2006年3月1日(水)
「休憩なしでチアングマイから戻ってくるってだけでもシンドイのに、その足で飲みに出かけるとは常人のなせる技じゃないわ」
この話の一部始終を聞いた友人は、電話口でそう話した。
午前10時50分、チアングマイ市郊外にあるホテル
午後5時55分、
チアングマイからバンコクまでの所要時間は6時間15分。走行距離は706kmだった。今回のチアングマイ旅行の費用は、ホテル代・ガソリン代込みでひとり約6,000バーツだった。
「休憩なしでチアングマイから戻ってくるってだけでもシンドイのに、その足で飲みに出かけるとは常人のなせる技じゃないわ」
この話の一部始終を聞いた友人は、電話口でそう話した。
午前10時50分、チアングマイ市郊外にあるホテル
午後5時55分、
チアングマイからバンコクまでの所要時間は6時間15分。走行距離は706kmだった。今回のチアングマイ旅行の費用は、ホテル代・ガソリン代込みでひとり約6,000バーツだった。
「日本までの国際電話が1分たったの0.9バーツ!? タイ国内の携帯電話にかけるより安いじゃない。じゃ、日本に帰ってからも、これまで以上に長電話できるってことね? 私も申し込みたいんだけど、クレジットカードとか必要なの?」
午後7時50分、
オプションのサービスを利用するためには、クレジットカードでの通話料を前払いが必要だが、友人は現金主義者のためクレジットカードを持ってない。タイでクレジットカードを申請するためには、①15,000バーツ以上の月収(大卒職務経験2年程度の月給)、かつ②20歳以上60歳以下、かつ③同一の職場で4ヶ月以上勤務しているのが最低条件。利子率は年17.75%で、限度額は月給のおおむね5倍程度。月収に関してはタイの国内法に規定がある。
今晩はウッタヤーン通りにあるドイツ風屋外レストラン「バーンナームキアングディン」で夕食を取るつもりだったが、ペットガセーム通りの帰宅ラッシュに巻き込まれ、空腹に耐えられなくなったため屋台で夕食をとった。ちなみに、この友人とは有料サービスではなく、パソコン同士で無料の長電話することで決着した。
「大丈夫ですよ。絶対に間に合いますって。わたし、昔から運だけはいいんです。あ、あの店の店員なら、きっと知ってそう。ちょっと行って聞いてきますね」
午後11時15分、国道304号スウィントゥウォング線の
先日来
しかし、アテにしていたプラーヂンブリー市中心部に Factory Pub はなかった。しかも、
このバンドは当初、
午後11時半、真っ暗な田舎道を半ば諦めながら走っていると、田舎市場のような施設が道路左側に見えた。長い路上駐車の列があり、警察官がその先頭で交通整理に当たっていた。奥の方には Factory のネオンが輝いている。
パブ Factory は、プラーヂンブリー県ガビンブリー郡にあった。バンコクから約165km離れている農業と工業団地の街で、タイ投資奨励委員会 BOI が最高の税制恩典措置(8年間法人税免除など)が付与されるゾーン3に指定して外国企業の誘致を図っている辺鄙な地域だ。もちろん、客層や店の雰囲気については言うに及ばず。前座では、田舎特有の下品極まるお笑いコントが演じられていた。日系企業も多く進出しているため、市場の一角には日本人向けの田舎臭いカラオケスナックもある。
午前零時半、ついに Endorphine コンサートが始まった。ステージ前には予約客がひしめいていたが、友人がビール瓶片手に突進してくれたおかげで、かなり良い位置で楽しめた。ボーカルのダーは、自分たちの持ち歌を織り交ぜながらも、ここ数年で流行ったほかのアーチストの持ち歌を次々とこなしていった。しかも、オリジナルより全然上手い。もし、 Thai Pops Best 10 by Da Endrophine の CD があったら即買いする。今晩、歌の神様を見た。
年末から年始にかけて、Endorphine の「
コップいっぱいの水 – エンドロフィン いつもあなたのために尽くしているのに 今もあなたは過去の恋を引きずったまま เธอเป็นแก้วใบหนึ่ง ที่เต็มไปด้วยน้ำเปล่า ยิ่งเทเติมลงไป มีแต่ล้นออก あなたはまるで水でいっぱいに満たされたコップ 注いでも注いだ分だけ溢れ出す คนเก่า รักเก่า เธอไม่เคยลบเลือน คนใหม่ รักใหม่ เลยท้อ 過去の人 過去の恋 今もあなたは執着してる 新しい人 新しい恋 だから全然ヤル気ない จริงๆ เข้าใจอยู่ กับความทรงจำครั้งเก่า แต่อย่าเอามันมาปิดกั้นหัวใจ ホントは何があったか分かってるけど そんなことで心閉ざさないでよ เปลี่ยนเป็นแก้วเปล่า แก้วใหม่ เปิดใจทีนะเธอ รับหน่อยรู้หน่อย お願いだから空っぽの新しいコップに取り替えて心開いてよ 受け入れてよ 分かってよ ความรักจากฉัน 私の愛情を ฉันยังต้องรออีกนานไหม ต้องรอเธออีกนานไหม ทุ่มเท เท่าไหร่ มันก็ล้นเท่านั้น ไม่อาจ สัมผัส เข้าถึง สักครั้ง ฉันยังต้องรออีกนานไหม ต้องรอเธออีกนานไหม |
ダーの歌声と、ひとりでも多くの聴衆と握手を交わそうする姿勢に、すっかり魅了された。
昼すぎ、ンガームウォングワーン通りの家具屋を友人と見て回り、プラーヂンブリー県で別の友人と Endorphine のコンサートを見にた。ライブ終了後、友人とボートのツーショット写真を撮影。急ぎエンドロフィンのメンバーを乗せたバンをパパラッチしたが、途中で見失ってしまった。友人をアパートまで送り届けて帰宅。
「海岸からちょっと離れてるけど、いちおう
友人が見つけてきたホテル
その後、
ホテル
「少し分かりにくい場所にあるけど、こういうの好きそうだから見せておきたいんだ」
午後10時半、
近年、バンコクに引っ越してくる日本人が急増している。タイの当局がテレビやイベントなどで日本人のタイに対するイメージ向上活動をしているためだが、失われた10年と呼ばれる平成不況期に形成された「下流層」が起死回生を図るために大挙して押し寄せてきている。
第一次世界大戦以降の日本史を紐解いてみれば、不況期における日本人の海外流出は決して珍しくない。これまでも日本政府は不況期に失業者対策として海外移民を強く推奨してきた。現在では国家が国民を海外投棄する「棄民政策」だったことが明るみなっているが、不思議とその教訓から何も学んでいない日本人も少なくない。今日のタイ移住ブームは国家主導の棄民政策ではなく民間主導で進められているが、「海外で起死回生を図る」という移住希望者の基本的な発想は、いつの時代でも大差ない。
日本社会(日本国株式会社)は、戦後長らく終身雇用・年功序列を前提とする雇用形態に支えられてきたが、バブル崩壊と人員整理、労働力の流動化と成果主義の導入によって崩壊。日本人会社員はキャリア開発の機会を減らされ、その成果も補償されなくなった。
この時代、私たち日本人は自らのキャリアを自らの責任で描くことが要求されている。さもなくば、被雇用者の3分の1を占める「非正社員」となり、低賃金労働以外の道が永久に閉ざされてしまう。そこでキャリアプランナーたちは、<1>絶えず自らの適正を探求し、<2>自己への投資を惜しまず、<3>自分の看板で勝負できるような<4>プロフェッショナルへと成長を遂げること。そして<5>魅力ある人格の形成を心がけ、<6>社内外のネットワーク作りに精を出すことで、さまざまな変化に対応できるキャリアプランを立てるよう勧めている。
いわゆる海外留学であるとか現地採用であるとかいうものは、前述したようなキャリア開発の下積み段階にある。極論すれば、上記の6項目に沿ったものが「有意義なもの」であり、それ以外はすべて「無意義なもの」だ。
ところが、自発的に日本から飛び出してきてバンコクに住み着いている日本人のなかには、目的と手段が逆転してしまっている人も少なからずいる。何らの目的意識をも持たずにダラダラと貴重な日々を浪費してしまっているというケースも見られ、娼婦と生活することだけを目的にタイで貧しい生活を送っているのは最悪なパターンだ。
人材紹介会社職員によると、タイへの移住者(タイ現地採用への転職者)の多くが20代半ばから30代前半の男性で、求人の大半は月給5-6万バーツ(ボーナス0-3ヶ月)。職務経験3年の大卒バンコク人でも月々5万バーツ前後の世帯所得があるので、現地採用程度の所得ではタイでの金満生活は期待できない。
本末転倒の見本。このあたりが「バンコク沈没」の「沈没」たる所以だが、娼婦なんかと関わっても何も得られない(シリーズ:微笑の国タイと厳しい現実)。こんなことでは起死回生どころではなくなってしまう。
そこで、今回はバンコクで住環境を快適にする方法について考えてみたい。
ここバンコクには娼婦を伴って生活している日本人が驚くほど多く、集合住宅における日本人住民と娼婦系住民の数は比例している。
友人によると、沈没系日本人が多数住んでいることで知られる格安賃貸マンション「ラーチャプラーロップタワーマンション」(都内ラーチャテーウィー区、家賃4,900バーツ)には、約700人の日本人が生活しており、全住民に占める日本人の割合は実に約9割にのぼる。「娼婦とともに暮らす」ためだけに滞在しているような典型的なタイ沈没日本人や娼婦達がウヨウヨしているということだ。それと対比されるのは、
ちなみに僕が住んでいる分譲マンション「スクンウィットスイート」(都内ワッタナー区、家賃14,000バーツから)にも、ここのところ日本人が増え、住民の質は悪化の一途をたどっている。僕は家賃21,000バーツの比較的良い部屋に住んでいるが、上記をふまえて考えてみると、同じ予算なら、一番安い部屋の家賃が21,000バーツ以上の集合住宅に住んだ方が良かった。そうすれば、今より「沈没日本人+娼婦」が少ない健全な住環境が得られたはず。本帰国を目前に控えた今になってこんなことを言っても詮無いが、実のところアパートの選定を誤ったと心底悔やんでいる。こんなことなら、高架鉄道 BTS ラーチャテーウィー駅付近の留学初期に住んでいた賃貸マンションで事実上ヂュラーロンゴーン大学の学生寮と化している「ヴェネチアレジデンス」(都内ラーチャテーウィー区、家賃6,000バーツ)の方がまだマシだった。
さすがに「家賃でその人のすべてが決まる」とまで言うつもりはないが、バンコクで快適な住環境を手に入れたいのなら、「沈没日本人+娼婦」を完全シャットアウトできるレベルの家賃の集合住宅に住むのをお勧めしたい。
「ところで、これって何だと思う?」
話は冒頭の友人の言葉に戻る。友人が僕に見せようとしていたものは、ナーナープラザの3階から4階へとつながる階段にある冷房の室外機の上にあった。これにはさすがの僕も唖然とした。線香や哺乳瓶などのお供え物が意味するものは、おそらく娼婦達の「子供」に関する何かに違いない。堕胎させてしまった子供への供養なのか、それとも出産後に亡くしてしまった子供への供養なのか。ゴーゴーバーに限らず外国人向け性風俗で働く娼婦のほとんどは出産経験者だが、これを見て娼婦の暗部に直に触れてしまったかような気がしてひどく憂鬱になった。
その後、友人が適当に選んだゴーゴーバー(娼婦の水着踊りバー)へ移動し、そこでビアスィング(シンハビール)を飲み、腹部や二の腕に贅肉がたっぷりと付いた年増の娼婦たちの水着踊りを眺めながら、彼女らを有意義に活用する方法について思案に暮れた。初等教育すらまともに受けていない彼女らにタイ関係の知識を求めるなんて所詮無理な話だし、教養のない彼女らが話す田舎方言を学んだところで全く何の役にも立たないどころか赤っ恥をかく。バンコクの中産階級からバカにされているような相手と恋愛したところで、どうせ卑屈になるだけだろうし。
「さしあたって、彼女らが役立つのはせいぜい覚醒剤の調達くらいかな?」
道から外れた無法者(アウトロー)であればあるほど、それだけ世の中の悪事や裏の事情にも通じている。いろいろと考えてはみたが、やはり娼婦に求められることは麻薬・覚醒剤の調達以外にない。麻薬や覚醒剤をやらない僕にとっては、まさに無用な長物。無駄に金ばかり払わされて、どうせ何も得られない。
初めてタイを訪れる男性観光客の一部にとっては、はじめての「異文化交流」の相手が外国人向けの性風俗で働いている娼婦達との享楽的な体験かもしれない。しかし、オンリーワンな人生を送りたいというのであれば僕などが口を挟むようなことではないが、もし娼婦との生活に謎の夢想や妄想を抱いてタイに移住つもりなら、今一度じっくり考えてみるべきだ。リスクを無視した無謀な暴挙以外の何物でもない。娼婦は商売で恋愛しているのだから、財布の紐を少し硬くしただけですぐにどこかへ行ってしまうし、日本での社会復帰のハードルも一気に高くなる。娼婦なんかのために、会社を辞めてタイになんか沈没して人生を棒に振っては絶対ににダメだ!
ちょっとシミュレーションしてみる。タイに移住してから数ヵ月経ったある日、日本で働いていた頃から親密に連絡を取り合っていた「自分だけの娼婦」に突如棄てられる。金の無心が続いていただから逆に清清したと自分に言い聞かせる、タイの女なんてどうせこんなもんだと結論付ける。座敷牢のようなひどく貧しい発展途上国の貧困者層向けアパートの一室にひとり虚しく取り残されては唖然とするしかない。世の中の理不尽が身にしみて、急に涙があふれてきた。空腹感になってアパート向かいにあるタイ風ラーメン屋台へ行こうと身支度を整えるが、財布の中身を確認してみると数千円しか入っていない。背中を冷や汗が伝う。慌てて箪笥の中から虎の子の預金通帳を引っ張り出してみる。しかし数万円しか残っていないことに気付き、ひとり途方に暮れる。タイに来れば日本人は誰でも金持ちとしてチヤホヤしてもらえると信じて移住してきてたのに、年頃の女の子はおろか屋台のおばちゃんからもぞんざいに扱われる始末。それに、このままでは帰国するための航空券も買えない。仮になんとか帰国できたところで、どうせ働き口もない。こうして、タイ不定期な仕事を請け負い日銭を稼ぎ、そこから貧困層向けアパートの家賃をなんとか捻り出し、ギリギリのところで食いつないでいく日々が始まる。
これが典型的タイ沈没のスタートライン。地獄の一丁目ってやつだ。ここまで来たら二度と後戻りできない。
夜、スクンウィット11にある居酒屋「卯月」で友人と夕食をとり、スクンウィット4にある性的娯楽施設「ナーナーエンターテインメントプラザ」でビールを飲んでから帰宅した。
「人間、生まれる国も生まれる家庭も選べない。でも、貧しい家庭に生まれたからといって、何をしても良いわけではないと思うの。人間として最低限のプライドとかそういうのってないのかしら!? あの人たち、お金のためならどんな卑劣なことをしても許されるって本気で信じてるし、それを堂々と口に出して言ってるもの」
午後4時50分、
「日本のタイ人社会? ヒドイなんてもんじゃないわよ! この前、横浜のタイ料理食材店に行ったときに見たあの張り紙、あなたも覚えてるでしょう? (隣から 『うん、覚えてるよ』 の声) タイ料理の食材屋に 『格安でソング
「日本でのタイ人のひどい話なんていくらだってあるわよ。この話、ケイイチ君が聞きたそうな話よね? あのアパートにオトコがいるって話。 (隣から 『ああ、おもしろいと思うよ』 の声) 日本人と結婚して来日したある売春婦なんて、弟が出稼ぎに来るといって日本人の夫に部屋を借りさせて、夜は夫と一緒に過ごし、夫が仕事に出かけているあいだはすぐ真下にある 『弟』 の部屋に入り浸りっているそうよ。もちろん、その 『弟』 はホントウの弟なんかじゃなくて、れっきとした『彼氏』。日本人の夫もどうしようもないけど、タイ人妻の方はホントウにどうしようもないわ。同じタイ人というだけで恥ずかしくなってくる。 日本にいるまともなタイ人なんて、せいぜい留学生や政府関係者ぐらいのものよ。全体の1割にも満たないわ!! 残りはみんなどこの馬の骨かも分からないようなのばっかり!! 日本ではタイ人の友達を作るのにホントウに苦労したもの。相手の程度なんて少し話せばすぐに分かるから、・・・・・・お互いのバックグラウンドがあまりにもかけ離れていると気まずい雰囲気になって続かないのよね。私はブログを書いていたから、コメントをくれる読者からマトモなのだけを選べたから良かったけど、ほかの人たちは一体どうしているのかしら? あ、そうだ、ケイイチ君はもうすぐ日本に帰っちゃうんだし、せっかくだから日本でマトモなタイ人と知り合う方法を教えおいてあげるわ。それはね・・・・・・」(全部日本語)
この女性の日本人夫は、彼女を日本に呼ぶにあたって、近所の住民に「妻はちゃんと○○という国家資格も持っていて・・・・・・」と説明して回るなど、それはそれは大変な苦労をしたという。せっかくまともなタイ人と結婚したというのに、日本に娼婦を連れ込んだ多くの日本人達のせいで、面倒な作業を強いられ、どんだけ迷惑したことか。
タイ人とフツウにコミニュケーションがとれれば、まともなタイ人と結婚すれば幸せな生活を送れることは容易に想像できるが、娼婦との生活体験から「これがタイランドだ!」と主張する書籍が日本国内で多数発売され、自分と元娼婦の妻との生活を「これぞタイ人妻との生活!」などと紹介するブログが後を絶たない現状をでは、どうしてもタイ人との結婚に及び腰になってしまう。
実のところ、このブログでは大学進学率36%という高学歴社会の住人である「まともなタイ人達」との生活を中心に取り上げ、同時に、タイ全国に130,000人いるとされる娼婦達がいかに少数派でタイ人社会でもいかに鼻つまみ者とされているのか世間に訴えることで、日本在住の日本人に「ホントウのタイ人」を知ってもらい、タイ人の評価そのものを向上させようとも考えていたが、少数の賛同者と多数の敵を得るだけに終わった。まあ、それだけ自分と娼婦との関係を自らのアイデンティティーとしている日本人が多いということだし、その傾向が今後も続くんだろう。
もしタイという料理店に入ったら、僕だったら、わざわざ厨房の裏にある残飯集積所なんかには向かわず、フツウに席についてフツウに料理を注文し美味しい食事にありつこうと考えるものだが、残飯の方が好きという奇特な日本人が思いのほか多かった。あまりにも謎すぎるが、これも現実ということで受け入れざるを得ない。
もうどうでも良くなってきたが、ひとりの日本国民として一言だけ言わせてほしい。
日本国は廃棄物集積場ではない。私たちの美しいニッポンに汚い娼婦を持ち込むな。本人が良くても、ほかの人たちがひどく迷惑する。
午後2時頃、大学のヂャームヂュリー4号館で留学ビザ延長のために招聘状を受け取り、ウォングウィアングヤイにある自動車整備工場でタイヤのホイールを修理(700バーツ)。午後4時半、トーングロー15にある日本料理店「大戸屋」で友人達と夕食をとった。自室戻ってクラシック音楽を聴きながら優雅に日記を書き、午後10時半から文学部タイ語集中特訓講座(インテンシブタイ)の試験後の打ち上げに合流した。
「ご存じでしょうが、現地の大学に通っているわけでもない僕たちフツウの日本人がタイ人と知り合える場所は、どうしても夜の歓楽街に限られてしまいます。ケイイチさんが日頃から『娼婦』と呼ん憚らないような人たち以外に、僕たちが知り合うことのできるタイ人なんていないんです。良いタイ人と交際するのも選択肢のひとつでしょうし異論もあるとは思いますが、やはりバンコクでは日本人と交際することこそが最も賢明な道であると信じています!」
午前零時半、スクンウィット22にある格安居酒屋「あさみ」の2階宴会場で、酒がかなり進んでいたバトー君が、中ジョッキ片手に自説を雄弁に披露した。
だからこそ、ここバンコクには
実のところ、ここバンコクでまともなタイ人と知り合う方法なんてそれこそいくらでもあるが、とかく無謀な行動に走りがちな一部の日本人に知られてしまうと、タイにおける日本人の評判を落とすことにもなりかねないから、そのノウハウをブログで公表することは差し控えたい。
午後2時、運送会社が引っ越しの見積もりに来るというので部屋で待機していたところ、研究室の職員から電話があり、「マズいぞ! 必修3科目のうち『東南アジア植民地論』で不合格になった。一ヶ月間たっぷり時間をやるから、みっちりと勉強して再試験に臨んでくれ」との話があった。しかし、今月末に新入社員研修会が始まるため、どうしても20日までに本帰国しなければならず、職員に無理を言って再試験日を16日にしてもらった。この再試験でも不合格になると、規則により除籍処分が即時決定する。午後3時、スワンプルー通りにある入国管理局へ今月13日に有効期限が切れるビザの延長に出かけたが、大学の招聘状とホテル予約証書を間違えて持ってきてしまったため無駄足となった。午後8時半、
「料理、ちょっと注文しすぎなんじゃない? ただでさえ明日から黒くなるのに、これでデブになったらオシマイよ。子供なら『
午前零時42分、
これまでもタイでスクーバダイビングのライセンスを取ることは計画してきた。レーシック(視力矯正手術)前には、術後数ヶ月はできないから今のうちに済ませておこうか真剣に検討したが、ある理由から本帰国を控えた今日まで見送り続けてきた。
タイにおける社会的地位を自らの手で低下させてしまうような馬鹿な真似は是が非でも避けたい。
タイ人のあいだには、「中国系タイ人には教養もあれば金もある」という一種の固定観念がある。タイにおける実力者の大半が華人で占められていることを考えると、こうした言説は真実の一端を確かに捉えているが、その他大勢の凡庸な華人の存在を完全に無視した暴論でもある。ところが、そのような思い込みが社会全般に根付いているタイにおいて、「肌の色が白い = 中国系っぽい = 教養と金がありそう = イケてる」と考える風潮があるのはもはや疑いようのない事実であり、好むと好まざるとに関わらず受け入れざるを得ない。
これは、色黒の人々が学校などで差別を受ける原因として、タイにおける社会問題にもなっている(通常、この種の差別には「方言がダサい」とか、「何言ってんのかワケワカンナイ」などの要因も加わる)。貧富の差が激しいタイでは、肌の色が黒い人は、屋外にいる時間の長い単純労働者(ガンマゴーン)や農民(チャーオナー)であるに決まっている、というような思い込みが支配的で、「肌の色が黒い = 教養のない単純労働者 = 所得が低い = ヘボい」といった構図ができあがっている。むろん、こうした考え方は単なる偏見に過ぎないのだが、テレビのコメディー番組における配役からも分かるように、日常生活の中で人々の価値観の中に無意識のうちに刷り込まれている。
「ビーチに一日中寝っ転がって日焼けをしている西洋人はまだ分からなくもないわ。でもね、金を出してまで日焼け施設(日焼けサロン)に通っている日本人は全然理解できないんだけど」
それもそのはず。日サロへ通うなんて、タイ人の発想からするとヘボくなるために金を費やす愚行以外の何物でもないんだから、どう考えても「合理的である」という結論になるはずがない。これこそ、タイ人のあいだでマリンスポーツが流行っていない理由であり、だから現地のビーチには西洋系外国人しかいないのだ(決して金がなくてレジャーを楽しめないわけではない)。
昼過ぎ、スワンプルー通りの入国管理局で学生査証(留学生用のビザ)を10月まで延長してもらった。現在、タイの官公庁一丸となって推進中の「ワンストップサービス化」(ひとつの窓口で公的手続きを終えることのできる仕組み)にともない、ここでも特別査証を扱う1番窓口が拡張されて、2階203号室の個室にあった特別査証課がそのまま移転してきていた。
窓口には超過滞在者に対する科料が値上げされるとの告知があった。これまで1日あたり200バーツだった科料が500バーツに値上げとなる。午後4時には自室に戻り、大急ぎでアパート前から友人とタクシーに乗り込み、ドーンムアング空港国内線ターミナルへ向かった。午後6時過ぎのオリエントタイ航空263便(片道税込1,650バーツ)でプーゲットへと旅立った。
友人は両手一杯の書類ケースを抱えていた。なんでも、前回の南部ドライブの際に自分の仕事を同僚に任せっきりにしていたとき、その後の事後処理にひどく骨を折ったそうで、その反省から今回は僕がスクーバダイビングの講習を受けているあいだの時間に、ホテルで通常通りの業務をこなすという。ちなみに、これが実現したのはすべて AIS (Advanced Info Service 社) の時間帯指定の定額通話サービスのおかげとか。
「あ――っ! もう朝食を取る時間がないじゃないの。いいわ、私は一眠りしてから食堂に行くから気にしないで。とにかく、忘れ物がないように今一度確認しておいた方がいいわよ。それと、日焼け止めクリーム、まだ塗ってないでしょう?」
午前6時28分、ホテル C&N Spa and Resort 2214号室で、慌ただしい朝の時間を過ごしていた。わざわざリゾートに来てまで早起きしているのだから、まったくは自分でも感心してしまう。
5分後、ホテルまで迎えに来た日本人とタイ人のインストラクターふたりと、
今日からの3日間、
このコースで学んだ知識とスキルを応用し、受講したトレーニングと経験の範囲内で、監督者なしでダイビングすることができる。スクーバ・タンクへの空気を充填してもらったり、機材を購入するなどのサービスを受けることができる。受講したトレーニングと経験の範囲内の環境で、適切な装備を整え、バディと一緒にダイビングする条件下で、減圧不要ダイビングを計画、実施して、ログに記録できる。スペシャリティ・ダイブ、 PADI アドベンチャー・イン・ダイビング・プログラム、 PADI スペシャルティ・コースなどに参加してダイバー・トレーニングを継続受講できる。
なお、 PADI のダイバー認定証の格付けは、下から ① スクーバ・ダイバー(省略可) → ② オープン・ウォーター・ダイバー → ③ アドベンチャー・ダイバー(省略可) → ④ アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー → ⑤ レスキュー・ダイバー → ⑥マスター・スクーバ・ダイバーの順。
午前中に学科講習と機材の説明を受けて、ダイビングに必要な知識を習得。なんでも、水深10mの気圧が2気圧(空気の体積も水上の2分の1)、水深20mでは3気圧(同3分の1)になるため、水深20メートルで空気を思いっきり吸って、そのまま一気に水上まで浮上すると肺の大きさが3倍になる・・・・・・のではなく、肺が破裂して致命傷に至る。
午後は欧米人経営のダイビングショップにある水深3mのプールで、適性試験(200mの水泳)を受け、基礎的なスキル(たとえば吸い込む空気の量を調節して水中で浮き沈みする技術や曇ったマスクをクリアする方法など)を習得。
青い海、白い砂浜。そして、チャローング海岸の桟橋に係留されているクルーザーの数々。
午前7時20分、ホテルまで迎えに来た
記念すべき第1本目のダイビングポイントは、
船上で軽食を取ってから、ラーチャーヤイ島の Maritta’s Rock へ移動。午後1時12分に2本目のダイビングを開始。最大深度12.6m、潜水時間43分。水温は摂氏31度で、透明度は15mだった。
潜行前のプレダイブ・セーフティー・チェック、適正ウエイトチェック、疲労ダイバー救助、足がつった時の治し方、マスククリア、レギュレーター・リカバリー、5 step 潜行・浮上、バックアップ空気源を使用した浮上などを学んだ。
潜水中には体内に窒素が溜まりやすく減圧症の原因となるため、長時間に及ぶダイビングは厳しく制限されているという。
今日は本当の熱帯魚の群れを見てリゾート気分を満喫することができた。それと、体力の消耗が少なかったのは意外だった。
午後9時までダイビングショップで学科の勉強をしてから、ホテルへと戻った。
講習3日目。 PADI オープン・ウォーター・ダイバー・コース最終日。
午前7時半、ホテルまで迎えに来た
講習3本目のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の Bangalow Bay 。潜行開始時刻午前9時58分。浮上時刻午前10時41分。潜水時間43分。最大深度は16.2mで、水温は30度だった。
講習4本目のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の Bangalow Bay だった。潜行開始時刻12時58分。浮上時刻午後1時35分。潜水時間48分。最大深度は14.1mで、水温は30度だった。
水面水中でのコンパス移動、緊急スイミング・アセント、水中マスク脱着、ホバリング、水面機材脱着などを学んだ。その後、午後9時までダイビングショップで学科講習と試験を受けて、オープンウォーターダイバーの仮証明書を受けた。
(3月20日追記)正式なライセンスカードは、オーストラリアの PADI オフィスから日本の実家に届けられた。
講習4日目。今日から2日間の PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コースを受講する。当初、オープン・ウォーター・ダイバー・コースに耐えられなければ、残りの3日間をプーゲットでグータラ過ごすつもりだったが、ダイビングそのものが思っていたよりも楽だったことに加え、どこへ行っても通用するダイバー資格が欲しいと思い、継続受講することに決めた。料金は12,000バーツ(ダイビング5本)。
この資格は、昨日取得した PADI オープン・ウォーター・ダイバー・コースのカリキュラムに加え、その上位資格であるアドベンチャー・ダイバー・コース5つを履修することで取得できる。減圧不要ダイビングの最大深度は40mとされているが、このカリキュラムでは最大深度30mまで潜ることができる。
講習5本目「ディープ・ダイビング」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の No.3 Bay 。潜行開始時刻午前10時7分、浮上時刻同39分。最大深度30.7m、潜水時間32分。水温は摂氏28度で、透明度は15メートルだった。深く潜れば潜るほど潜水可能時間は短くなるという。水には暖色を吸収する性質があるため海底での景色すべてが青みがかって見えた。試しに持っていったスナック菓子「
講習6本目「水中写真」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の No.2 Bay 。潜行開始時刻午前11時36分、浮上時刻12時11分。最大深度23.4m、潜水時間35分。水温は摂氏30度で、透明度は15メートルだった。日本人インストラクターによると、ほとんどのダイバーが水中の生物に強い関心を持っているそうだが、自然環境にはまったく関心がないため、どれも単なる「魚」にしか見えず、面白くも何ともなかった。途中、全長1メートル強の巨大魚(もちろん名前なんて覚えてない)に遭遇したときには、本当にどうしようかと思ったが、教本にあった「魚は絶対に襲ってこない」という言葉を信じて、ただひたすら「さっさと目の前から去ってくれ」と祈り続けた。
講習7本目「魚の見分け方」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の No.1 Bay 。潜行開始時刻午後1時29分、浮上時刻午後2時12分。最大深度21.6m、潜水時間43分。水温は摂氏30度で、透明度は20mだった。どうしても真面目に魚の見分け方を勉強する気にならなかったため、インストラクターに沈没船へと連れて行ってもらった。船内は無数の魚たちでごった返しており、日本人インストラクターによると沈没船は魚の住処になっているという。
マンネリ感がしてきた「日常としてのスクーバダイビング」。もしあと1ヶ月も続くのなら逃げ出したくもなるが、残り1日だし頑張ろう。
今日3本目のダイビングを終えて、冷房の効いた船底のソファーに陣取り、ビールを飲んでチャローング湾桟橋に到着するまで爆睡した。
午後8時までダイビングショップで学科の勉強をし、ホテルに戻って夕食をとりビールを飲んだ。友人によると、このダイビング期間中に肥満化が進行しているという。そういわれても、水中にいないときは、食うか、飲むか、寝るかして過ごしているから仕方がない。
「やっぱり、ダイビング中にかなり日に焼けたわよね。それに、ちょっと太ったんじゃないの? 少し不細工になったような気もするし」
午後9時、プーゲット島パートーング海岸にあるホテル C&N SPA and Resort の2214号室。ここ数日間の習慣となっている「ルームサービスの夕食」(100バーツ)を食べていたところ、友人からそう指摘された。だから、これまでずっとマリンスポーツに手を出すのは避けてきた。
実際、スクーバダイビングが思っていたほど体力を使うスポーツでなかったため、当初目論んでいたダイエット計画は失敗した。そればかりではなく、ダイビング前後の暴飲暴食昼寝、寝しなの夜食とビールといった生活習慣が、逆にかえって体重を増やす結果を招いた。留学をはじめてからの4年5ヶ月、当初肥満とは無縁だった体重が9キロも増えてしまい、これではもう日本で通用しなくなっているかもしれない。本帰国後に予想される、ありとあらゆる不本意な事態に備え、そろそろ本腰を入れてダイエットに励まなければならない(2006年5月30日追記: 帰国後の2ヶ月間で8キロ減量した)。
講習5日目。 PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コース最終日。午前7時半にホテルまで迎えに来たソングテオ(乗り合いトラック)に乗り、いつものように朝の潮風を受けウンザリしながら、パートーング海岸を南に約15キロほど行ったところにあるチャローング湾桟橋へと向かった。
桟橋に着くと、日本人インストラクターから、「他のショップの船に乗るから、あの人の言うことに従って行動してください」と指示を受けた。日系ダイビングショップのクルーザーを出すのに必要な人数が集まらなかったそうで、西欧系外国人が経営するダイビングショップのクルーザーに便乗させてもらうことになったらしい。おかげで、ここ数日間の日課となっていた、「ダイビング前後の昼寝」(1日4時間)ができなくなり、移動中に暇を持て余した。
講習8本目「中性浮力」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の Staghorn Reef 。潜行開始時刻午前10時26分、浮上時刻午前11時18分。最大深度18.5m、潜水時間43分。水温は29度、透明度は20mだった。中性浮力は、肺の中に吸い込む空気量を調整することで維持する技術。初日のプール演習でも似たようなことをやったが、やはり浮力の大きい海水の方が楽だった。
講習9本目「ナビゲーション」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島の Lucy’s Reef 。潜行開始時刻12時43分、浮上時刻午後1時31分。最大深度14m、潜水時間48分。水温は30度で、透明度は15mだった。講習最後のダイビングとあって、ゆっくりと水中浮遊を楽しむことになった。
スクーバダイビングの講習は、運転免許センターの講習に似ている。ひとつは、学科と実技があって、それぞれの項目をクリアしないと次に進めないこと。もうひとつは、インストラクターの役割が免許センターの教官と似ていること。今回、僕は「アットホームなダイビングショップ」ということで知られる某日系ショップを利用し、幸運にもダイビングへの適性もあったようで、イヤな気ひとつすることなく気分良くライセンスを取ることができた(実は繰り返しやらされるのがイヤで超真面目にやった)が、そうでない人は慎重にショップを選んだ方が良いかもしれない。
午後8時まで日系ダイビングショップ2階にある教室に籠もって、PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コースのライセンス認定試験を受けた。その後、ホテルへ戻り、友人とパートーング海岸へと繰り出して、ショッピングを楽しむなどビーチリゾート最後の夜を満喫した。相手の利益を無視した友の強烈な値引き交渉には面食らったが、それよりも「観光地実勢価格」と「タイ人価格」との極端なまでの格差には心底驚かされた。やはり、買い物は観光地などでするものではない。
(3月20日追記)正式なライセンスカードは、オーストラリアの PADI オフィスから日本の実家に届けられた。
「わたしたち3人、今晩は早めにあがって、これからコロシアムへ行くつもりなんだけど、良かったら一緒にどう?」
アリガチな日本人男性なら「逆ナンされた!」と狂喜乱舞しそうなシーンだが、果たしてホントウに喜んでいいものかどうか。
午後11時半、アソークモントリー通りとスクンウィット23(プラサーンミット通り)を結ぶ夜の繁華街「ソーイ・カウボーイ」にあるゴーゴーバー Rawhide で友人とビールを飲んでいた。そして「日本人のあいだで語られてきたタイ」の真偽について意見を戦わせていたところ、ひとりの全裸の
アリガチな日本人男性なら「異文化交流の絶好のチャンス!」と狂喜乱舞しそうなシーンだが、果たしてホントウに喜んでいいものかどうか。
タクスィン政権は、発足した2001年からの5年間、退廃しきった社会の綱紀粛正を主要な政策課題として掲げ、その対応策を矢継ぎ早に実施した。なかには、国際的な非難を受けた人権無視の過激な政策もあったが、それでもタイを良い方向に導いているという見方が強い。ゴーゴーバーは社会的退廃の最たるものであるため、司法警察当局による重点取締対象となり、経営者達は娼婦に水着を着せるなど緊急避難的な対策を講じて外国人客をつなぎ止めるための知恵を絞った。
ところが、ゴーゴーバー Rawhide では、2001年のバンコク留学以来、最も過激な Show が公然と繰り広げられていた。女性器でソーダ瓶を開ける芸(股間の下に手を回してあらかじめ開栓されている蓋を開けるトリック)、女性器から発射した吹き矢を天井の風船に刺してを割る芸などなど。どれも、これまで「過去にはこういったショーもあったんだよ」と聞かされてきた「伝説の芸」ばかりだ。
ステージで踊っている娼婦の出身県について、友人とハイネケンビール小瓶(350m, 100バーツ)片手に賭けをした。負けた方が娼婦にコーラ(約80バーツ)を奢る約束。予想は、僕がタイ南部、友人が
数十分後、こうして知り合った娼婦からディスコ
Colosseumは、スクンウィット通りとトーングロー通りの交差点近くにある典型的なイーサーン館(留学生日記2006年1月24日分参照)で、出稼ぎ労働者(月収6,000バーツ程度)や下級娼婦(月収7,000バーツ程度)からの強い支持を得ている。ラッチャダー8にある Hollywood や Dance Fever をはじめ、ペッブリー通りとトーングロー通りの交差点付近にあるディスコ Bossy などが同種のディスコとして知られており、いずれも田舎演歌「ルークトゥン」を流したり、下品なお笑いショーの時間が設けられているなど共通の特色がある。都市部の一般的な会社員(月収20,000バーツ程度)や大学生からは「田舎臭くてヘボい」という理由で忌避されていため、これらのディスコでイケてる客を見つけることは極めて困難といえる。
イヤだ。絶対に行きたくない。さらに、酒が回り始めていたこともあって席を立のが面倒なうえに、こんなくだらないことのために帰宅時間を遅らせるなど、まったくもってとんでもない。少し時間を有効に活用して、残りわずかのバンコク生活を少しでも有意義なものにしたい。ほかにも、つぎの理由から娼婦の誘惑には乗らないようにしたい。
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娼婦の誘惑に乗りたくない理由
いずれも、シリーズ「微笑みの国タイランドの厳しい現実」で詳しく扱っております |
・・・・・・まったく、良いことなんか何もない。思い返せば、留学初期の時点では上記1~6の事情を知らなかったから、冒頭に示した「アリガチな日本人」のような発想で娼婦と交際してしまう可能性も十分にあった。そう思うと、タイ語学習前から現役大学生を中心とした交友関係を築き、大学院在学時代も大学生や大卒以上の人々と付き合ってきたのは正しかった。おかげで娼婦の誘惑につけいられる隙を作らずに済んだ。もし仮に十分な数の友人がいなかったら、今頃は娼婦の誘惑に負けて、とんでもないことになっていたに違いない。ホントウに危ないところだった。よかった、よかった。
本帰国を間近に控え、ここのところ日本人の友人達と飲みに出かける機会が増えている。先日来、「夜のゴールデンコース再び」といった日記が続いているのは、すべてこのためだ。
午前中の便で
「修理工場で調べてみないと断言はできないけど、このクルマの買取価格、最高でも300,000バーツよ。エンジン周りに油漏れがあるし、サスペンションも完全にイカれちゃってるし。黒とか青とかの人気色だったら、まだ少しは良い値が付くかもしれないけど、赤は不人気だからねえ。まあ、お金のほうは数時間あれば用意できるから、気が向いたら電話ちょうだい。これ以上の値段で買い取る業者なんて、どうせほかにはないと思うけど」
午後2時、
その後、近くの中古車屋へ行ったが、「25万バーツだ。それ以上は絶対に出せない。イヤなら他をあたってくれ」という素っ気ない返事が返ってきた。中古車屋の査定額がいかにいい加減なものか知った。
僕のクルマは、現在ではフォルクスワーゲンなどを受託生産しているタイ資本の自動車組立会社ヨンタギット ยนตรกิจ 製の BMW 318i 、初回車輌登録は1994年(12年落ち)で、総走行距離は122,000キロ。2003年10月に62万バーツで購入したもので、当時の走行距離は89,000キロだった。
今回の目標額は30万バーツで、35万バーツなら万々歳。28万バーツ以下で売るなら、バンコクに赴任してくるまで友人宅に預けておいた方がマシだ。
ガセートナワミン通りの中古車屋街へも寄る予定だったが、プララームソーング通りの店で思うような値が付かなかったため脱力してしまい、高速道路(チャルームマハーナコーン自動車道)でそのまま自室へと戻った。
コンドミニアム1階で大学院留学時代初期の元同僚と遭遇し、本帰国前の挨拶も兼ねてビールを飲んでいたところ、さらにもうひとりの元同僚が加わった。バンコク留学生活の紆余曲折を改めて振り返った。
「まるで『ちょっと買い物に行ってくる』みたいな軽いノリで出かけるから、適当に何か紙に書いて帰ってくるだけで合格しちゃうような試験かと思ったじゃないの。なんでそんな重要な試験があることを先に言わなかったのよ? もし最初から知ってたら、プーゲット旅行なんか絶対に行かせなかったのに!」
午後12時10分、
午前7時半、起床。文学部4号館の小さく細長い教室で東南アジア研究科修士課程の修了認定試験の再試験を受けた。先月26日の試験では、出題された3問のうち1問で不合格となっている。修了認定試験は2回不合格になると即刻除籍処分となるため、今回不合格になると4年間の留学の成果が水泡に帰すことになる。
前回の試験で不合格になった原因は明らかだった。格調高い英文で正確に答えるために、全3問ある小論文2問だけで、6時間ある試験時間のうち5時間半も費やしてしまった。のこりの1問(東南アジア植民地論)については、それこそ英文の芸術性を完全に無視して猛ダッシュで書き殴った(ヤケクソだった)。僕の解答用紙は当然悲惨なことになっていた。アメリカの落ちこぼれ中学生が書いたかのようなアホみたいにデカい文字で、稚拙な英文を何ページにも渡ってズラズラ並べてしまった。こんな情けない答案でタイ最高学府のヂュラーロンゴーン大学が学位を認定するはずがない。もし研究室が温情修了を認めても、大学院の本部が絶対に許さない。
だから今回はたっぷり時間をかけて、不合格となった小論文を書けばいい。不合格となった1教科(1問)を3時間まるまる使って解いた。
午後、アソークモントリー通りの日本大使館領事部で在留証明書の発給を申請し、セントラル百貨店ピングラーオ店で入社前最後のストレートパーマ(3,500バーツ)をかけ、プラトゥーナーム交差点にある食堂「カーオマンガイトーンプラトゥーナーム」で友人と夕食を取って帰宅した。
「買い取ったクルマは自分で乗るつもりなので、あまり吹っ掛けないでください。転売目的じゃないんです。これより良い話なんかないでしょうから、私の店まで来てくれませんか?」
正午前、スクンウィット13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート」17階の自室では、バンコク各地の中古車屋から次から次へとかかってくる BMW 318i の値段交渉の電話対応に友人が追われていた。
売却当日の今日になって、僕のクルマの売値は緩やかではあるが着実に高騰していった。今朝一番の電話は、
「先日、『最高で30万バーツ。それ以下にはなっても、それ以上では買い取らない』 と申し上げましが、今日あなたのクルマを30万バーツで買うことに決めました。即金でお支払いできますが、ご来店は何時頃でしょうか?」
つぎに、ガセートナワミン通りにある中古車屋から電話があった。先日プララームソーング通りで「25万バーツだ。それ以上は絶対に出せない」と応じた中古車屋が、僕を無断で別の中古車屋に紹介したのではないかと友人は推測している。バンコク中古車業界のネットワークも侮れない。
「ほかの中古車屋はいくらで買うと言ってるんですか? 今の最高値が30万バーツなら、私たちは31万バーツ出しましょう。あなたのクルマの状態はとても良いと伺っています。他への売却を決める前に、一度見せに来ていただけませんか?」
この時点で、クルマの価値は31万バーツになった。
―― すでに他の中古車屋から私のクルマを31万バーツで買いたいという申し出がありまして、同じ値段と言うことでしたら、私は先着順でその中古車屋にクルマを売らければなりません。それが日本流の信義というものです。日本人として、このやり方は曲げられません。しかし、もし32万バーツで買い取るとのでしたら、ほかの話は全て忘れて今すぐあなたの店へ行きますが。
日本に「先着順で売約の優先順位が決まる」なんて習慣がホントウにあるかどうかはともかく、「交渉ゲーム」のような軽い気持ちでそう応じた。たかだか数万バーツの価格差のために、押し問答のような商談を朝から続けていたため、いい加減ウンザリしており正直もうどうでもよかった。一方、自分流の値段交渉手段を封じられた相手は戸惑い、「少し考えさせて欲しい」と一旦保留し、交渉の継続を申し出た。なかなか良い判断だ。「午後1時にはクルマを売りに出かけますので、それまでに返事をいただければ結構です」と言って終話ボタンを押した。
その5分後、同じ中古車屋から電話がかかってきた。
「私はスィーナカリン通りのスィーコンスクエア近くの中古車屋○○にいます。あなたの言い値どおり32万バーツで買い取ります。ナーナーからですと、南プルーンヂット入り口から高速道路に乗って、パッタナーガーン2出口で降りればいいと思います。途中で道に迷ったら電話ください」
こうして南プルーンヂット入口からチャルームマハーナコーン自動車道に乗り、そのままスィーラットナイムアング自動車道、スィーラットノークムアング自動車道を経由して、バンコク都南東部のプラウェート区にある中古車屋までやってきた。
「やっぱり、31万5千バーツじゃダメですか?」
―― ダメです。約束を反故にするなら、先約のある中古車屋へ行きますよ?
こうして無事言い値で売ることになり、中古車屋が用意した売買契約書と青い表紙の自動車登録証の「権利放棄欄」にサインして、現金32万バーツを受け取った。想像より簡単だった。
非自動車所有者になった奇妙な喪失感にとらわれながら、タクシーでスクンウィット通りまで友人と戻ってきた。そこで職場へ向かうという友人を見送り、非銀行系の両替屋 VASU に駆け込み、クルマの売却代金32万バーツと留学資金の余り(約3万バーツ)を両替して、100万円余りの日本円を受け取った。
日没後、バンコク在住の知り合い達の飲み会に参加するために、エーガマイ通りにあるタイ料理店 Khun Ying と、スクンウィット22にある飲み屋「あさみ」へ出かけた。
「そのゴミ袋、捨てるのちょっと待って! バンコクに住んでると忘れがちだけど、この国には貧しくて洋服すら満足に買えない人が沢山いるのよ。『もういらない服』だって、田舎にはそれを貰って大喜びする人だっているの。いつか時間を見つけて寄付しておくから、とりあえず私のクルマのトランクに突っ込んでおいてもらえないかしら?」
午前11時半、スクンウィット13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート」17階の自室のリビングには足の踏み場すらなかった。日本へ持ち帰る荷物を少しでも減らそうと、引き出しやクローゼットから重要度の比較的低い私物を取り出して片っ端から黒いゴミ袋へと放り込んでいった結果、12個分ものゴミ袋が床に放置されているのだ。そのうち、衣類が入っているゴミ袋は2つあり、流行遅れになって日本で着られない服や、タイでしか着られない原色の Y シャツ、所有者不明の衣類など数十点が入っている。
そして、衣類が入っているゴミ袋2袋を友人のクルマを駐めてある駐車場へ持って行き、それ以外のゴミ袋10袋をアパート内の共用スペースにある「ゴミ捨て部屋」へと運び込むと、部屋がガランドウになった。
午後2時、中国系タイ人の大家が部屋に来た。入居時に預けた保証金(家賃2ヶ月分)42,000バーツ全額を返してもらい、退去時の鍵の隠し場所などについて話し合って握手して別れた。大学院入学以来、かれこれ2年半に渡ってお世話になったこの部屋のオーナーだが、なかなか話の分かる人で良かった。
その後、今日バンコクに到着する高校時代の友人に、引っ越し荷物の一部を日本まで運んでもらうために書籍を大急ぎで旅行カバンふたつに詰め込んだ(それぞれ26.2キロと13.5キロの合計39.7キロ)。
当初、引っ越し作業を輸送会社に依頼して、気楽に手ぶらで帰国するつもりだった。ところが今月14日、総重量300kg、189,000円(タイ国内輸送費用18,000バーツ, 航空運賃25,000バーツ, 日本国内輸送費用60,000円)の見積書を受け取って、それならその金で新しいパソコンを買った方がマシだと思い、日本国内の輸送サービスを無料で使える友人に無理を言って荷物の一部を運んでもらい、残りは自力で持ち帰ることにした。
夜、地獄の劇マズ日本料理店 Oishi Grand で高校時代の友人や現地の友人と夕食を取り、友人が泊まっているホテル「ソフィテル・セントラルプラザ」まで荷物を送り届けた。
帰宅後に「ゴミ捨て部屋」を覗いてみたところ、再利用できそうなものは清掃婦に抜き取られていた。いくら自ら物権を放棄したものとはいえ、あまりいい気分はしない。
「今週中に電話番号とインターネットの解約を済ませておくわ。 True で働いている高校時代の友達が『旅券のコピーと委任状があれば解約できる』って言ってたから、ホテルに戻ったらすぐに委任状を書いてよね。面倒くさいとか言って先延ばしにしてると、ホントウに忘れて数ヶ月後には料金未払いのブラックリスト入りよ」
午後9時15分、リヴァーシティー・スィープラヤー船着場(スィープラヤー第2船着場)前は、オリエンタルやペニンシュラなど高級ホテルから放たれる光がヂャーオプラヤー川の水面に映り、そのコントラストが幻想的な雰囲気を演出している。正面には今月開業したばかりのホテル
その Millennium Hilton でバンコク留学の最後の夜を過ごすことにした。タイ史における主要な歴史的舞台であるヂャーオプラヤー川の水辺に立つホテルから、ワットプラゲーオ(エメラルド寺院)をなどの歴史的建造物や、トンブリー朝開闢以来239年もの歴史を刻み続けてきた旧市街を眺めながら、約4年半に渡るバンコク留学を総括してみるのもまた一興だろう。そして、遊覧船に友人と乗ってヂャーオプラヤー川を北上しながら、今日までのバンコク留学生活を振り返ってみる。
今から4年5ヶ月前の2001年10月、所属していた情報システム部門が子会社化されるとの噂を聞き、社内 SE のままでは IT 系企業ほどのスキルが身につかず転職市場に投げ出されたら間違いなく淘汰されるとの危機感から、7ヶ月間勤めた金融機関を退職した(その金融機関が消費者金融だと中傷している人がいるようですが、普通に預貯金ができる金融機関です)。
2001年11月7日深夜、日本人話者が少ないタイ語を糧に転職市場で生き残ろうと、旅行カバンひとつでバンコク・ドーンムアング国際空港に降り立った。日タイ交流掲示板で知り合ったスィーナカリンウィロート大学の学生達に空港まで迎えに来てもらい、無理を言ってその後のアパート探しまで手伝ってもらった。さらに留学のパフォーマンスを最大限にまで高めるために、タンマサート大学の学生とも同棲した。今日の自分がいるのは、留学初期に良質な友人達に恵まれたおかげだと感謝している。
2002年1月、
2003年3月、タイ・東南アジア研究室に修士課程の願書を提出したところ英語力不足のため受理されなかった。タイ語が話せる第二新卒として日本で再就職することや、タイ語が使える現地採用(タイ在住日本人のタイ語力は総じて低い)として再就職することも考えたが、どんなに困難でも初志を貫徹する肝心と思い、アメリカ・ロサンゼルスで英語を学ぶことにした。
2003年5月、カリフォルニア州ロサンゼルス郡アルハンブラ市にある英語学校 Language Systems に通い始めた。タイ留学時代と比べてしまうと退屈で平凡な毎日だったが、それでもタイ人の共同住宅に転がり込んでタイ語中心の日常生活ができたのはそれなりに収穫だった。
2003年10月、ヂュラーロンゴーン大学大学院東南アジア研究科修士課程へ進学。2004年6月、「タイ沈没の悲劇を目の当たりにする」でバンコク在住の一部の気持ち悪い日本人について言及すると、2ちゃんねるの麻薬売春関連掲示板「危ない海外」で徹底的な誹謗中傷にさらされた(まとめサイト参照)。なかには「ケイイチは金を使って裏口入学した」や「東南アジア研究科は外国人から金を取るために開講された講座だ」など事実無根の中傷、「ケイイチに好意的でない大使館員/入国係官と会いブラックリストに加えさせた」という脅迫まであったが、その最先鋒(中傷目的サイト)が「ケイイチが妾の息子である証拠として戸籍謄本を入手した」と主張するようになって、彼らの「裏情報」や「動かぬ証拠」がすべてハッタリだったと確信し安堵した。
それを契機に、ずっと疑問に思ってきた「日本人によって語られてきたタイ人像」の真偽について調査するようになった。それまで娼婦を基準にタイを語ってきたような自称タイ通らに何を言われるかと心配して遠慮していたが、売買春関連のウェブサイト管理人や掲示板投稿者らに好き勝手言われ、これ以上のダメージを受けることがなくなったため、「娼婦との体験だけを元にこれまで数多くの日本人によって語られてきたタイ人の全体像は間違っている!」と誰気兼ねなく書けるようになった。一般のタイ人に限定していた調査対象を、日本人向けの夜の歓楽街「タニヤ」にあるカラオケスナックやタイ人向けの高級キャバレーで働く娼婦達にまで広げ、おかげで数々の興味深い発見に出くわすこともできた(シリーズ「微笑みの国タイランドと厳しい現実」)。おかげでバンコク日本人社会のちょっとした専門家になれた。
ヂュラーロンゴーン大学は世界ランキングで日本の京都大と一橋大のちょうど中間くらいにあるため、クラスメイトたちは皆、非常に優秀で僕は単なる「凡庸な学生」のひとりにすぎなかった。それでもタイの最高学府や世界各国の有名大学を卒業して奨学金まで得ている学生達が「継続履修のための最低 GPA」を下回り次々と除籍処分を受けていくなか、なんとか修了まで漕ぎ着けることができただけでも満足している。
2005年11月中旬に最後の大型ペーパー(学期末小論文)を提出してから、修了認定試験を受ける2月まで自由の身になった。最後の1学期(2548年度後期、2005年11月~2006年3月)は履修登録をしなくて済んだため学費が大幅に減免されたため(なんと93%引きだ)、余った予算と時間で地方都市への旅行を繰り返し、レーシック(視力矯正手術)までやった。好奇心の赴くまま自由に行動してみるのも、いろいろと学ぶべきものが多く有意義だった。
そして、バンコク留学最終日前夜を迎えた。大家の好意で退去期限を1日延期してもらっていたコンドミニアムを昼過ぎに出て、友人のクルマに旅行カバンを5つ詰め込み、ホテル Millennium Hilton (一泊3,000バーツ)にチェックイン。遊覧船でヂャーオプラヤー川を北上しながら友人と夕食を取り、ホテル最上階のラウンジでバンコクの夜景を眺めながら軽く一杯飲んだ。
「あ・・・・・・、うん。実家に着いたら電話ちょうだいよね」
午前6時35分、ユナイテッド航空 UA852 便(バンコク発成田行)の離陸時刻まで15分にまで迫っていた。バンコク・
こんな慌ただしい別れをしなければならなくなったのには、それなりの理由があった。
午前4時に起床し、身支度を大急ぎで済ませてホテルをチェックアウト。友人のクルマに手荷物を詰め込み、午前5時10分にホテル
午前5時50分、空港に到着。まだ離陸まで1時間あった。空港第2ターミナル3階の出国ロビー前で友人のクルマを降り、引っ越し荷物を満載したカートを押してチェックインカウンターへと向かった。
ユナイテッド航空の地上要員は、僕の荷物を見るなり唖然として投げやりになった。「機内預け入れ手荷物」といえば普通、旅行カバンのようなものを想像するが、僕のそれは「家財道具一式」以外の何物でもなかった。今回はファーストクラスに乗るため、エコノミークラスの2倍の40キロまで機内預け入れ手荷物として預けられるが、実際に重さを量ってみると82キロもあった。
昨日、部屋を引き払うときに、使用頻度の低いものを(必要なものや大切なものも含めて)片っ端からゴミ箱に突っ込んだが、それでも(一昨日高校時代の友人に輸送を依頼した32キロを含めて)どうしても100キロ以内にすることができなかった。足かけ4年半にも渡ってバンコクで生活していたのだから仕方のない。
機内預け入れ手荷物が航空券に記されている重量を超過すると1キロにつき(搭乗するクラスに関わらず)「ファーストクラスの正規運賃の1%」課金され、ユナイテッド航空のバンコク-成田線であれば超過1キロごとに545バーツ課金される計算となる。これをまともに支払ったら22,890バーツもするため、チケット発券係に掛け合って17キロ分を見逃してもらった。25キロの超過で13,625バーツを支払った。このやりとりに10分を費やした。
さらに、第1ターミナルにある入国管理局ドーンムアング出張所へ行き、留学ビザの再入国許可証をもらうのに20分以上を費やし、友人との別れの時間を十分に取れなくなった。
友人と別れて出国審査場に入ると、さらに慌ただしくなった。航空会社地上係員に促されるままに正規の出国審査場を突破して、奥にある特設ブースにパスポートを提出。数年前にタイの入出国審査で導入されたばかりのウェブカメラで顔写真を撮影された。そして、パスポートを受け取らずに、先導する航空会社地上係員の後について大きな旅行鞄(機内持込手荷物)を抱え、ターミナルビルから最も離れたところにある36番搭乗ゲートを目指して空港内を全力で駆け抜けた。
途中、後方から猛ダッシュでやって来た別の地上係員から、まるでリレー選手のようにパスポートを受け取り(係員はその場に倒れ込んだ)、離陸予定時刻5分前の午前6時45分になってようやくファーストクラス 4A に身を沈めた。誰のせいかは知らないが、ユナイテッド航空 UA852 便は定刻より10分遅れて離陸。ウエルカムドリンクのシャンパンを飲み、その窓から早朝のバンコクの街を見下ろしながら、この街に別れを告げた。僕にとってのバンコク留学は今日が最終日だが、それとは無関係にここバンコクで繰り広げられる善悪美醜悲喜交々の愛憎劇は、世界中からやって来るさまざまな人々の夢や希望とともに今後何度でも繰り返されるのだろう。