タイの貧困家庭の家屋

「本物の Unseen Thailand(いまだ見ぬタイランド)というものを、あたなは見たことがあるかしら? 到着するころには、きっと眠気と疲れでクタクタになってるでしょうから、わたしの実家に泊まっていくといいわ。あなたがその環境で眠れるかどうかについては、到着してからゆっくりと考えることにしましょう」

午前2時までトーングロー21街路にある微妙にハイソなパブ「ソーングサルング」で酒を飲んでから、ペッブリー32街路にあるカーオマンガイ屋「カーオマンガイトーンプラトゥーナーム」に寄って夜食をとり、帰宅後に寝室のベッドで横になりながらプラヂョームグラーオ工科大学の北プラナコーン校に通っている友人と長電話をしていたところ、「いまだ見ぬ」友人の実家までドライブしようという話になった。

そのまま一睡もせず、スクンウィット13街路にある住まい、コンドミニアム Sukhumvit Suite の駐車場を午前4時半に出発した。バンコク北部にあるヂェーングワッタナー通りまで友人を迎えに行き、そのままその友人の実家があるナコーンパトム県ガンペーングセーン郡へクルマを走らせた。

県都ナコーンパトムからガンペーングセーン郡へ伸びるタイ国道346号線は、交通量が少ない長閑な田舎道だった。日の出とともに、左右に広がる水田がうっすらと浮かび上がってきた。友人によると、この水田では数年前から輸出用のエビが養殖されているという。

午前7時に周囲を水田に囲まれている集落の入口に到着した。この友人の実家は、そこから伸びるクネクネと曲がりくねった細いコンクリート舗装路の一番奥にあった。

友人の実家は想像以上に貧しかった。土台となる基礎部分がなく、コンクリートブロックで囲った壁の上にトタン屋根を覆い被せただけの、幅5メートル、奥行き3メートルの簡易的な住居だった。玄関扉は強い風が吹けばすぐに吹き飛んでしまいそうな薄っぺらいベニヤ板で作られており、窓のない室内へ目をやると地面の赤土が露出しているリビングが広がっていた。カラーテレビ以外の家電はないようだった。

便所は玄関前の離れにあって、亜鉛めっき鋼板で作られた扉が風に揺られていた。これまで見たこともない超貧しい建屋の構造が気になって、草が生い茂っている家の裏手へ回ってみると、なんと外壁が外側に大きく傾斜していて、そこに立てかけてある3本の細くて頼りなさそうな丸太が辛うじて支えているような状態だった。これほど酷いコンクリート建造物は、公立学校の体育倉庫や公園の公衆便所を含めても、日本で一度も見たことがない。仮にあってもそこに人間が出入りするなんて絶対に考えられない。

単純労働者に人気の栄養ドリンク M150 が散乱している玄関先には、状態の悪いソファーが2脚と美容室にあるような洗髪用のベッドが置かれていて、少し離れたところには水瓶もあった。この集落には整備された上水道がないそうで、井戸水も飲用には適していないため、もっぱら水瓶にたまった雨水を飲んで生活しているという。

電話線は集落の入口までしか敷設されていない。電力線は敷設されているが、隣り合っている3つの家で電力メーターを共有している。しかも友人の実家には今月の電気代の1,800バーツを支払う能力がないため、来月には電力メーターを共有しているほかの家から電力の供給が止められてしまうという。もちろんこの家には洗濯機を買うための金もない。

この家庭について友人に詳しく尋ねてみたところ、祖父の代にラオスから移民してきて、これまで自作農として生計を立ててきたが、数年前に両親が田畑を手放してしまったため、現在では子供たちからの仕送りに頼って生活しているという。

友人が3時間前に電話口で話していたとおり、僕にとってこの家はまさに 『いまだ見ぬタイランド』だった。このような家は以前、タビアンバーンと呼ばれる住民登録証に記載されていた住所をもとに、バイト先の同僚が交際している Go Go Bar の元娼婦の実家があるスリン県へ友人とこっそり見物に行ったときにも見かけたが、まさか自分がそこに立ち入ることになろうとは思ってもみなかった。

こうして、僕たちは友人の実家をあとにして、正午前に県都ナコーンパトムにあるホテル「ナコーンイン」(650バーツ)にチェックインした。

きょうタイは「入安居」の振替休日で、すべての講座が休講になった。

ABOUT US

ケイイチ
バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。