2004年8月1日(日)

都知事選を今月の29日に控え、バンコク各地では激しい選挙戦が繰り広げられている。

タイの選挙は、日本とは異なり、選挙カーが街中をくまなく回って候補者の名前を連呼することもなければ、候補者が駅前に立って演説することもないし、選挙管理委員会が街頭にポスターを貼るための掲示板を設けることもない。その代わり、候補者たちは人通りの多いショッピングセンターを回って直筆のサイン入りカードを配ったり、大通り沿いに写真入りの巨大な看板を立てるなどして、自らの存在をさかんにアピールしている。大学の周辺では、つぎの4候補の選挙ポスターをよく見かける。

1 アピラック・ゴーサヨーティン氏(民主党)
  • 「暮らしやすいバンコクを作ります」

3 チャルーム・ユーバムルング警察大尉(無所属)

  • 「7つの計画、4つの改革、3つの大綱、6つの急務」

5 マーナ・マハースウィラチャイ博士(元下院運輸委員長)

  • 「交通問題やゴミ分別と再利用、下水道、治水、風紀、食品衛生等のシステムを改善します」

7 パウィナー・ホングサグン女史 (下院議員・国家発展党幹事長)

  • 「乗り換えても支払い1回の交通システムの整備、郊外駐車施設の整備、陸橋の整備、治水整備、公共輸送網の拡充、地域発展交付金制度、ゴミの再利用、廃水処理、月々の主要道路の清掃、植林による空気清浄、クリニックの24時間営業、スポーツ振興、教育振興、野良犬の管理など」

今回の都知事選には、一昨年マスコミを賑わしたことで一躍有名人になったソープ王、チューウィット・ガモンウィスィット氏も出馬している。

チューウィット氏は2546年2月6日、作業員およそ130人を日当500バーツで雇い入れ、買収した軍や警察の高級幹部の指揮の下、スクンウィット(スクンビット)10にあった「バービア(ビアバー)」と呼ばれる娼婦との語らいバーを重機で破壊し撤去した。その合法性についてさまざまな意見が飛び交い、撤去後の数日間で、チューウィット氏のほか、タナテープ陸軍少将をはじめとする軍や警察の高級幹部が次々と逮捕され、連日のように新聞各紙の第一面を賑わせた。

逮捕されたチューウィット氏は、自らが賄賂を定期的に納めてきた警察幹部のイニシャルや特徴などについて意味ありげに言及することで裏切り者を糾弾するとともに、この事件に対する市民の関心を自分に集中させることで身の安全にも努めた。このイニシャル当てクイズは、見事、当時バンコク都民の話題の中心となり、ブラック系コメディアン(?)として一躍時の人となった。チューウィット氏が経営するソープランドに対する警察の立ち入り検査は、不起訴処分が確定するまで、再三再四繰り返された。こうして、ネガティブながらも圧倒的な知名度を得たチューウィット氏は、自らが所有するソープランドすべてを売却することで、莫大な選挙資金を調達し、それを原資に新党「タイ始祖党」 พรรคต้นตระกูลไทย(パックトントラグーンタイ) を立ち上げた。

このような経緯で今回の都知事選に出馬することになったチューウィット氏だが、都民の反応はおおむね好意的だ。

「どうせ誰が都知事になってたところで何も変わりやしないんだから、それなら奇妙でオカシイ人を選んだ方がまだマシかも」(友人談7月19日)

「たしかに、チューウィットの評判はいいわ。知名度は高いし、印象も強烈。おそらく当選しなまでも、それなりの得票数は確保するでしょうね」(友人談7月26日)

彼の強烈なイメージ戦略は、都内で最も多く設置されている選挙ポスターにも現れている。

15 チューウィット
  • 「私への審判を下す前に、ちょっとだけ機会を与えてくれ」

今日は、複合商業施設 MBK マーブンクローング4階の携帯電話売り場で、友人の携帯電話購入に付き合っていたところ、偶然にも話題の人チューウィット・ガモンウィスィット氏に遭遇し、直筆サイン入りのプロマイドを手に入れた。

2004年8月2日(月)

<img src="http://www.diaryinbangkok.com/images/2004/20040802.jpg" width="300" height="169" align="right" />「本物の『いまだ見ぬタイランド』(Unseen Thailand)を見たことがあるかしら? 到着するころには、眠気と疲れできっとクタクタになってるでしょうから、わたしの実家に泊まっていくといいわ。あなたがその環境で眠れるかどうかは、到着してからゆっくりと考えましょう」

午前2時までトーングロー(トンロー)21にある微妙にハイソなPbu and Restaurant(パブまたは飲み屋)ソーングサルング(ソンサルン)」で飲んでから、ペッブリー(ペチャブリ)32にあるカーオマンガイ(鶏丼)屋「カーオマンガイトーンプラトゥーナーム」で夜食をとり、寝室のベッドで横になりながらプラヂョームグラーオ工科大学(キングモンクット工科大学)北プラナコーン校に通っている友人と長電話をしていたところ、「いまだ見ぬ」友人の実家までドライブしようという話になった。

午前4時半、スクンウィット(スクンビット)13にある、僕が住んでいるコンドミニアム「スクンウィットスイート(スクンビットスイート)」の駐車場を出発。バンコク北部のヂェーングワッタナー通り(チェンワタナ通り)まで友人を迎えに行き、そのまま友人の実家があるというナコーンパトム県(ナコンパトム県カムペンセン郡)ガンペーングセーン郡へとクルマを走らせた。

県都ナコーンパトム(ナコンパトム)からガンペーングセーン郡(カムペンセン郡)へと伸びる国道346号線は、交通量の少ない、のどかな田舎道だった。日の出とともに、左右に広がる水田がうっすらと浮かび上がってくる。友人によると、数年前からこの水田では輸出用のエビが養殖されているという。

午前7時、周囲を水田に囲まれている集落(ムーバーン)の入り口に到着。友人の実家は、そこから伸びるクネクネと曲がりくねった細いコンクリート舗装路の一番奥にあった。

友人の実家は、想像以上に貧しかった。建屋の形状は、幅5メートル、奥行き3メートル(15平方メートル)の平屋で、土台となる基礎がなく、赤土の上に四角形の外壁がコンクリートブロックむき出しのまま乗っかっており、その上に雨風をしのぐためのトタン屋根が覆い被さっている。玄関扉は、強い風が吹けばすぐにでも飛んでしまいそうな薄っぺらいベニヤ板で、窓のない室内に目をやると、地面が露出しているリビングが広がっている。どうやら、カラーテレビ以外の家電はないようだ。

便所は玄関前の離れにあり、その入口でトタンの扉ユラユラと風に揺られていた。これまで見たこともない超貧しい建屋の構造が気になり、草が生い茂っている家の裏手に回ってみると、なんと外壁が外側に大きく傾いており、それを3本の細くて頼りない丸太が辛うじて支えていた。これほど酷いコンクリート建造物は、公立学校の体育倉庫や公園の公衆便所を含めても、日本国内には一棟たりとも存在しない。仮にあったとしても、そこを人間が出入りするなど絶対にありえない。

単純労働者に人気の栄養ドリンク M150(エムローイハースィップ) が散乱している屋外には、状態の悪いソファー2脚と美容室にあるような洗髪用のベッドが置かれており、少し離れたところには水瓶もある。この集落には整備された上水道がなく、井戸水も飲用には適さないため、もっぱら水瓶にたまった雨水を飲んで生活しているという。

電話線は集落(ムーバーン)の入口までしか敷設されていない。電力線は敷設されているが、電力メーターを共有している3軒で電気代を分担し合っている。しかも友人の実家は、今月の負担分1,800バーツが払えないため、来月、近所の家からの電力供給が止められてしまうという。もちろん、この家には洗濯機を買うための金もない。

この家庭について友人に詳しく尋ねてみたところ、祖父の代にラオスから移民してきて自作農として生計を立ててきたが、数年前に両親が田畑を手放してしまって、現在では子供たちからの仕送りだけを頼りに生活しているという。

3時間前に友人が電話口で話していたとおり、僕にとって、この家はまさに 『いまだ見ぬタイランド』だった。このような家は、以前、友人が付き合っている女性の実家を別の友人と密かに見物しに行ったときにも見たが、まさか自分がそこに立ち入ることになろうとは思ってもみなかった。

こうして、僕たちは友人の実家をあとにして、県都ナコーンパトム(ナコンパトム)にあるホテル「ナコーンイン」(650バーツ)へと向かった。

今日は「入安居(カオパンサー)」の振り替え休日で、すべての講座が休講になった。

2004年8月3日(火)

「自分の親は選べない。これは古今東西絶対普遍の真理よ。でも、ひとたび貧家の娘としてこの世に生を受けてしまったからには、標準以上の生活を手に入れるために、わたしはどんな努力だって惜しまないつもり。幸い、わたしはこうして大学まで進学できたからまだ可能性があるけど、子供のころに一緒に遊んでいた近所のみんなは、中等教育学校(日本の高校に相当)にも進学できず十分な所得もないというのに、頑張って子供を養っているわ」

スクンウィット(スクンビット)53にある格安居酒屋「いもや」、午後9時半。友人は、自分の境遇について一気にまくし立てたあと、涙ぐみながら黙り込んでしまった。この友人のおかれている境遇が自分とはあまりにもかけ離れすぎているため、僕にはいまひとつ現実感がなく友人が感じている切迫感も共有できなかった。まるで遠い世界のおとぎ話を聞いているかのような気分だ。

この友人は、プラヂョームグラーオ工科大学(キングモンクット大学プラナコーンヌア校)北プラナコーン校の4年生。ラオス人移民3世として、ナコーンパトム県(ナコンパトム県)の貧しい農村で、両親とともに少女時代を過ごした。現在、友人の両親は子供たちからの仕送りだけを頼りに生計を立てているが、自分自身も学校に通いながら、家具の部品を作る内職(1枚3バーツ)で日々の生活費を工面している。その収入から、学費(年間9,000バーツ)のほか、バンコク北部にあるアパートの家賃(月々2,500バーツ)を支払い、両親への毎週500バーツの仕送りまでしているという。

友人によると、自分が少女時代を過ごした農村の子供たちは、いまなお経済的な理由から中等教育学校(日本の中学・高校に相当)にも進学できないという状況が続いている。遊ぶ金もなく暇な時間を持て余している子供たちは、13-15歳には避妊具を使うことなく初体験を済ませてしまい、17歳になると家族を養うための経済基盤が整わないまま出産してしまうという。地方の農村部における貧困は、バンコクの中間層的な価値観からは容易に想像できないほど、深刻な状況にあるようだ。

ちなみに、この地域に住む女性たちにも、ひとつの目標があるという。

「理想を言ってしまえば、やっぱりそれなりの経済力がある男性と結婚することよ。でも、よほどの美人でもない限りそんな玉の輿には乗れないでしょうし、実際にほとんどの人が自分の『チョンチャン(市民階層)』相応の相手と結婚しているわ」

語学留学のためにアメリカへと渡ってから、僕はもっぱら中流以上のタイ人とばかり行動してきた。クラスメイトたちは、5万円は下らないだろう高価な携帯電話やブランド品のハンドバッグを普通に持ち歩いているし、現在交際しているブワも次回の日本旅行計画を立てている。そのような環境に長く入り浸っていたせいか、ここのところ「タイには貧困問題なんて存在しない」かのような錯覚に陥っていただけに、この2日間は「タイ人社会におけるもうひとつの現実」と向き合うためのよい機会になった。

さらに、今日はもうひとつ新しい発見があった。これまでは僕はタックスィン政権(タクシン政権)の政策を「国家の富をばらまき、財政を疲弊させ、教養のない農民を騙して得票を得ている」だけと見做していたが、倒壊寸前のほったて小屋に住んでいるような貧農に近代的な医療を受ける機会を切り開いた「すべての治療を30バーツで(サー無スィップバートラックサートゥックローク)」政策の意義について考え直す契機にもなった。

今日は、ナコーンパトム県(ナコンパトム県)のホテル「ナコーンイン」で夕方まで友人とテレビを見ながら話し続け、日没後にスクンウィット(スクンビット)53にある格安居酒屋「いもや」へ飲みに出かけた。

2004年8月4日(水)

朝、タイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環として、2530(西暦1988)年に工学部横の「ヂャッグラポング館(チャックラポン館)」に設置されたヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)歴史館を見学した。館内では、卒業した王族たちの記念写真をはじめ、日本の国民服に似ている第二次大戦中の制服、大学章のモデルとなったプラギアオ(プラキアオ)などが展示されている。

ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)の「もうひとつ」の学生街である「サームヤーン(サムヤン)」のコーヒー屋で文献を読んでから、サームヤーン市場(サムヤン市場)で夕食をとった。

2004年8月5日(木)

サームヤーン(サムヤン)市場界隈は、(チュラロンコーン大学)ュラーロンゴーン大学もうひとつの学生街。市場の北西にはヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)が管理運営しているプワングチョンプー寮(プワンチョンプー寮)があり、その周囲にも民間が運営する学生向けのアパート(家賃5,000-6,000バーツ)がたくさんある。

東南アジア研究科の学生たちが住んでいるのは、そこから少し離れたヂュラーロンゴーン(チュラロンコーン)6にある、大学が運営している「スックスィットニウェート大学(スクシットニウェート大学)国際学生寮」。薄暗くて暮らしにくいことから、評判はすこぶる悪い。家賃は、外国人(1人部屋)が月々7,000バーツ、タイ人(3人部屋)が半年約8,000バーツ。

ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)には、帰宅前にサームヤーン(サムヤン)市場で夕食をとる学生も多い。市場の2階部分にあるため値段が安く、その上、美味しくて量も多い。今晩、友人が注文した「肉・豚肉・鶏肉ステーキ」(フレンチフライ&サラダ付き)は、たったの90バーツ。市内のレストランなら400バーツはするバリュー商品だ。僕も少しだけつまんでみたところ、肉の質も悪くないし、タレの味付けにも好感が持てた。

雨の中、友人たちをアパートまで送り届けてから帰宅した。

2004年8月6日(金)

午前4時ころ、友人からの電話が再三にわたってかかってきた。そのせいで寝不足になり、午前7時半から1時間は鳴り続けていたはずの目覚まし時計の音にまったく気づかなかった。おかげで、午前の講座「東南アジア麻薬流通論」に出席できず、楽しみにしていたチアングラーイ(チェンライ)国境麻薬取締官の話も聞けなくなってしまった。

サームヤーン(サムヤン)のコーヒー屋でペーパー(小論文)を書き上げてから、トーングロー(トンロー)10にあるPub and Restaurant(パブまたは飲み屋) Booze へと出かけた。どうも気乗りせず午前1時に帰宅した。

2004年8月7日(土)

タイ人の恋愛観も、日本人のそれと大して変わらない。

安宿街「カーオサーン(カオサン)」にあるタイ料理店「トムヤムグング(トムヤムクン)」でブワと夕食をとっていたところ、友人から飲みの誘いの電話があった。そこで、バンゴークノーイ区(バンコクノイ区)にある実家までブワを送り届けてから、ナコーンパトム県(ナコンパトム県プタモントン郡)プッタモントン郡や都内プラチャーチューン通りに寄ってプラヂョームグラーオ大学(キングモンクット工科大学)に通う友人たちを拾い、その足でグルングテープ大学(バンコク大学)の友人たちが待つサムットプラーガーン県(サムットプラカン県)にとって返した。

バンコクを挟んで東西にある2県を移動するという強行軍だったため、目的地に到着したのは法定閉店時間(午前2時)の40分前、翌7日の午前1時20分だった。安ウイスキー「サントリー・レッド」(380バーツ)を注文したが、40分間ですべてを飲み干せるはずもなく、友人が住むトゥックテオ(2-4階建ての長屋・家賃月6,000バーツ)の屋上に場所を変えて飲み続けることになった。

サムットプラーガーン県(サムットプラカン県)とバンコク都が隣接しているこのエリアは、郊外のベッドタウンで、街全体が住宅を中心に構成されている。周囲には屋台のほか、カラオケを備えたタイ風居酒屋、漫画レンタル店などがあり、住宅街に定食屋や焼鳥屋、ビデオレンタル店などが立ち並ぶ日本の光景にそれとなく似ている。

バンコク都やその近隣県を含む「バンコク首都圏」は、歴史的に、タイランド湾やヂャーオプラヤー川(チャオプラヤ川)や都内に張り巡らされた運河網などの水利を生かして発展してきた。ここサムットプラーガーン県沿岸部の住宅街は、都心部の商業地区と郊外の工業地区との中間地点に立地している。遠くにはひときわ明るい光を放っている工場が見える。

雨が降り出した午前5時まで、僕はプラスチック製の椅子(100バーツくらいで売られている)に寄りかかり、ウイスキーを飲み続けながら、タイ人大学生3人による「タイ人若者の恋愛観」についての議論に耳を傾けていた。

タイ人若者の恋愛観も、日本人の恋愛観と大して変わらないではないか。

タイに特別な感情を抱いている一部の日本人男性のあいだでは、恋愛サービスを提供することで安定した収入を得ようと目論んでいる娼婦(売春婦)たちの行動傾向だけを根拠に「タイ人の恋愛観」が論じられている。有料サービスとしての恋愛と、普通の男女のあいだで行われている恋愛との違いについて、今一度じっくりと考え直してみる必要があるだろう。

2004年8月8日(日)

バンコク郊外の住宅地サムットプラーガーン県(サムットプラカン県サムロン郡)サムローング郡にあるトゥックテオ(商用長屋)の屋上で、僕たちは雨が降り出した午前5時まで飲み続けていた。その後、それぞれのアパート(ホーパック)まで送り届けることになっていたが途中で力尽きてしまい、友人たちの勧めもあってみんなで僕の部屋に泊まることになった。

さすがに女性二人と川の字になって寝るわけにも行かず、どうしたものかと部屋の中を歩き回っていたところ、いつも自分が寝ているキングサイズのベッドの下にシングルサイズのベッドが格納されているのを発見した。

昼前に起床し、タイスキ(タイ風鍋料理)屋 MK で友人たちと昼食をとってから、大急ぎで部屋に戻り、明日までに提出しなければならない学期末ペーパー(小論文)の予備報告書に取りかかった。

2004年8月9日(月)

これまでも試行錯誤を繰り返してきたが、ドーンムアング空港(ドンムアン空港)まで友人を迎えに行くときには、駐車場に駐めずに3階出発ロビーの前でピックアップするのが一番手っ取り早いという結論になった。しかし、友人よりも早く到着してしまい、長時間クルマを動かさずにいたところ、警備員に移動を命じられてしまった。

「もう2階のエレベーターまで来ているから、あと2分だけ待ってくれ」

友人は僕が警備員と押し問答をして時間を稼いでいるうちに到着し、手荷物やお土産のカップラーメンを急ぎトランクへと詰め込んで、無事その場を後にした。

輸入食材が日本の約3倍で売買されているバンコクでは、今回、日本製即席焼そばを48個もゲットできたことは大きな意味を持つ。

今日は朝から夕方までの講義に出席し、 Starbucks Coffee(スターバックスコーヒー) でクラスメイトたちと合流して夕食をとりに行き、その後、バンコクドーンムアング空港(ドンムアン空港)へと向かった。

2004年8月10日(火)

一日中、学期末ペーパー(小論文)の予備報告書の作成に追われていた。途中、CWP Central World Plaza(セントラルワールドプラザ) 6階の紀伊国屋書店へ文献を探しに出かけたが、ブワからの誘いは断った。

2004年8月11日(水)

午前9時から約1時間、東南アジア文明論の学期末ペーパー(小論文)について担当教官と面談した。日頃から教授とはタイ語だけで話をしているが、さすがに帆船のマストの名前(船首斜檣や主檣など)が出てきたときには面食らった。帰宅直前になって、この地域特有のスコールに見舞われ、何もない文学部第4号館で2時間も足止めされた。

雨が上がってから、高架電車 BTS プルーンヂット駅前の日本料理店「日本亭」で昼食をとり、寝不足のせいで、部屋に戻ってきてから午後5時まで昼寝した。

2004年8月12日(木)

ペーパー(小論文)提出期限間近。執筆作業は、ひっきりなしに音を立てるインスタントメッセンジャー MSN や電話によってたびたび中断を余儀なくされ、なかなか思うように捗らない。

午前零時、クラスメイトたちからペーパー(小論文)の進捗状況が刻一刻と伝えられ、同時に要求される状況報告にも対応しながら、何冊もの参考文献でいっぱいになっている勉強机でキーボードをたたき続けていた。

「インド化されたチャンパ」

自分がまったく関心を持っていない分野のペーパー(小論文)を書くことほどイヤなことはない。みんなも東南アジア文明には興味がないようで、ほぼ全員が頭を抱えながら厭々キーボードをたたき続けている。ちなみに、クラスの大多数を占めるタイ人学生たちの専攻分野は第1位が経営学、第2位が経済学、第3位が政治学。

2004年8月13日(金)

アソーク通りにある日本大使館領事部が入居しているビル「スームミットタワー(サミットタワー)」の10階に、国際交流基金の附属図書室がある。ここには、日本語で書かれた各種学術論文のほか、日本やタイについて知るうえで有益な資料となる映像ライブラリも充実しており、日本に関心を持っているタイ人の大学生たちがひっきりなしに出入りしている。館内にはコピー機が設置されており、ペーパー(小論文)の資料などを1枚あたり1バーツでコピーできる(セルフサービス)。図書館の会員(有料)となることで、3冊まで借りることもでき、今後のペーパー(小論文)作成に強力な威力を発揮しそうだ。

今日は、サヤーム(サイアム)にある Starbucks Coffee(スターバックスコーヒー) で文献を読んでから、バンコクの電脳街「パンティッププラザ」に立ち寄り、友人の勧めで国際交流基金附属図書館に出かけた。

2004年8月14日(土)

調査旅行は、きつく汚い危険な体力勝負。

午前中の講座「東南アジア麻薬流通論」の一環として、ラーチャブリー県(ラチャブリー県)へと出かけた。今回の目的は、①ミャンマー領に通じる12の獣道を調査し、②国境警察による違法薬物の流入を阻止するための取り組みについてヒアリングすること。

午前6時半、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)文学部裏手の通用口に集合。途中、ナコーンパトム県(ナコンパトム県サンプラン郡)サームプラーン郡で給油のための休憩をとり、およそ192キロの離れているラーチャブリー県(ラチャブリー県スワンプン郡)スワンプング郡へと向かった。

午前10時半、今回の第一目的地である第13管区国境警察139中隊司令部に到着。この中隊司令部は、タイとの外交関係が不安定な隣国ミャンマーと隣接している地域にあり、侵攻を受けたときには最前線の司令部となる。兵員輸送車2台を備え、警察官170人からなる軽装歩兵部隊が駐留している。司令部で行われた簡単なブリーフィングでは、知りたいことの大半が国家の安全保障にかかわる国家機密として説明を拒まれた。ここで手に入れた情報は、ミャンマー政府軍や武装諸勢力(KNU カレン民族同盟、DKBA 民主カイン仏教徒軍、KPF カレン民族平和軍)の友好関係や兵力配置と、侵攻が予測されるルートのふたつに限られた。

僕たちを乗せた兵員輸送車は、ものすごい砂埃を上げながら未舗装路を走り続けた。第2の目的地がある兵営の前でクルマを降りて、息を切らしながら登っていくと、そこには美しい景色が広がっていた。周囲の山々よりも一際高いところにある兵営には「タイ最西端」と書かれた看板が建っており、ミャンマー側の前線部隊の様子も手に取るように窺い知ることができる。兵営で用意された料理は並のタイ料理屋よりも美味しく、昼食をとりながら国境防衛についての話を警察官から聞いていたところ、突然の大雨に見舞われて兵営の中へと駆け込んだ。

ダークグリーンのポリエステル帆布が張られたテントには、発射可能な状態になっている自動小銃が吊るされていた。その中で残りの昼食を平らげて山を下り、山麓の村で村民たちが直面している諸問題や麻薬の流通などについてヒアリングした。

午後10時、大学に到着。タイ人の友人たちと焼酎を飲みに出かけた。

2004年8月15日(日)

昼過ぎ、サヤーム(サイアム)にある Starbucks Coffee(スターバックスコーヒー) で友人たちと勉強した。

2004年8月16日(月)

「大人のオンナはオトコを容姿だけでは選ばない」とは聞いてたけど、ここまで露骨に言われてしまうと、オトコとしてはちょっとゲンナリ。

「私が働いてたのは政府高官やその師弟が好んで通うスクンウィット(スクンビット)界隈にあるクラブ。もちろん、みんな高級車に乗ってやって来る。フェラーリなんていうのもザラ。で、こういったケースをイヤというほど見てきた私に言わせると、先月あなたをゲットしようと頑張っていたタック(仮名)なんだけど、クルマを持っている金持ちにたかろうとしていたとしか思えないのよね。もしかして、自分が好かれてるって本気で思ってたりする? 」

約1ヶ月ぶりにホーガーンカータイ大学(タイ商業会議所大学またはタイ商工会議所大学)前の学生向け Pub and Restaurant(パブまたは飲み屋) 街へと繰り出した。僕たちが仲良くしていたグループは、その間にいろいろとあったそうで、グワーングちゃん(仮名)を除く全員が別の顔ぶれに替わっていた。もしかしたら、単にグワーングがタックを貶めようとして言っているのかもしれないが、この話を聞いて、僕は夜の街を徘徊している女性選びの難しさを改めて痛感した。彼女たちは、それなりに経験豊富で、しかも数多くのサンプルから「理想のオトコ」を比較選別しているだけに、男性の方にも彼女らの目的を見抜くだけの能力が求められる。

グワーングちゃんが話していたようなことは、僕自身もタイに来た当初から気にしていた。それだけに、平均的な日本人より裕福なタイ人と付き合えば、金銭を目的に結婚させられるというような屈辱的な人生から回避できるというポリシーのもと行動してきた。ところが、大正時代の代表的な日本人女流作家たちも「結婚とは、女性が経済的な利益を得るために行われる売春の最たるものである」と唱えている。

今回のタックちゃんの件は、僕自身がまったく気にしていなかったからこそゴシップのネタとして楽しく聞くことができたが、「もし自分が金目当てのオンナに恋に落ちていたら」と思うとゾッとする。このような経験は日本帰国後にもするだろうから、今後はこれを教訓に気をつけるよう心がけたい。

今日は、午前中の「 ASEAN 地域論」 と午後の「東南アジア文明論」に出席し、サヤーム(サイアム)にある Starbucks Coffee(スターバックス) でクラスメイトたちと文献を読み、ホーガーンカータイ大学(タイ商業会議所大学またはタイ商工会議所大学)前の学生向け Pub and Restaurant(パブまたは飲み屋) 街へ友人たちと繰り出した。今晩、はじめてタイの地酒「サートー」を飲んだ。

先月2日から僕たちが気にしていた疑惑は、どうやら正しかったようだ。

2004年8月17日(火)

20040817.jpg娼婦(売春婦)との恋愛って、いったい何なんだろう?

日をまたぐ直前、僕はホーガーンカータイ大学(タイ商業会議所大学またはタイ商工会議所大学)前の Pub(パブまたは飲み屋) and Restaurant で、いつもの友人たちと酒を飲んでいた。そのときに聞いたラーチャモンコン高等教育学校(ラチャモンコン大学)経営学科に通う学生の話が気になって、スクンウィット(スクンビット)15にある娼婦(売春婦)調達バー「ターメー(テーメーまたはテルメ)コーヒーショップ」に立ち寄った。

現在のターメー(テーメーまたはテルメ)コーヒーショップが開業したのは1996年。フリーランスの娼婦(売春婦)が集まる飲み屋として知られ、数年前までは大きな荷物を抱えている旅行者や語学留学に来た若い日本人たちで賑わっていた。

午前零時半、半年ぶりに足を踏み入れてみると、そこはまるで場末の冴えない娼婦のたまり場になっていた。店内を一周して数えてみたところ、何も注文することなく退屈そうに椅子に座っている娼婦(売春婦)59人に対して、男性客はたったの13人。しかも、そのうちの6人が日本人だった。この界隈にあるバービアと呼ばれる娼婦との語らいバーにいる恰幅のよい元気な西洋人たちとは対照的に、日本人客のほとんどが貧相なヨレヨレシャツを着ている40代前半から50歳中盤までの中年男性で、それぞれひとり寂しく酒を飲んでいた。

店の中央にあるカウンター席でビールを飲みながら、周囲に居合わせた娼婦(売春婦)9人に出身地を尋ねたところ、ローイエット県(ロイエット県)東北部(イーサーン地方))、スィーサゲート県(シーサケット県)(東部)、サゴンナコーン県(サコンナコン県)東北部(イーサーン地方))、メーホングソーング県(メーホンソン県)(北部)など貧困が深刻な地域の出身者が大半を占めた。娼婦(売春婦)たちは職業柄、客の年齢に合わせてサバを読むことが多く、僕の真正面に座っていた31歳娼婦(売春婦)は当初24歳と話していた。だらだらと話していると次第に周囲の娼婦(売春婦)たちと打ち解けることができ、ついに本当の年齢を聞きだすことに成功した。それによると、平均年齢は36歳で、大半は自分の子供を田舎の両親や親戚に預けて出稼ぎに来ているという。そのなかにはなんと46歳の娼婦(売春婦)もいた。

娼婦(売春婦)たちの話には、タイに特別な感情を抱く一部の日本人男性が興味を持ちそうなエピソードもあった。

その娼婦(売春婦)は半年前、日本人向けの夜の繁華街「タニヤ」でホステスとして働いていた。そこで客としてやってきた日本人駐在員と知り合い、「今の妻(日本人)とは離婚して、キミと日本で一緒に暮らしたい」と告白された。その後、駐在員は帰国したが、日本人妻と離婚する様子はまったくなく、代わりに日本から送られてくる月々3万バーツの仕送りを受け取っているという。ところが、元駐在員が描くそんな淡い夢とは裏腹に、この娼婦(売春婦)は元駐在員との結婚を望んでおらず、日本に移住したいわけでもなく、月々3万バーツの仕送りも単に「親切な人が家計を助けてくれている」としか思っていない。当然、自分が元駐在員の恋人であるという自覚もまったくない。それでも、なかなか律儀なところもあって、元駐在員からの電話がかかってくる毎週決まった曜日の決まった時間には自室で待機しているという。

タイに特別な感情を抱く一部の日本人のほとんどは、ビジネスとしての恋愛サービスを提供している娼婦(売春婦)しか知らない。その多くが「馴染みの娼婦(売春婦)」をあたかも自分の「彼女」であるかのように思い込んでいるようだが、自分と相手との関係について今一度じっくり考えてみてはどうだろうか。もし自分が娼婦(売春婦)の単なる「金づる」でしかなければただただ虚しいだけだし、それにすら気づかなければ溝に金を捨てるような愚行を今後も延々と続ていく羽目になる。

法定閉店時間の午前2時に店を出て自室へ戻ろうとスクンウィット通り(スクンビット通り)を歩いていたところ、歩道に出ている屋台で酒を飲んでいた日本人に呼び止められ酩酊状態になるまで飲み続けた。

午後1時に目を覚ましたて周囲を見回してみたところ、視界が真っ白で何も見えなくなっていた。どうも昨晩飲んだ酒(安ウイスキー, 安カクテル, 地酒「サートー」, 大量のビール)の相性が悪かったようで、おかげで日没まで行動不能に陥った。

2004年8月18日(水)

日本人もビックリの超豪華「市民病院」。

バンコクには、タイ語を話さない日本人をターゲットとしたサービスがたくさんある。衣・食・住、なにからなにまで至れり尽くせり。タイ語なんか話せなくても、タイで何不自由なく生活できると考えている日本人もきっと少なくないはずだ。もちろん、僕たちの健康を守る医療機関も例外ではない。

ちょうど日本から遊びに来ている友人の体調が優れず、スクンウィット(スクンビット)3にある富裕層向けの私立総合病院「バムルングラート病院(バムルンラット病院)」に行くというので、ついでに僕も医者に診てもらった。

これまでバムルングラート病院(バムルンラット病院)といえば、「なんとか通じるレベルの日本語を話す通訳を多数そろえている高級病院」というイメージしかなかったが、あらたに流暢でオシャレな日本語を駆使する女性内科医が加わったことでだいぶ便利になった。

今回の医療費は、施設使用料90バーツ、診察料A1,100バーツ、診察料B1,000バーツ、レントゲン照射費440バーツ、レントゲン技術費220バーツ、薬代1,950バーツ(4種類)の合計4,511バーツ。

ところで、この病院の名前を日本語に直訳すると「市民療養病院」。でも、平均的な高卒タイ人労働者の月給にも匹敵するようなバカ高い医療費を払える市民なんてどこにいるのか。そんな笑えないジョークを考えながら、病院のエントランス前でホテルのような制服を着ている警備員が交通整理をしている姿を眺めていた。

ちなみに、節約型の医療がお好みであれば、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)附属病院(プララームスィー通り(ラマ4世通り)ラーチャダムリ通り(ラチャダムリ通り)交差点)、マヒドン大学付属シリラート病院(アルンアマリン通り・パラーンノック通り交差点)・ラーマーティッバディー病院(プララームホック通り(ラマ6世通り)ラーチャウィティー通り(ラチャウィティー通り)交差点南)などがお勧め。たぶん待合室で一日中待たされることになるが、医療費は国民IDカードを持たない外国人でも500バーツもあればなんとかなるはず。

僕たちはそんな贅沢をできるほど裕福ではないから、日本出国前に加入した海外旅行傷害保険のキャッシュレス診療サービスを利用した。

夜、ホテル Royal Orchid sheraton(ロイヤルオーキッドシェラトン) で友人と夕食をとった。

2004年8月19日(木)

朝、タイ研究科の講座「タイ史博物館論」の一環として、ヂャーオプラヤー川(チャオプラヤ川)西岸にある寺院「ワットラカン」や、ラッタナゴースィン朝(ラタナコーシン朝またはチャクリ朝またはバンコク朝)の太祖プラプッタヨートファー(ラマ1世)ヂュラーローク大王が即位前に住んでいたという屋敷を見て回ってから、すぐ近くにあるタイ海軍総司令部へと向かった。

とはいえ、今回ここに来たのはタイ海軍について学ぶためではなく、敷地内にある歴代国王の離宮や、当時を物語る品々が展示されている博物館を見学するため。この博物館は、一般の観光客でも事前の予約があれば見学できる。

午後4時頃、ヂャーオプラヤー川(チャオプラヤ川)横断船で西岸の海軍総司令部から東岸の官庁街へと戻ってきた。ところがなかなかタクシーを捕まえることができない。クラスメイトによると、一般的な公務員にはタクシーに乗れるだけの所得がなく、それを知っているタクシーの運転手も客の多い別の通りを選んで走っているため、わざわざここには来ないという。

仕方なく、商務省内国通商局前からクラスメイトたちと普通バスに乗って、交通の要衝「サナームルワング(王宮前広場)」まで出てきた。ところが、この大雨のせいでタクシーは大繁盛。僕は軍務省前で、まるでバスに乗る金すらない乞食のように雨に打たれながら、30分間も空車を探し続けた。

この大雨のせいで、都内の幹線道路はどこも交通が麻痺していた。ようやく見つけたタクシーの後部座席に寝っ転がって、運転席の液晶テレビに映し出されていたテレビドラマ「人生の負債(ニーチウィット)」を見ていたところでホテル「マレーシア」に到着。乗車時間1時間58分、運賃195バーツ。ホテル「マレーシア」で日本から遊びに来ている友人とタイ古式マッサージ(200バーツ)を受けてから、プララームスィー通り(ラマ4世通り)にあるスーパー「テスコ・ロータス」で買い物し、タイスキ屋 MK で夕食をとった。

2004年8月20日(金)

タイの GSM 携帯電話は、通信会社を限定する「シムロック」が解除された状態で売られている。そのためついつい忘れがちになってしまうが、本来であれば GSM 携帯電話にも日本と同じようなシムロックがかけられている。

日本から遊びに来ている友人が持ってきたのは、シムロックつきの Motorola(モトローラ) 製 GSM 携帯電話。 Vodafone(ボダフォン)SIM Card(シムカード) しか認識しない仕様になっているため、タイでは割高なローミングサービスを利用しなければならない。それではやってられないという話になり、 MBK マーブンクローングセンター(マーブンクロンセンター)4階でシムロックを解除した。所要時間約30分、費用300バーツだった。

ただし、シムロック解除の際には気をつけておきたいことがある。本体に記録してあるデータはすべて削除されてしまうし、タイ語プログラムが同時にインストールされてしまうため英語の表示行数も減少してしまう。1年前に買った携帯電話は、本来5行表示できるはずが3行に減らされてしまった。

2004年8月21日(土)

今日は、午前の講座「東南アジア文明論」の一環として、タイ北部へと出かけた。今回の目的は、タイ文化のルーツであるガンペーングペット県(カンペンペット県)スコータイ県(スコタイ県)ピッサヌローク県(ピサヌローク県)にある遺跡の実地学習。

午前6時、日の出前の暗闇のなか、ヂュラーロンゴーン大学(チュラロンコーン大学)文学部正門前に集合。肌を焦がすような強烈な日差しの下、日陰になっている部分を探しては、遺跡の名称、年代、建築様式、影響を受けた周辺文明、歴史的背景などをノートに書き連ねていった。

それぞれの遺跡についてここに詳細に書くと、小論文や専門書のような量になってしまうから、この日記では割愛する。

スコータイ遺跡を一通り見学してから、ホテル「スコータイリゾート」にチェックイン。ホテルの宴会場で夕食をとりながら、クラスメイト数人とタイポップスのカラオケを楽しみ、酒を飲んだりプールで泳いだりとリゾート気分を満喫した。

2004年8月22日(日)

スコータイは、コーング川(メコン川)の中流とモタマ湾とを結ぶ水上交通の要衝として古くから栄えた都市。西暦1237年、アンコール朝の総督スィーナーワナムトンサワンコット(シーナーワサムトンサワンコット)・コームサバートクローンランパングがスコータイの統治権を掌握したことで、ラート領主パームアング(パームアン)バーングヤーング(バンヤン)領主バーングラーングハーオ(バンクランハオ)の両名が反旗を翻し、タイ族初の独立国家となるスコータイ朝が成立した。

独立戦争の盟主的立場にあったパームアングは、自らがアンコール朝のジャヤーヴァルマン7世の王女プラナーングスィコーンテーウィープラマヘースィー(スコンテーウィー)と婚姻関係にあることからスコータイ市民から受け入れられないと考え、統治権をバーングラーングハーオ(のちのスィーイントラーティット)、プラセーングカンチャイスィーに委ねた。王都スコータイが完成するとスィーイントラーティット(シーインタラーティット)が国王に即位した。3代目のラームカムヘーング大王(ラムカムヘン王)の時代になると、文字、政治、法律、建築、国際関係などの整備が進み、現在のタイ文化の原型が確立した。その後、南部のアユッタヤー朝(アユタヤ朝)の圧迫を受けて支配領域を徐々に縮小していき、マハータンマラーチャー4世の没後、アユッタヤー朝(アユタヤ朝)に継承(事実上の吸収)された。

現在の主な産業は農業で、人口は約3万人。

午前5時に起床。スコータイ王宮の跡地に建設されたスコータイ歴史公園をはじめ、王都が完成するまであいだ一時的に都がおかれたスィーサッチャナーライにある歴史公園や宮殿跡、寺院跡などを見て回った。

帰途、ピッサヌローク県(ピサヌローク県)にあるワット(ワットヤイ)マハータートウォーンマハーウィハーンと周辺の遺跡を見学した。クラスメイトたちが土産物屋を見て回っている隙を見計らって、境内に設けられている露天で石けん(12バーツ)を購入し、外国人用トイレに