タイのタックスィン・チンナワット元首相は捲土重来を果たせるのか

正午、プララームホック22街路にある友人が契約している安アパートの一室で目を覚まして、部屋のなかを見渡してみたところ、化粧鏡にメモらしきものが貼ってあった。

「ちょっと用事があって外出する。もし部屋を出て行くのなら、鍵はちゃんと締めておいて。ヂック」

メモを読むために化粧台へ近づいてみたところ、化粧道具入れのなかに注射器があることに気付いた。こんなもの、日常生活のどんな場面で使うのかと頭を傾げたが、寝ぼけていたせいで何ひとつ思いつかなかった。とりあえず、シャワーを浴びてから、旅行カバンの中身をチェックした。問題なし。旅行鞄を持って部屋の外へ出て、トイレのドアロックと同じ構造をしているドアノブのボタンを部屋の内側から押してドアを閉めた。施錠完了。旅行カバンをずるずると引きずってプララームホック通りまで歩いて行き、そこでタクシーを拾った。

午後2時、ピングラーオにあるセントラル百貨店に到着した。地階にある KFC で昼食をとってから、3階にある美容室へ行ってストレートパーマをかけた。バンコク・スワンナプーム空港までの見送りを例の「頭痛のタネ」となっていた友人がしてくれる手筈になっていたが、突発の時間外勤務が発生したためキャンセルとなった。やむなくタクシーのトランクに旅行カバンを詰め込んで空港へ向かった。

“พี่น้องครับ ลุกขึ้นมาทั้งประเทศไทย มาร่วมกับเสื้อแดง เอาประชาธิปไตยคืนมา ไม่ต้องมากรุงเทพฯก็ได้ ชุมนุมกันทั้งประเทศอย่างสันติ เพื่อบอกให้รู้ว่า เราหวงแหนประชาธิปไตย เอาคืนมาให้เราซะ แล้วความเป็นอยู่พี่น้องจะดีขึ้น”
「国民のみなさん、必ずしもバンコクへ行く必要はありません。平和的な市民集会を全国各地でおこない、わたしたちが民主主義の回復と生活レベルの向上のために抗議していることを知らしめれば、それで良いのです。今こそ全国で一斉に立ち上がって、赤服(国家反独裁民主共同戦線)とともに民主主義を取り戻しましょう!」

午後8時すぎ、有料道路のバンコク・チョンブリー新線を走行中に、タクシーの後部座席から街の風景を眺めていたところ、留学時代にイヤというほど聞いた「あの声」がラジオから聞こえてきた。ラッチャダーピセーク通り周辺における7億7200万バーツにのぼる土地の不正取引と、それにともなう収賄の疑いで2008年8月12日、最高裁判所の公務員特別職刑事犯課から指名手配され、現在諸外国を転々としているタックスィン・チンナワット元首相の声だった。いまでも出稼ぎタクシー運転手などの、北部および東北部出身の貧困層に対してカリスマ的な影響力があり、今回のラジオ演説は、首相官邸の近くで抗議活動をしている赤服たち(国家反独裁民主共同戦線)を激励するためのものだった。

曰く、「現政権は元老院に買収されている。現政権は総選挙を経ずに成立しており、民主主義的な正統性に欠いている。枢密院議長のプレーム・ティンスーラーノン陸軍大将は民主主義の敵である。今回の国債法改正にともなう国債発行限度額の引き上げは、先進国に比べて集税率の低いタイにとっては重すぎる負担であり、将来における財政危機と増税を招く。タックスィン政権時代、民主主義的な政策によって国民の生活は向上した」等々。

枢密院議長のプレーム・ティンスーラーノン陸軍大将は、タイ国王の側近中の側近であり、この数十年来、タイ国王の神格化に努めてきたいわゆる「忠臣」である。それに、枢密院議長クラスでは民主主義に害をなすことはできない。だから、元首相の演説を額面どおりに受け取ってしまうと違和感が残るものの、これをほかの人物に置き換えて聞いてみるとすべての辻褄が合う。元首相の在任当時から、その扇動政治家としての辣腕ぶりには感心していたが、今回のは極めつけだ。王室不敬罪ギリギリの表現で、王室に対して思いっきりケンカを売っている。今回の政局は、元首相にとって捲土重来を賭けた最後の戦いとなるだろう。

空港到着後、チェックインカウンターの係員から青帯入りの搭乗券を手渡された。緑帯はエコノミークラス、青帯はビジネスクラス。きっと往路の機内のすぐ後ろの座席で、下劣すぎる話を大声で続けていた中年の日本人男性の酔っぱらいに腹を立て、タイ人の乗務員にタイ語で苦情を申し立てたのが功を奏したのかもしれない。

(追記:反政府派の国家反独裁民主共同戦線は、タイの首相官邸前で4月9日、政府に反対する3万人規模の政治集会をおこなった。翌10日、臨時の公務員休業日(いわゆる祝日)になった。13日、バンコクでデモ隊が暴徒化し、都心部で大小さまざまな破壊活動が行われた。パッタヤーで行われていた APEC 東南アジア諸国連合の会議場にも暴徒が侵入した。非常事態宣言が布告され、警察と軍が暴徒を鎮圧。軍の鎮圧行動による死者は出なかったが、暴徒によって市民数人が殺害された。暴動を起こした国家反独裁民主共同戦線側も、逆ギレした市民からの反撃を受けて数人の死者を出している。この事件によって、タックスィン元首相は国際刑事警察機構から国際手配され、それまで滞在していた先進国や発展途上国にいられなくなり、後進国への移動を余儀なくされた。個人的には、ちょうどこの時期に日本でタイの得意先を接待する予定が入っていたが、この暴動の影響によりタイ現地法人の業務が約1週間にわたって麻痺したため、仕事量が上手いこと平準化されて大いに助かった)

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バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。