戦後の「特別円問題」

「昨晩、アメリカ大使館で行われたレセプションで日本の外交官と話をしていたときに、タイに対する日本の賠償責任に関する話題になったんだが、どうも腑に落ちないことがあるんだ。タイが賠償金協定を日本と結んだのは、わたしの父が首相を務めていたときのことだったと思うが・・・・・・当時の日本の首相は誰だっただろうか? 分かり次第、わたしの携帯まで連絡してほしい」

スクンウィット101街路にある運輸省バンコク第3運輸局の駐車場にクルマを駐めると、先日友人から紹介されたばかりの陸軍大将から電話があった。ところが、タイの内政や外交史についてはまったくの専門外だから即答できないし、そもそも「閣下」と呼ばなければならない相手に対して適切な立ち居振る舞いができる自信もない。とりあえず30分後の回答を約束して電話を切ったが、こんな場所にいては必要な情報にアクセスできない。そこで、クラスメイトに電話をかけて情報の収集を依頼した。

依頼人の父であるサリット・タナラットは、戦前から戦後にかけて頻発したクーデターに参加するたびにタイの軍部における立場を強化していき、1957年に自らが主導したクーデターでは陸軍元帥のピブン・ソンクラーム首相を失脚させて、ポット・サーラスィン(文官)、タノーム・ギッティッカヂョーン陸軍中将らを首相に据えた。翌年、ふたたびクーデターを起こして自ら首相に就任すると、立憲革命(1932年)以来続いてきたタイの議会政治に終止符を打ち、20条からなる暫定憲法を定めて強権的な支配体制を確立した。その強大な権限を背景に、政府と国王のあいだにあった長年の確執を解消させ、「パッタナー」(発展という意味のタイ語)をスローガンに掲げてタイの社会インフラを整備し、外資を誘致するなどの手法でタイの経済の発展に寄与した。

ちなみに、懸案だった「タイに対する日本の賠償責任」については、依頼人の陸軍大将が考えているようなものではなく、太平洋戦争中に旧日本軍が泰緬鉄道を敷設するためにタイで調達した物資の代金のことだった。当初15億円だった旧日本軍によるタイに対する負債は、戦後の物価上昇の影響を受けて、1952年の時点で1350億円までふくれあがっていた(年利4%で計算したときのタイ側の主張)。1955年に日本の池田首相とタイのサリット首相が東京で首脳会談を開いて、返済金額を総額150億円とすることで決着した(うち54億円はポンド払い、残りの96億円は分割払い)。さらに、1962年の合意でそれまで分割払いとなっていた96億円を無償供与扱いとすることになった。

クラスメイトによる説明を電話越しに聞きながら、運輸局で5年間有効の運転免許証を申請しようとしたところ、パスポートの査証欄に押されている入国スタンプになぜか「入国資格の種別」の記載がなかったため受理してもらえなかった。後日、スワンプルー通りにある入国管理局まで行って訂正してもらわなければならなくなった。自動車税の納付も、車検証明がなかったため受理されなかった。

ふたたび無駄足になったことにすっかり脱力してしまい、帰りに自動車検査場に寄るのもやめて、大型スーパー Tesco Lotus で買い物をしたあと、アソークモントリー通り(スクンウィット21街路)にある国際交流基金の附属図書館へ行って友人と「特別円問題」について調べた。

日没頃、高架電車のプローンポング駅前にある日本料理店「本匠」で別の友人と夕食をとり、さらに別の友人たちが酒を飲んでいるモロッコ料理屋へ行った。

(2015年9月20日追記:タイ関連のアンダーグラウンドサイトとして当時有名だった「外道の細道」の作者である外道紘さん(1965-2012)をタイ大手銀行の日本人従業員から紹介されて、このときのモロッコ料理屋で一緒にトルコ式の紅茶を飲んだ。ほかにも有名どころのタイ風俗サイトの作者たちが居並んでいたが、ほかのメンツについては記憶にない)