窃盗事件被疑者体験記 後編

あさ、寝室のドアが開く音に気づいて目を開けてみると、昨晩、玄関前の冷たい床の上で夜を明かした友人が立っていた。

「あのさぁ、わたしの腕時計、どこへやったの? 母がひどく腹を立てていて、あなたを警察に突き出すと言って聞かないんだけど」

あれだけグデングデンに酔っ払っていたら、どこかでなくしてきたとしてもおかしくはない。いずれにしても僕の与り知らぬこと。いちいち相手にしているのもバカバカしいと思い、適当に返事をして寝返りをうった。

「母があなたと話したいって言ってるんだけど、ちょっと話してもらえないかしら?」

ふたたび友人に起こされて携帯電話を受け取ると、友人の母親から怒涛のような質問を浴びせかけられた。しかし、僕が知っていることといえば、①昨晩、ラッチャダーピセーク4街路にあるパブ街で友人が酒を飲んでひどく泥酔していたこと、②マハーナコーン工科大の男子学生がスクンウィット17街路まで友人のクルマを運転してきたこと、③身動きが取れなくなっていた友人を警備員と一緒に駐車場から僕の部屋まで担いできたことぐらいのもので、それ以外の事情については何も知らない。友人が誰と酒を飲んでいたのかも、どうしてマハーナコーン工科大の男子学生が友人のクルマをスクンウィット17街路まで運転してくることになったのかも分からない。当然、友人の腕時計がなくなった経緯なんて聞かれたところで説明できるはずがない。

それでも辛抱強く「その件については無関係ですので何も知りません」と丁寧に答えていった。ところが、話していても一向に埒が明かないことに腹を立てたのか、母親の態度は次第に横柄になっていった。最後には「これから警察に通報して、警察官と一緒にあなたの部屋に踏み込む」とまで言い放った。

このままでは腕時計の窃盗犯として警察へ連行されて尋問を受ける羽目にもなりかねない。最悪の場合、令状なしで家宅捜索を受ける可能性だってある。それではあまりにも屈辱的だし、世間体も悪くてかなわない。

ここで相手のペースに乗せられてしまったら、知らず知らずのうちにじり貧の状態に追い込まれるのは目に見えていた。それならこちらも先手必勝。自分が疑われる立場にあろうとも、事態の主導権だけは是が非でも握っておきたい。

そう考えて、緊急通報ダイアルの 191 に電話をかけ、「このままだと腕時計の窃盗犯にされかねないから、僕がまだ部屋から一歩も出ていないうちに来て、盗んでいないことを確認してほしい」と言って、警察官を派遣するように要請した。

10分後、スクンウィット13街路にある住まい Sukhumvit Suite 17階199号室の玄関口に、コンドミニアムの警備員に付き添われたふたり組の巡査が到着した。ふたりは、被害者ではなく被疑者である僕のほうが警察を呼んだことを知って唖然とし、友人による熱心な主張と、僕による退屈きわまる状況説明を聞かされることになった。

寝室のドアの前で、巡査が手招きをして僕を寝室に入れると、小声でこう告げてきた。

「この仕事を長く続けているから分かるんだが、あの女は絶対にウソをついている。われわれが考えている以上に頭がオカシイ女はたくさんいる。今回のようなケースだってそれほど珍しいことではない。もし仮に君が腕時計を盗んでいたとしても証拠不十分ですぐに釈放となるだろう。突然のことで驚いていると思うが、警察署へ行ったところで君の立場が悪くなるようなことはないから安心してくれ」

その後、14階にある警備室へ行った友人は「わたしは警備員派遣会社のマネージャーだ」とウソをついて、コンドミニアムに設置されている11ヶ所の防犯カメラすべての映像を半ば強制的に再生させたという。部屋に戻ってきた友人は、ふたりの巡査にこう語った。

「防犯カメラの映像には、わたしの右腕についている腕時計がハッキリと鮮明に映っていました。したがって、腕時計がなくなったのは、ここに来てからのことです。そして盗んだのは彼に間違いありません」

巡査は友人にこう尋ねた。

「このままだと、君は二通りしかない道のどちらかひとつを歩くことになる。一度歩き始めたら、どちらの道へ行くか君には選べない。ひとつは窃盗の容疑で彼を警察に突き出して逮捕させる道。もうひとつは誣告罪の容疑で君自身が警察に逮捕される道だ。 それでも君は、本当に彼を警察に訴えるつもりなのかね?」

ぶこくざい 【誣告罪】
他人を陥れるために虚偽の被害届を提出することで成立する罪。

友人は自信たっぷりにうなずいた。たしかに、防犯カメラに友人の腕時計が映っていれば、友人は14階にある警備室の前を通過してから目が覚めるまでのあいだに腕時計を紛失したことになる。

そのとき、友人の母親が Sukhumvit Suite に到着した。友人の母親はヨレヨレの T シャツを着ており、14階にある警備室の前で分厚い名刺入れを忙しそうにめくりながら、次から次へと友人たちに電話をかけては娘の主張を伝えていった。おそらくタイ名物の「コネ合戦」でも始めるつもりなんだろう。

ところが、ふたり組の巡査と守衛室へ行って防犯カメラの映像をあらためてみると、確認できたのは友人を抱えている警備員と大きな荷物を抱えている僕の姿だけで、とてもではないが小さな腕時計の有無を判別できるようなものではなかった。

その後、全員で駐車場に駐めてある友人のクルマを検分してから、この地域を所管しているルンピニー警察署へ向かった。僕は巡査が乗ってきたバイクの後部にまたがったが、友人は「気が動転していて運転できない」と言って自分のクルマをもうひとりの巡査に運転させていた。警察署に着くまでに、おそらく母娘でタッグを組んでこの巡査を抱き込むつもりなんだろう。

ルンピニー警察署で行われた取り調べでも、双方の主張は平行線のままだった。自室で巡査に伝えた内容をそっくりそのまま警察の士官に話したところ、別室へ呼び出された。

「この仕事を20年以上続けているから分かるんだが、あの親子は君から金を取ろうと企てているんだよ。もちろん、わたしが話したということは内緒にしておいてくれよ」

―― 大丈夫です。彼女と口をきく機会なんて、もう二度とないでしょうから。

一方で友人は巡査にこう諭されていた。

「いいか、少しは頭を使って考えてみろ。彼のような『良い社会階級』にあるような人間が、そんなに安い(事情聴取のなかで購入価格2,000バーツということになっていた)腕時計を盗んだところでいったい何の得になるんだ? 君は他人を疑う前に、自分が泥酔していた時に何があったのか、今一度よく思い返してみるべきだ」

巡査は、実際に僕の部屋まで来て状況を確認していたので、僕の生活水準について判断をするための材料も十分に整っていた。しかし、この母娘については、友人が着ている露出度の高いクラブ行きの服と、その母親が着ているヨレヨレの T シャツから推測するしかない。もし警察署でも「強者はいつも強者」というタイ独特の論理が通用するのなら、たとえ友人がどんなに自分の社会的地位について声高に何かを主張したところで、あるいは、たとえ母親が分厚い名刺入れを手に持って強いコネがあると主張したところでまったく意味をなさない。タイでは、人は見かけだけで判断される。さらに、この母親は僕の帰り際に「顔がいいだけしか取り柄のない利口な犬め」と暴言を吐いた。そんなことを言ったところで、自分の品性の低劣さを警察官に印象付けるだけで、けっして有利には働かないだろう。

結局、友人の被害届は警察士官の裁量によって却下され、代わりに紛失届を提出することになった。

「君の名前は、事件の容疑者として記録に残ることはない。しかし、腕時計を紛失した可能性がある場所として、紛失届に君の住所と部屋番号が記載されることになる。それでも構わないのなら、もう大学へ行っていいよ。なにも心配することはない」

日本でもタイでも、軽微な争いごとであれば、警察官は当事者を諭して丸く収めようとするものだ。今回の事件について、警察の士官からつぎのようなアドバイスをいただいた。

「それほど親しくもない女性を部屋に入れるときには細心の注意を払ったほうがいいよ。君の部屋には金目のものがゴロゴロと転がっているんだから、この機会に監視カメラでも付けてみたらどうだい?」

―― いやあ、自分のものが盗まれるのは覚悟していたんですが、まさか自分が自分の部屋で他人のものを盗んだと訴えられるとは思ってもみませんでしたよ。

この取り調べの最中に携帯電話で僕の話し相手になってくれていた、外資系の企業で貿易事務の仕事をしている友人の話。

「ま、考えようによってはラッキーだったのかもしれないわよ。今回はたかだか腕時計泥棒の冤罪で済んだけど、これが強姦の冤罪とかだったら本当に厄介だから」

ルンピニー警察署は今回の事件について、母娘が共謀して裕福な日本人留学生から金をせびり取ろうとした狂言と結論付けた。しかし僕はこう考えている。なくしてしまった腕時計は本当に大切なもので、世界が自分を中心に回っていると信じている友人としては、なんとか自分が納得できるかたちで決着をつけたかった。一方で母親は、娘に新しい腕時計を買い与える資金を捻出するため躍起になった。

きょうは、朝から自室に警察を呼んでからルンピニー警察署へ行って任意の事情聴取を受け、2時間遅刻して大学の講義に出席し、高架電車プローンポング駅の前にある日本料理店「本庄」で夕食をとった。