー滝へ行ったが、雨季のせいで濁っていたため、滝泳ぎをあきらめてパヤオへとクルマを走らせた。

タイの幹線道路は、とても良く整備されており、日本と比較しても遜色ない。少数山岳民族(メーオ族)の集落を通りかかったときには、集落より道路のほうが豪華に見えた。タイ国道1号線のパヤオ市付近も、とても広い。

グワーンパヤオ湖の畔を散策してから、観光客向けのタイ料理店でアメリカ風炒飯(カーオパットアメリガン)(タイ料理しかないときにイヤイヤ注文するメニュー)を注文し、チアングマイ(チェンマイ)へと引き返した。

ところが、気づいたときには、タイ国道1号線を約100キロも余計に南下していた。そのまま峠道を南下を続けて右折すると、見知らぬ市街地へと迷い込んだ。道路の脇には、花馬車が駐まっていた。

「花馬車は、ランパーング(ランパン, ラムパーン)の名物で、ここにしかないんだよ」と、エーンが話していた。怪我の功名。これも道に迷ったおかげ。その後、国道1号線パホンヨーティン通りをさらに南下し、国道120号北宮殿パヤオ線を北上してチアングマイ(チェンマイ)へとたどり着いた。

国道1号線では途中、数十キロにも渡って舗装工事が行われていたため、砂利道をゆっくりと走らざるを得なかった。

2002年6月16日(日)

朝、チアングマイ(チェンマイ)市内にあるホテル「スリトーキョー」をチェックアウトし、ちかくのレンタカー屋にクルマを返却。オーナーにタイ国鉄チアングマイ(チェンマイ)駅まで送ってもらった。

特急「スプリンター号」(チアングマイ(チェンマイ)発バンコク行)では、往路と同じ昼食が振る舞われた。午後のおやつを断り、眠っているあいだにバンコクに到着した。タイ国鉄ドーンムアング駅(ドンムアン駅)停車時に見た、空港のオレンジ色の照明が、条件反射的にココロを Go Go Bar(ゴーゴーバー) へと駆り立てる。

そんな欲求を抑えて、タイ国鉄マッガサン駅(マッカサン駅)からタクシーでペッブリー通り(ペチャブリー通り)にあるアパート Venezia Residance(ヴェネチアレジデンス) 644号室(自室)へと戻った。

「わざわざチアングラーイ(チェンライ)まで行って、何をしてきたと思う? The Pizza Company(ピザカンパニー) でピザを食べて、そのすぐ近くにある Seven Eleven(セブンイレブン) でお菓子を買っただけよ」と、エーンはハンズフリーの携帯電話に向かって話していた。

「ねぇ、ケイイチぃ、ちょっと聞こえてる? どうしてチアングラーイ(チェンライ)まで行って、ピザ食べなきゃいけないのよ? 普通、旅行先では名物を食べるもんじゃないの?」携帯電話から、エーンの親友、ジョーイの声が聞こえてきた。・・・・・・たしかに、仰るとおり。

友人の日記を久々にチェックしてみると、エーンという名のカノジョができたと書かれていた。

「ああ、これからややこしくなるわね。わたしをエーン1号、もうひとりをエーン2号と呼びましょうよ」とエーンは言うが、友人が付き合っているエーンのほうが先に生まれている。

「でも、2号と呼ばれるのだけはイヤ。じゃあ、あっちをエーンオーと呼ぼうよ?」

タイ人のニックネームは短いため、どうしても他人のニックネームとダブってしまう。エーンが提案していた「エーンオー」は、オーのエーンという意味。オーは友人の名の一部。

どうも、小エーンと大エーンに落ち着きそう。

2004年2月5日(木)

午前8時、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)前から、貸切ロットゥー(12人乗りバン)でターク県メーソート郡(メーソット郡またはメソト郡)へと向かった。今回の目的は、ターク県ターソーングヤーング郡(ターソンヤン郡)メーラ村にある難民キャンプの調査。

国家法秩序回復委員会が1988年、軍事革命(クーデター)を起こしてミャンマー(ビルマ)の政権を掌握。当時ミャンマー連邦からの離脱を図っていたカレン族に対して厳しい弾圧を加え、強制移住や強制労働を課した。そのため、これを忌避したカレン族が難民化しタイ側へと大量に流れ込んだ。

午後3時半、僕たちはメーソート郡(メーソット郡またはメソト郡)に到着。国境地帯のムーイ川東岸にあるメームーイ市場で土産物を調達した。

この付近の国境は依然未確定のままになっている。このメームーイ市場では、写真にある①の領域がタイ領、②の領域がミャンマー領、③の地域が帰属未確定地域。国境ゲートは市場の南にある橋の両端にあるが、ミャンマー人は国境ゲートを使わずに川を渡ってやってくる。国境に架かる橋の通行料は10バーツ。

そこで、不法に越境してくるミャンマー人について、メームーイ市場の軽食屋店主に聞いてみた。

「以前は(③で示した)帰属未確定領域にも市が出ていたが、昨年バンコクで催されたAPECを契機にタイ当局によって閉鎖されてしまった。タイ人がこの川を渡ってミャンマー領に入ることはまずないが、ミャンマーの少数民族「カレン」が荷物を抱えて越境してくる。カレン族が持ち込んでくる荷物の大半が中国からミャンマーへと流入したタバコ。しかも、それは品質保持期限が切れたものを中国人が二束三文で売り払ったもので、とてもではないが喫煙に耐えうる品質にない。実際のところ、ミャンマー人が売りに来るものはほとんどがロクでもないものばかり。ロクでもないといえば、その最たるものはミャンマー政府そのものだ。彼らはロクな民生政策がなく、国民に自力救済を強い、軍の兵器も老朽化がひどく使い物にならない。国民も馬鹿ばっかりで、とても話のできる相手ではない」

また、この店主は彼らの置かれた事情を次のように説明した。

「だからといって、もし仮に彼らが賢くミャンマー政府の不満を言い出すようになったら大変だ。政治に関する話を一言でもすれば、すぐに政治犯として捕らえられ即刻政治犯収容所行き。彼らは政府から生活に関する支援を何も受けられずにおり、だからといって政治的手段に訴えて生活の向上を図ることもできないから、生きるためにもタバコを売りに来ざるを得ないんだ。気の毒といえば気の毒だが、さしあたって俺たちにできることは何もない」

「あんたのミャンマー嫌いも相当なものだからね」

軽食屋の店主による演説会は学生8人を前に、彼の妻が頻繁に横から突っ込みを入れるといったスタイルで約30分にもわたって繰り広げられた。少し長すぎるような気もしたが、自分が知らない話を個人的な視点で語ってくれたのは興味深かったし参考にもなった。

彼らミャンマー人の窮状については、明日以降の調査で徐々に判明することを期待している。

ところで、今晩ルームメートのカンボジア人から興味深い話を聞いた。これは今日の日記の主題ではないから概要だけにとどめる。

プノンペン大学講師の月給45ドル。NGOなど民間から請け負った調査報酬1日30-50ドル。妻(公務員)の月給350ドル(破格の待遇とか)。使用人の月給45-50ドル。王宮から5キロ離れたところにある土地(5×16メートル)の値段2000ドル。家の建設費4000ドル。ラナリット元第1首相はカンボジア人の誰もが認める無能者で、現首相フンセンに排除されたのも当然。内戦時のプノンペンは大騒ぎだった。プノンペンにいる日本人の大半は調査目的。外国人向けのゲスト街は王宮周辺の数百メートルのところにあり、一方はまとも、もう一方は麻薬利用者向けで酷く不潔。これらの地域は分かれている。プノンペン市内の外国人英語教師の質は低く、その大半は麻薬常用者だと考えて良い。彼らの報酬は時給2-20ドル程度で能力によって異なる。「俺自身の生年月日が今ひとつはっきりしない。原始的生活を強いられたポルポト時代には、カレンダーすらなかったから」。地名のカンボジア語読みは、英語よりもタイ語に近い。(ゴッゴング・ポーイペートなど)。

今晩はターク県メーソート市内のホテル「ポーンテープ」に宿泊した。ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)アジア研究所の研究員によれば、このメーソート(メーソットまたはメソト)市内ではこのホテルが一番まともで、唯一エレベーターを装備しているという。

2004年2月6日(金)

ターク県ターソーングヤーング郡(ターソンヤン郡)メーラ村第9集落にあるカレン族臨時居住区。タイ政府はカレン族越境者を ผู้ลี้ภัย(難民) と認めない立場をとっており、ここを ค่ายพักผู้ลี้ภัย(難民キャンプ) ではなく พื้นที่พักพิงชั่วคราว(臨時居住区) と呼んでいる。

この難民キャンプはタイ内務省が管理しており、各国の NGO が運営している。なお、この難民キャンプの運営に協力しているNGO団体は次の14団体。BBC, ADRA, SMRU, COERR, TOPS, SVA, HI, ICS, MSF, CONSORTIUM, PPAT, ZOA, IRC。

カレン族難民自治組織の幹部によれば、ここにはミャンマー連邦のカレン族やムスリム系民族など5,425世帯、32,904人(成人男子10,839, 成人女子10,569, 未成年男子5,942, 未成年女子5,556)が住んでおり、民族構成比はカレン族85%、ムスリム系15%。住民の55%がキリスト教、35%が仏教、10%がイスラーム教を信仰している。施設内には29の宗教施設(キリスト教会22, 仏教寺院3, モスク4)、46の教育機関(小学校13, 中学校4, 高等学校5, 高等専門学校2, 神学校4)と10の無料医療機関(総合病院2, マラリア療養所4, 婦人科医院1, 身体障害者療養所3)のほか、電力網や上水道網(一部区画は井戸)が整備されている。これだけあれば難民がライフラインに困ることはない。

各種学校では、難民または NGO の職員が、英語をはじめ歴史や理科などを教えている。タイ人講師が不足しているため、タイ語の授業はない。ほとんどの難民がカレン語(ビルマ語と文字がそっくりだが文法から単語まですべて違う)を第一言語としているが、キャンプ内ではビルマ語や英語、タイ語なども使われている。神学カレッジでは、社会学などの教育も受けられる。

次にキリスト教会の支援で運営されているカレッジ「カメソーレイ・カレン族浸礼派神学校 」のシモン校長に話をうかがった。キャンプ生活でのエピソードが話の主題となったが、そのなかに興味深い話がいくつかあった。

このキャンプは、標高778メートルのドーイパールー山(ドイパル山)の麓に建設された。放物線状の軌跡を描いて飛んでくるミャンマー軍からのミサイルを回避するには絶好の立地条件。しかし、1996年にミャンマー軍がドーイパールー山(ドイパル山)を越えて攻め込んできたとき、難民はタイ側の山(名称不明, 標高436メートル)に逃げ込んだという。このときに虐殺された難民たちの墓所は、いまもその山頂付近にあるという。

昼食後、グループごとに分かれての聞き取り調査。僕はカナダ人学生と組んで健康問題について調査するために病院へと向かった。

2004年2月7日(土)

聞き取り調査のためにキャンプ内を徘徊していると、意外なほどたくさんの発見があった。僕たち日本人が「難民キャンプ」という言葉からイメージするのは、きっと不衛生で過酷な環境ではないだろうか。しかし、ここの「難民」たちは、そのイメージとはかけ離れた豊かな生活を送っている。

僕たち先進国の納税者の夢を壊さないよう配慮しているのか、キャンプ内の建設物には工業製品を使わないためのさまざまな工夫が見られた。住居はすべて木材で作られており、まるで山小屋のよう。本来、費用をかけずに家を建てるのであれば、適当な木材を支柱にして、それをトタンで囲めば十分のはず。そんな僕たちへの些細な配慮が涙を誘う。

キャンプ内で建設資材として用いられる木材はきちんと規格どおりに加工され、茅葺屋根(かやぶきやね)も手作りだが一箇所で集中生産されている。その結果、画一的で美しい町並みに仕上がっている。

キャンプ内には商店街もあり、石鹸やシャンプーなどの生活必需品のほか、テレビやラジオまで売られている。僕たちのグループ調査に同行した研究員によれば、難民がキャンプ外へ農作業に出かけたときに、これらの商品をタイ人商人から預かって、キャンプ内で代行販売しているという。そこで発生する利益は、キャンプ内のカレン族商人とタイ人商人のあいだで分配される。資本のないカレン族難民でも大量に仕入れることができるため、街にはたくさんの商品が溢れている。難民キャンプという場所で通貨を使った商取引が行われているとは意外だった。

難民たちの衣服は、どれも清潔で状態もよい。僕たち日本人が着ている T シャツと比べても遜色ない。キャンプの運営規則では、年に1度だけ難民に衣類が配給されることになっているが、彼らには自分の金で買ってきた服が何着かあるはずだ。

キャンプ内の難民の表情はとても明るい。難民という不遇な立場になると、性格が歪み表情にも表れそうなものだが、彼らは何にも不自由のない生活を送っているためか、精神的にとても安定しているように見える。

「いま一番不満なこと」を10人の難民に尋ねてみたところ、国籍がないなどの政治的地位に関する不満が最も多く、逆に日常生活での不満は一切耳にしなかった。また健康状態について尋ねてみたところ、医者に診てもらったり治療薬を使ったりするような病気に罹ったがないという回答が大半を占めた。なお、このキャンプでは、医療サービスから避妊具まで、すべて無料で提供される。

「このキャンプは、観光客はもちろん、マスコミにすら公表されていない」

事前のガイダンスで研究員が話していた言葉の意味がようやく理解できた。カレン族難民は、農村部のタイ人よりも遥かに豊かな生活を送っている。貧困が社会問題となっているタイで、このような難民の実態が広く知れ渡ってしまったら、何らかの抗議運動が起きること疑いない。このキャンプ自体が「タイ人の不興と反感」を買って、政府は閉鎖を余儀なくされるだろう。しかし、そんなことをしたら「国際社会からの批判」にさらされる。このような厄介な問題から回避するためにも、政府としてはこの情報を絶対に自国民に知られるわけにはいかない。

今晩、メーソート(メーソット)市内のフォークソングバー「クロコダイルの涙」でクラスメートたちと午前1時まで酒を飲み、タイ語で語り合った。

2004年2月8日(日)

外国人による不法就労には、どの国も手を焼いているようだ。特にタイは最貧国(後発発展途上国)であるラオス、カンボジア、ミャンマーの3国と陸続きで隣接しているため、日本より深刻な事態に直面している。こうした不法労働者の多くは、バンコクでは経済的に恵まれている市民の邸宅で使用人として働くか性風俗産業に従事し、地方では小作農として働くケースが多い。

不法労働者は安価な労働力として国家の競争力を高める効果がある反面、国内の非熟練労働者(単純労働者)の失業を招き犯罪件数が増えるという副作用をともなう。そのような理由から、政府は国境地帯に数多くの検問して、陸路による外国人の流入を食い止めようとしている。検問では、国民 ID カードやパスポートなどの身分証の提示が求められる。

「実は・・・・・・パスポートを持ってきてないんだ。でも、大丈夫。俺には天下のヂュラーロンゴーン大学の学生証がある。これがある限り、タイ国内での俺の立場は安泰だ。なにしろ、こいつには魔法の力があるのだから」

カンボジア人学生が財布から学生証を取り出して、こう話していた。しかし、彼のタイ語力ではタイの警察当局が不法滞在者を確認するときに使う「タイ国歌斉唱」には耐えられないだろうし、パスポートがなければ「不法入国したミャンマー人」としてミャンマー当局に引き渡されかねない。

・・・・・・というのは、タイ語が使える学生たちの冗談話。実際には、タイ内務省が発行した「調査目的の難民臨時居住区進入許可証」を見せるだけで通過できた。

鳥インフルエンザによる鶏肉の販売不振は全国に広がっている。ナコーンサワン(ナコンサワン)県内のサービスエリアには、鶏料理が一つもなかった。報道によれば、政府は鶏料理を無料で振舞うキャンペーンが催したり、徴収兵たちの食事に鶏をふんだんに使ったりして国内の鶏の消費量を維持しようと躍起になっている。

2004年8月21日(土)

今日は、午前の講座「東南アジア文明論」の一環として、タイ北部へと出かけた。今回の目的は、タイ文化のルーツであるガンペーングペット県(カンペンペット県)スコータイ県(スコタイ県)ピッサヌローク県(ピサヌローク県)にある遺跡の実地学習。

午前6時、日の出前の暗闇のなか、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)文学部正門前に集合。肌を焦がすような強烈な日差しの下、日陰になっている部分を探しては、遺跡の名称、年代、建築様式、影響を受けた周辺文明、歴史的背景などをノートに書き連ねていった。

それぞれの遺跡についてここに詳細に書くと、小論文や専門書のような量になってしまうから、この日記では割愛する。

スコータイ遺跡を一通り見学してから、ホテル「スコータイリゾート」にチェックイン。ホテルの宴会場で夕食をとりながら、クラスメイト数人とタイポップスのカラオケを楽しみ、酒を飲んだりプールで泳いだりとリゾート気分を満喫した。

2004年8月22日(日)

スコータイは、コーング川(メコン川)の中流とモタマ湾とを結ぶ水上交通の要衝として古くから栄えた都市。西暦1237年、アンコール朝の総督スィーナーワナムトンサワンコット(シーナーワサムトンサワンコット)・コームサバートクローンランパングがスコータイの統治権を掌握したことで、ラート領主パームアング(パームアン)バーングヤーング(バンヤン)領主バーングラーングハーオ(バンクランハオ)の両名が反旗を翻し、タイ族初の独立国家となるスコータイ朝が成立した。

独立戦争の盟主的立場にあったパームアングは、自らがアンコール朝のジャヤーヴァルマン7世の王女プラナーングスィコーンテーウィープラマヘースィー(スコンテーウィー)と婚姻関係にあることからスコータイ市民から受け入れられないと考え、統治権をバーングラーングハーオ(のちのスィーイントラーティット)、プラセーングカンチャイスィーに委ねた。王都スコータイが完成するとスィーイントラーティット(シーインタラーティット)が国王に即位した。3代目のラームカムヘーング大王(ラムカムヘン王)の時代になると、文字、政治、法律、建築、国際関係などの整備が進み、現在のタイ文化の原型が確立した。その後、南部のアユッタヤー朝(アユタヤ朝)の圧迫を受けて支配領域を徐々に縮小していき、マハータンマラーチャー4世の没後、アユッタヤー朝(アユタヤ朝)に継承(事実上の吸収)された。

現在の主な産業は農業で、人口は約3万人。

午前5時に起床。スコータイ王宮の跡地に建設されたスコータイ歴史公園をはじめ、王都が完成するまであいだ一時的に都がおかれたスィーサッチャナーライにある歴史公園や宮殿跡、寺院跡などを見て回った。

帰途、ピッサヌローク県(ピサヌローク県)にあるワット(ワットヤイ)マハータートウォーンマハーウィハーンと周辺の遺跡を見学した。クラスメイトたちが土産物屋を見て回っている隙を見計らって、境内に設けられている露天で石けん(12バーツ)を購入し、外国人用トイレにある無料シャワー室で体中にまとわりついているニアオニアオ(ベトベト)した汗をキレイさっぱり洗い流した。

ナコーンサワン県(ナコンサワン県)で夕食をとり、文学部正門前に戻ったのは午後11時のことだった。

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