あの人は今

「ヨシオさん、あのとき相当に落ち込んでいたもんね。ペーングちゃんと別れたあと、ほかの従業員と付き合ったんだけど、それもどうやら上手くいかなかったみたいで・・・・・・」

午前零時20分、タニヤ通りにある日本人向けのカラオケスナック Alpha で、語学留学時代(2002年)によく顔を出していたときと同じソファーに座り、当時のホステスと思い出話に花を咲かせた。あれから、オーナーが代わり、店の名前も変わったが、内装だけは当時のまま手が加えられていなかった。

運命の何と気まぐれで冷酷なことか。いまから3年前に、この店のカウンター席でつるんでいた6人の日本人のうち、現在でも社会的に生存していると言えるのはわずか3人にすぎない。生存率50%だ。そのうちのひとりは、当時計画段階にあった事業を立ち上げて、この3年間で軌道に乗せることに成功した。もうひとりは、現地採用として勤務していたIT企業から独立して、いまでは小さいながらも自らの事業を切り盛りしている。そして僕は、ヂュラーロンゴーン大学のインテンシブタイプログラム(集中タイ語講座)を修了したあと、アメリカ・ロサンゼルスでの語学留学を経てタイの大学院へ進学し、修了後の来年4月からは日本国内にある民間企業で働くことになっている。

一方、のこりの3人の人生は少し悲惨だ。そのうちのひとりは、日本国内で営んでいたゲームセンター向け機器のリース事業によって得られた収益金を注ぎ込み、バンコクでIT企業やカラオケスナックを経営するなど栄華を極めていたが、この3年のあいだに日本での事業が失敗して借金を背負い、帰国することも叶わなくなった。もうひとりは、雇用主の没落にともない職を失って日本へ帰国した。そして、最後のひとりは、バンコク都内にある住まいで化学実験をしていたところ、誤って有毒ガスを発生させる事故を起こして命を落としてしまった(この事件はタイの新聞でも大々的に報道されたが、現在でも故意によるものか過失によるものか分かっていない)。

このわずか3年のあいだで、人々の立場や境遇がここまで大きく変わってしまおうとは、当時はまったく思ってもみなかった。バンコクで生活をしている日本人のうち何割かは、日々綱渡り的な生活をしているため、このようなことがあったとしても決して不思議ではないが、それでも世の中の理不尽さというものを垣間見たような気がして、少し憂鬱になった。

自分だって、ヂュラーロンゴーン大学のインテンシブタイプログラム(集中タイ語講座)を修了できずに放校処分になっていたり、アメリカ・ロサンゼルスでの語学留学で十分な成果をあげられず、ヂュラーロンゴーン大学大学院東南アジア研究科の入学基準を満たせなかったり、入学後に成績不良で除籍処分になったりしていたら、今頃どうなっていたことだろうか。相変わらずお気楽なのは、3年前と同じソファーに座ってタバコをふかしている年老いた娼婦だけだ。ミッションをクリアすることなく、自分の人生を自由気ままに謳歌しているその姿を見ていると、それこそ妬ましくも思えてくる。

きょうは、昼すぎに友人とグルングテープ・ノンタブリー通りにある自動車整備工場へ行って、1週間ほど前から修理に出していたクルマを引き取った。自動車整備工によると、バンコクでは中古のエアフローメーターが品薄になっており、6,000バーツの割安なものが売り切れていたため、やむなく11,000バーツのものを取り付けたという。これまで型番違いのエアフローメーターを無理矢理使っていたせいで動力系の伝達効率が悪くなっていたが、交換後は新車のように快適になった。

夜、スクンウィット11街路にある日本料理店「勝一」で別の友人と夕食をとってから、スラウォング通りのドゥワンタウィープラザにある Go Go Boys の The Boy という店へ行って、日本人男性2人と日本人女性5人のグループに合流した。この店は、ドゥワンタウィープラザの入口にあるカウンターバーで働いている店員によるイチオシだった。オトコであれば誰でも似たようなことを考えるそうだが、 Go Go Boys へ行くと自分の男性機能に対する自信が完膚なきまで叩きのめされる。その後、「映画のセットのように拡張手術をして大きくしているだけだから気にしない方が良いわよ」と友人から慰めてもらい、密かに胸をなで下ろした。直径6センチ、全長24センチもあるあのペニスはあまりにもデカすぎた。

タニヤプラザの地下に駐めていたクルマまで戻るためにタニヤ通りを歩いていたところ、2002年当時この通りにあった「ゆかり」という店で働いていたホステスと3年ぶりに再会し、閉店後の日本人向けカラオケスナック Alpha へ入って、カウンター席で話し込んだ。その後、ウォングサワーング通りへ行って別の友人と会った。

(本文中に登場するの固有名詞はすべて仮名です。)