ラオスの歴史とウィアングヂャン観光(ウィアングヂャン・ビザ更新旅行3日目)

このラオス人の友人は外国人向けのPub and Restaurantで働いている。今日はその仕事が休みのため、ラオス歴史資料館をはじめとするウィアングヂャン市内の観光名所を案内してもらえることになった。この友人とのコミュニケーションはもっぱらタイ語に頼っているが、今日は少しだけラオス語にも挑戦してみたい(タイ語が読める人ならギリギリなんとか読めるかも)。

ວຽງຈັນ(ウィアングヂャン)は、ສາທາລະນະລັດປະຊາທິປະໄຕປະຊາຊົນລາວ(ラオス人民民主共和国)の首都で、人口は約73万人。タイの地方都市程度の規模の街で、バイクをレンタルすれば1時間足らずで市内すべての観光地を見て回ることができる。

午前10時、ホテル「セーターパレス」にラオス人の友人が迎えに来た。最初に向かったのはຫໍຜິຜິດທະພັນແຫ່ງຂາດລາວ(ラオス国立博物館)。ここに展示されていた史料と友人の話を簡単に要約すると、ラオスの歴史はつぎのようになる。

この地域で強大な勢力を誇っていたクメール帝国で教育を受けた王子が1353年、全国に点在していた集落を統合して、現在のラオスの原型となるラーンサーング王国の版図を確立し、現在のルワングパバーンに都を定めた。アユッタヤー朝サヤーム(タイ)からの侵攻を受けて、セーターティラート王がウィアングヂャンへ都を移した。17世紀後半になると国内で王位継承を巡る内乱が起こり、ラーンサーング王国はそれぞれ北のルワングパバーン、都のウィアングヂャン、南のヂャンパーサックの3ヶ国に分裂した。1779年にトンブリー朝サヤーム(タイ)からの侵攻を受けると3王国ともサヤームの保護領(植民地)になった。旧ラーンサーング3王国の政情は、ウィアングヂャン王アヌウォングによる独立戦争の失敗や少数民族ホーによる反乱などで悪化し、ラッタナゴーシン朝サヤーム(国号変更前のタイの現王朝)によってフランスへ割譲され、フランス領インドシナに編入された。第二次世界大戦中にはシーサウォングを国王とするラオス王国が日本の保護領として独立。戦後の混乱の中で王政は廃止され、ヴェトナムの影響を強く受けた共産主義政権が現在のラオス人民民民主共和国が建国した。

共産主義国における歴史教育は、国民の愛国心を鼓舞して自前の共産主義政権を正当化するためにある。この博物館でもそういった傾向は強く見られ、資料室の大半が戦後史の資料展示に充てられている。

「この写真を見てくれ。これはラオス王の第一王子が王位継承権を放棄する文書に署名させられている場面だ。なんとも気の毒な話だが、その後、彼はラオスの一市民として質素な生活を送ったらしい。俺は王政時代のラオスのほうが好きだ」

ラオス語がタイ語が似ていることもあって、タイの地上波や衛星放送が広く視聴されているため、ラオス人はタイの立憲君主制の影響をもろに受けている。社会主義革命の要は厳格な報道管制と大衆煽動だったはずだが、こんなことでは革命が起きて現在の社会主義政権が転覆してしまうのではないかと、他人事ながらも心配せずにはいられない。

20040603-2その後、タイ大使館領事部ちかくにあるラオス料理屋で昼食をとり、ウィアングヂャンの観光名所をひととおり紹介してもらった。今回、僕たちが向かったのは①ປະຕູໄຊ(凱旋門)、②ວັດທາດຫລວງ(ワットタートルワング)、③ວັດສີສະເກດ(ワットスィーサゲート)、④ວັດຫໍຜະແກ້ວ(ワットホーパゲーオ)、⑤ວັດສີເມືອງ(ワットスィームアング)など。長時間に渡って直射日光を浴び続けたせいで心身ともに疲れ果て、バイクでຕຫຼາດເຊົັາ(タラートサオ)まで送ってもらってから、ラオス・タイ国境横断バス(35バーツ)に乗って国境を渡り、タイ側のノーンカーイ長距離バス乗り場へ向かった。

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バンコク留学生日記の筆者。タイ国立チュラロンコーン大学文学部のタイ語集中講座、インテンシブタイ・プログラムを修了(2003年)。同大学の大学院で東南アジア学を専攻。文学修士(2006年)。現在は機械メーカーで労働組合の執行委員長を務めるかたわら、海外拠点向けの輸出貿易を担当。