タイ人の国王に対する忠誠

「タイ人のあいだではあまり話題されることがないから、ほかの人がどう思っているのか知らないけれど、わたしは国王陛下を尊敬しているわよ。王室によるさまざまなプロジェクトはわたしたちタイ人に夢や希望を与えてくださっているし、ラッタナゴースィン朝の歴代の国王たちもそれなりに功績をあげているから、現在の君主制に対して不満はないわ。でも、それは制度に対する盲目的な信仰とかではなくて、あくまでも功績がある個人に対する尊敬といった意味合いでの話よ」

夕方、ノンタブリー県バーングラングにある粥屋「カーオトムウワンポーム」へ、夕食をとるために友人とクルマで向かっている途中、プーミポンアドゥンヤデート国王の居城であるヂットラダー宮殿の脇に差し掛かったところで、君主に対する忠誠の話題になった。

きょうはタイの国母生誕日。バンコクの都内にあるビルというビルにはスィリギット王妃の巨大な肖像画が設置され、橋にはタイの国旗とともに水色の王妃旗が掲げられている。国母たる王妃の誕生日は、タイでは国家的な「母の日」という位置づけにあって、地方出身のタイ人たちは自分の母親に会うために、この3連休を利用して帰省しているという。一方、自家用車を所有しており、帰省する必要もないバンコクの中間層たちは、パッタヤー、フワヒン、チャアムなど、近郊のビーチリゾートへ遊びに出かけている。そのため、いつもは渋滞しているバンコクの幹線道路は驚くほど空いていた。

友人は、プーミポンアドゥンヤデート国王の主な功績として、生活苦を訴えている気の毒な人々に支援金を下賜された美談のほか、プルッサパータミン事件のときに政治に介入して事態を収拾したことなどをあげていた。

プルッサパータミン事件(5月の流血事件)とは、タイの軍事政権「国家治安維持評議会」とバンコクの都民とのあいだに生じた一連に政治的な対立と、1992年5月17日から20日にかけての流血事件のことを指している。

事件の発端は1991年5月13日、当時の国軍最高司令官だったスントーン・コングソンポング陸軍大将率いる国家治安維持評議会が、政府の腐敗と軍隊の弱体化を阻止することを口実に実行したクーデターだった。チャートチャーイ・チュンハワン陸軍大将は首相の地位を追われ、新憲法の下、アナン・パンヤーラチュン陸軍大将が首相に任命された(新憲法は国家治安維持評議会が任命した20名からなる憲法改正評議会が作成し、国会議員ではなくても首相になれる条項が加えられていた)。

新憲法施行後の1992年3月22日に実施された総選挙で、国家治安維持評議会の流れを汲む正義団結党が79議席を獲得して第一党になった。ところが、アメリカ国務省のスポークスマンだったマーガレット・テットワイラーは、正義団結党によって新たに首相に指名されたナロング・ウォングワン陸軍大将について、麻薬犯罪に関与していることを理由にビザの発給を拒否すると発表したため、タイはふたたび首相を選び直すことを迫られることになった。

このような経緯で首相に就任した陸軍司令官のスヂンダー・クラープラユーン陸軍大将はクーデターを実行する前に、空軍総司令官のガセート・ロートヂョンニット空軍大将とのあいだで「いかなる政治的な役職にも就かない」という約束を交わしていたことが知られていたため、当初の約束をたがえ、タイにおける議会制民主主義と議院内閣制の精神を貶めたとして、バンコクの都民たちのあいだで激しい抗議行動が沸き起こった。そして5月4日、バンコク都の元知事で正義力党の党首を務めているヂャムローング・スィームアング陸軍少佐と元下院議員のチャラート・ワラチャット陸軍少尉のふたりがハンガーストライキを始めたことによって、このプルッサパータミン事件の幕が上がることになった。

サナームルワング(王宮前広場)で5月17日、スヂンダー・クラープラユーン陸軍大将の首相就任に反対する市民集会が20万人規模でおこなわれた。翌18日午前4時頃、ラーチャダムヌーンナイ通りでバンコクの都民およそ4万人からなるデモ隊が、周辺に警備にあたっていた軍の治安維持部隊と衝突。軍が民衆に銃口を向けて M16 自動小銃を掃射したことによって、多数の死者・行方不明者が発生した(M16 は直径5mmの銃弾を1分間に900発も発射することができる)。同日午後、政府は非常事態を宣言して、デモ隊の指導者だったヂャムローング・スィームアング陸軍少佐のほか数人を逮捕・拘束した。19日、逮捕を免れたデモ隊約5,000人が活動の拠点をサナームルワングからラームカムヘーング大学へ移した。20日、それまでテレビ局は軍による報道管制のもと事実とは異なる虚偽の報道を続けていたが、突如、プーミポンアドゥンヤデート国王の前で跪いているスヂンダー・クラープラユーン陸軍大将とヂャムローング・スィームアング陸軍少佐の映像がテレビの画面に映し出された。そのなかで国王が、「双方の代表であるふたりが直接話し合い、協力し合って問題の解決にあたるように」と述べられたことで、ようやく事態は決着した。スヂンダー・クラープラユーン陸軍大将は24日、首相の職を辞して、テレコムホールディング社(旧Telecom Asia = Trueの親会社)の代表取締役に就任した。

一説によると、このタイミングで国王による政治介入がなかった場合、陸軍内部における対立によって、タイの各地で内乱が発生したほか、ラームカムヘーング大学に集結していたデモ隊約10万人が虐殺されていた可能性もあったという。

プルッサパータミン事件における人的な被害について、タイ政府による公式の記録では死者52人・負傷者660人とされているが、タイ人たちのあいだでは「見当もつかないほどたくさんの市民たちが虐殺され、その遺体は陸軍によって地方の山中に遺棄された」とウワサされている。犠牲者の数では「1976年の10月虐殺」を上回るとする説もある。

午後、ペッブリー通りにある電脳街「パンティッププラザ」へ行って、修理に出していたノートパソコンを受け取り、ンガームウォングワーン通りの粥屋「カーオトムウワンポーム」で夕食をとってから、スクンウィット33/1街路にある日系スーパー「富士スーパー」へ行って酒を買った。

これまでタイ人は盲目的に国王を崇拝していると考えてきたが、意外にもそれなりの根拠があることが分かった。国王の偉業の大きさに感銘を受けるとともに、当時虐殺された市民の正確な人数すら検証できないという、タイにおける基本的人権の脆さを知って、改めて驚かされた。

もし仮に次回のクーデターがあるとすれば、どのような決着が図られるのだろうか。

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  • けいいちさん
    お久しぶりです。前回タイに行った折はカオパンサーの連休中、かつ時間があまりなかったので、連絡しませんでした。

    さて、私がタイに赴任した時は1993年3月で事件から約1年後でした。駐在日本人の中でも時々当時はこうやって逃げた(この人の事務所はランカムヘン大学近くにあった)、フジスーパーの在庫が一掃された。タイ人から、すごい機関銃の掃射の音が王宮の方から聞こえてきた(民主記念塔で機関銃掃射があったのでは?)。実は自分も王宮あたりに行っており、行方不明の捜索願が出された(彼は行方不明証明書みたいなものを記念に取っていました)。など、生々しい話が聞けたものです。

    あの騒動は結果現国王にしか収め得られなかったところに近い将来のタイの不安要素があるように思えます。

    最近始めたシンガポールのブログにタイのことも多少書いていますが、間違いがあればご指摘ください。

    次回タイに行く時に連絡します。飲みに行きましょう!

  • けいいちさん
    お久しぶりです。前回タイに行った折はカオパンサーの連休中、かつ時間があまりなかったので、連絡しませんでした。

    さて、私がタイに赴任した時は1993年3月で事件から約1年後でした。駐在日本人の中でも時々当時はこうやって逃げた(この人の事務所はランカムヘン大学近くにあった)、フジスーパーの在庫が一掃された。タイ人から、すごい機関銃の掃射の音が王宮の方から聞こえてきた(民主記念塔で機関銃掃射があったのでは?)。実は自分も王宮あたりに行っており、行方不明の捜索願が出された(彼は行方不明証明書みたいなものを記念に取っていました)。など、生々しい話が聞けたものです。

    あの騒動は結果現国王にしか収め得られなかったところに近い将来のタイの不安要素があるように思えます。

    最近始めたシンガポールのブログにタイのことも多少書いていますが、間違いがあればご指摘ください。

    次回タイに行く時に連絡します。飲みに行きましょう!

  • さとかずさん、こんにちは。

    当時の事件を覚えている友人に話を聞いてみると、面白い話がいろいろと聞けますよね。そのときの王の政治介入は「ラーマ7世以降失った王室の威光を取り戻した」ともいわれていると、なにかで読んだのを思い出します。来月は試験前で外出できないかもしれませんが、直前になりましたらご連絡ください。

  • さとかずさん、こんにちは。

    当時の事件を覚えている友人に話を聞いてみると、面白い話がいろいろと聞けますよね。そのときの王の政治介入は「ラーマ7世以降失った王室の威光を取り戻した」ともいわれていると、なにかで読んだのを思い出します。来月は試験前で外出できないかもしれませんが、直前になりましたらご連絡ください。

ABOUTこの記事をかいた人

バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。