マレーシア国境

「もの凄い人混み。まるで外国にいるみたい。タイの春節は先週末で終わったけれど、本場中国人の春節休みって今週末まであるものね。それにしても、あの部屋・・・・・・本当に出ないかしら。中国人観光客の霊感が特に強くて、幽霊に気づいたから別のホテルへ移った、とかだったらどうしよう」

午後8時40分、ソンクラー県ハートヤイにあるショッピング街で、友人が言った。街中のいたるところに赤い春節の装飾が施され、あちらこちらから中国語が聞こえてきた。黒いナンバープレートの、見たことも聞いたこともないブランドのクルマがたくさん走っている。このクルマは、マレーシアが1983年に三菱自動車工業と合弁で設立した国策の自動車メーカー「プルトン社」製で、なんでもヨーロッパでは知名度が高いという。

20060202-2@2xハートヤイは、マレーシア国境「パーダングベーサー」の北51キロの地点にあり、マレーシア人に人気の歓楽街として知られている。マレーシア国内に住んでいるマレー系(65%)は、生まれながらにしてイスラーム教徒であると法律で定められており、酒を飲んだり豚肉を食べたりすると宗教警察に逮捕されることがあるため、週末になるとこのようにハメを外すためにクルマで大挙して押し寄せてくるという。タイの南部には中国系のタイ人が多く、この時期には各地で大々的な春節の祭典が催されるため、ここハートヤイやプーゲットは中国系のマレーシア人たちでいっぱいになっている。

市内最高級ホテル Novotel Central Sukhontha Hat Yai (3,000バーツ)に泊まろうと、電話で問い合わせてみたところ、満室のため断られてしまった。つぎに、市内で最高層の Lee Gardens Plaza Hotel (1,300バーツ)へ行って、フロントで直接かけ合ってみたが、ここも団体客で満室になっていた。そこで、すぐ近くにある The Regency Hotel Hatyai へ向かった。

The Regency Hotel Hatyai には空室が1部屋だけあった。客室の扉にあるカードキーが故障しているため、部屋を入退室するたびに1階フロントの客室係を呼んで開けてもらう必要がある。今晩は、それに我慢できなくなった中国人客がチェックアウトをして近所にある別のホテルへ移ったため、今さっき、ちょうど空いたばかりだという話だった。このような事情を考慮して宿泊料を半額の650バーツにまけてもらったが、この時期にそこそこのホテルに泊まれるだけでもありがたかった。しかし、友人は「絶対に何かあるはず」と勘ぐって、普段は絶対に身に付けないプラクルアングラーング(携行護符)を T シャツの襟首にクリップでくくりつけていた。

タイ人が異常なまでに幽霊を恐がることについて、一部の日本人たちのあいだでは、タイ人が精神的に幼く、教養がないため、科学的思考ができないことに問題があると説明されている。しかし、アホな娼婦ならそういったこともあるのかもしれないが、世間一般のタイ人はもう少しまともな理由で幽霊を怖がっている。

タイ人の95%は「タイ仏教」を信仰している。これは、小乗仏教もしくは南方上座部仏教と呼ばれている宗派のひとつで、日本国内で信仰されている「大乗仏教」とはまったく性質が異なる仏教だ。しかも、日本人的な解釈でタイ仏教を「仏教の一派」と考えてしまうと思わぬ誤解や錯覚の原因になる。

タイ仏教は、上座部仏教40%に、土着の精霊信仰60%をかけ合わせたようなもので、日本人にとっては謎の宗教にまで変質している。その原因は、①難解な仏教の教義を分かりやすく説明するために奇跡の話が用いられたこと、②僧侶が寺院の建設費用を調達するために「寄進して功徳を積めば『お守り』の仏パワーであなたの願いが叶います」と宣伝したこと、③王権の正統性を主張するために、国家が仏教、バラモン教、精霊信仰の良いとこ取りをしたことなどがあげられる。したがって、タイの一般市民にとっての仏教とは、単に両親の幸福や恋愛の成就を願ったり、金運 UP の願掛けをするためのツールとされており、教義を正確に理解している人は少ない。仏教徒にとっての究極の目標は、誤った執着心から起こる業の束縛から解放され、迷いの世界の苦悩から脱却することだが、タイの仏教は、皮肉にも際限のない人々のエゴによって支えられているというのが実態だ。

タイ人の子供たちは、仏教寺院と密着している地域社会で成長していく。仏教寺院で催されるお祭りへ行き、仏教寺院の隣にある元々仏教寺院が設立して運営していた公立学校へ通い、一時的に出家して親孝行をする(親の功徳を高める)ことを経て成長していく。また、1970年代の愛国主義政策の名残で、現在でもテレビやラジオなどのマスコミを通じて、国王とセットで仏教の偉大さが宣伝されていることもあって、仏教は価値観のベースとなる精神世界に大きな影響を与えている。

言い換えれば、タイ人は日本人が想像しているような仏教ではなく、いわば宗派横断的な「魔術」を信仰しているため、幽霊や呪いは日本人以上にリアルな存在として受け止められている。同じホラー映画でも、日本映画「呪怨」が流行り、ハリウッド発のものがウケない理由も、そのあたりにある。

20060202-3@2x午後1時45分、大型スーパー Tesco Lotus のスラートターニー店を出発し、午後5時45分にソンクラー県ハートヤイを通過して、マレーシア国境がある「パーダングベーサー」の入国管理局へ向かった。ところが、出国審査係官によると、クルマをマレーシアに乗り入れるためには、国際通行許可証のほかに、マレーシア専用の英語のナンバープレートステッカーが必要で、しかも国境通行許可証(タイ人専用の簡易的な越境許可証)では出入国できないという。パスポートを持ってきていない友人をここに置いていくわけにもいかなかったから、ハートヤイへ引き返して今晩のホテルを探した。きょうの走行距離は349キロだった。

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ABOUTこの記事をかいた人

バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。