「品のない安っぽい香水のにおいをまき散らしているカラオケのホステスを連れた男性・・・・・・(後略)」
夜、スクンウィット27にある日本料理店で友人と酒を飲んでいたところ、店にあったバンコク発行のミニコミ誌に、某料理店経営者の苦言として冒頭にある文言が掲載されていた。
旅行オタク
日本国内におけるオタク分析のパイオニア「野村総合研究所」(NRI)の調査報告書「マニア消費者市場」(10月6日発表)によると、オタクとは強くこだわりを持っている分野に趣味や余暇として使える金銭または時間のほとんどすべてを費やし、かつ、特有の心理特性を有する生活者のことで、日本国内に172万人(推定市場規模4,110億円)おり、うち25万人(全体の約15%, 推定市場規模810億円)が「旅行オタク」に分類されるという。
ひとことで「タイが好き」といっても、いくつかのタイプに分かれている。僕はタイ人とタイ語でコミュニケーションをとることで新しい価値観に触れるのが好きなタイプだが、なかには割安な古式マッサージやホテルの高級ビュッフェへ足繁く通うのが好きな人もいる。
そして、娼婦が好きなことを「タイが好き」と言い換えている日本人も少なくない。
タイ娼婦オタク文化と虚構空間
日本における引き籠もり研究の第一人者で精神科医の斎藤環博士は、著書「戦闘美少女の精神分析」(2000年)のなかで、おたくの本質的特徴のひとつは、虚構コンテクストへの高度な親和性(妄想の世界にハマりやすいこと)であり(p.49)、おたく文化には、ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間に鏡像的に反転する(妄想を表現する)特性があるという(p.272)。国際大学グローバルコミュニケーションセンターの東浩紀教授は、おたく文化について、象徴界の欠如をイメージの操作によって何とか補おうとしたもの(現実世界で得られないものを無理矢理補うために作られたもの)と説明している。※ 表現が難しすぎるため、括弧内に註釈を加えた。
このような傾向は、娼婦が好きなことを「タイが好き」と言い換えている一部の日本人にもみられる。しかも、年単位の長期間にわたって、ずっと虚構空間(妄想の世界)のなかに引きこもり続けている日本人も少なくない。彼らのあいだに見られる現象を、オタク分析の文脈にのっとって再定義すると、つぎのようになる。
【象徴界の欠如】 まともな女性に相手にしてもらえないこと。
【ヒステリー化】 女性への魅了という不可視的な本質(リアリティー)を、娼婦という「可視的な表層」(セクシュアリティー)によって代替すること。バンコク人が女性としてみなしていない娼婦に女性相当の価値を与えること、またそうすることで自らが理想としている虚構空間(妄想の世界)を建設すること。
【視覚的に媒介された空間に鏡像的に反転したもの】 言語的コミュニケーションがとれないこと(日本人のタイ語力とタイ人の日本語力の欠如)を利用して、トラウマのない(=自分を無視したり否定しない)女性に仕立て上げた娼婦、またそのような娼婦たちに囲まれて生活できる虚構空間(妄想の世界)。
【娼婦オタク】 女性相当の価値を与えた娼婦の「所有者」として振る舞い、娼婦を取り巻く環境にさまざまな幻想を抱いて自らが作り上げた虚構空間(妄想の世界)に浸っている人々のこと。実態から著しく乖離している独自の娼婦のバックグラウンドや社会的な位置づけを創造し、実態を無視して特定の娼婦について熱心に語り合う人々のこと(症状が重くなると、彼らは自分と無関係なタイ人女性の写真をあたかも自分の所有物であるかのように無許可で自分のウェブサイトにベタベタと貼りはじめる)。
娼婦オタクにとって、彼女たちの本質としてみなしうるものは、単純にその虚構性のみであり、それゆえに形態的な多様性が可能になる(娼婦を理想の女性と思い込むことができる)。また、彼女たちがたまたま娼婦であっても、現実の社会属性(娼婦であること)とは無関係なものとしてみなしている(タイ人が女性とみなしていない女性でも、女性相当の価値を与えることができる)。
つまり、娼婦が好きなことを「タイが好き」と言い換えている一部の日本人は、突き詰めて考えてみれば、セクシュアリティーを利用して現実を確認しながら(性的欲求を満たすことで現実と思い込みながら)、現実以上にリアルな「虚構としての現実界(現実と思い込んでいる妄想の世界)」のなかで生活しているにすぎない。
「現実」にリアリティーが感じられないのはポストモダンの象徴だが、このような特定の日本人たちあいだで、虚構と現実とのあいだにある穴を埋めるために特異に発達した文化が、タイ人娼婦を大多数のタイ人女性と同一のものとみなし、それを標準化しようとする日本人独自の「タイ娼婦オタク文化」である(コイツら、マジでタイ人に失礼だ。土下座して謝れ)。
タイ娼婦オタクが発信している情報
前出の学者は、「ところが、逆説的なことに、そこに浮かびあがっているのは、新人類とオタクとの等価性である。現実を<物語>として生きる「対人関係記号派」を新人類とすると、現実ではなく<物語>に生きる「対人関係退却派」がオタクという対照性は、たしかに見出される。しかし、この両者は、<物語>=フィクション形成の母体として、<物語>が流通する場としての「メディア」と、<物語>の分化を許容する場としての「高度消費社会」を、ともに不可欠としている」(p.188)と述べている。
タイ娼婦オタクは、価値観の多様性を口実に、ウェブサイトや書籍などのメディアで<物語>(フィクション)を作り上げている。とうぜんフィクション情報には、現実世界から乖離している情報が氾濫している。そのような傾向がタイ関係の書籍やウェブサイトに多く見られるのは、なぜだろうか?
タイ娼婦オタクは、べつに「タイが好き」なわけではない。自分次第でいくらでも都合良く解釈できる、言葉の通じない娼婦(ビジネスで恋愛してくれる相手)との、虚構空間(妄想の世界)を愛しているにすぎない。だから、言語的なコミュニケーションが可能で、しかも現実の恋愛を要求してくる世間一般のタイ人女性たちの存在は、タイ娼婦オタクにとって、自分が引き籠もっている「虚構空間(妄想の世界)としてのタイランド」を崩壊させかねない脅威であり、なにがなんでも無視または否定しなければならない(彼らにとって、世間一般のタイ人にスポットを当て、娼婦の現実にメスを入れている「バンコク留学生日記」ほどイヤなウェブサイトはほかにないだろう)。
オタクとは、世間一般から好奇な存在として認識されている。価値観が常軌を逸しているため、常に忌避され嫌悪されている。1995年(アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」)以降、オタクと新人類の境界はあいまいになったが、それでも「カネで買った娼婦」を「恋人としての女性」と同一視しているタイ娼婦オタク独自の価値基準は、セル画に描かれた戦闘美少女に本気で恋しているオタクの価値観と同じくらい受け入れがたい。
ところが、オタクには自分の価値基準が世間一般には受け入れられないという自覚がない(仮に自覚していても著しく逸脱しているとは認識していない)。当然、オタクに向かって「おまえはオタクだ。現実を直視せよ! Open your eyes!! 」などとがなり立てたところであまり効果はない。
これからタイに関する情報を収集しようと考えている方には、タイ娼婦オタクが発信している情報が、常に虚構空間(妄想の世界)のうえに成り立っていることを知り、どんなに血迷っても絶対に真に受けないよう、自己防衛を心がけるようオススメしたい(かくいう僕自身も留学初期においてタイ娼婦オタク独自の情報にはかなり翻弄された)。
僕たちは現実の世界に生きている。しかし、もし自己防衛の努力を怠り、タイ娼婦オタクたちが作り上げた虚構空間(妄想の世界)へと吸い込まれてしまったら、もう二度と現実界へ戻ってくることができなくなる。標準的な日本人としての生涯賃金、社会保険、年金等を放棄してしまったらもうサイアクだ。
バンコクにある日本料理屋の扉を開けたときに、店内が等身大戦闘美少女のフィギュアと向かい合って夕食をとっている客で溢れかえっていたら、どう思うだろうか? 普通の感覚を持っていれば、奇異なものとして激しい嫌悪感を抱くはず。それと同じで、娼婦と一緒に夕食をとりに来ている日本人が周囲にどのように映っているか想像するのは難しくない。娼婦は、等身大戦闘美少女フィギュア同様に、きわめて不自然な存在であり場の雰囲気を悪くする。店がそんな客だらけになったら、まともな客からも見放されてしまう。そりゃあ、店主が愚痴を言いたくなるのもムリはない。
スィーロム通りにある珈琲屋でタームペーパーを夕方まで書き、スクンウィット通りにある日本料理屋で友人と夕食をとった。
バンコク在住日本人にとっての最大の悩みのタネとは、すなわち「虚構空間のなかで生きているトライブ(部族)」との共存問題なのかもしれない。