2001年11月7日(水)

タイへ留学することを決めたとき、それを機会に日記を書くことにした。いつまで続くかわからないが、後々この日記を読み返してみて「充実した日々だった」と言えるような生活を送るように努力するきっかけになればいいと思う。今回の渡タイに同行する大学時代の先輩にそのことを告げたとき、彼も日記をつけると決めていたそうだ。

初めてタイにきた先輩は、何の違和感もなさそうに普通に振る舞っていた。僕が始めてきたときには「なんて妙なところに来てしまったのだろう」と思ったのだが。この様子だと心配なさそう。と、バンコク到着時は思っていた。

ユナイテッド航空875便はバンコク・ドンムゥアン空港に定刻通り、タイ標準時22:50に到着した。スィーナカリンウィロット大学の学生で日本語を勉強しているサと、彼女の友達のトムとシューが迎えに来てくれていた。現地の友達が空港まで迎えに来てくれるって、けっこういいカンジ!こういう経験は初めてだ。

簡単に挨拶をすませた後、トムはほかの二人よりも先に帰宅した。彼の家は空港の近くにあるらしい。空港からバンコクまではかなりの距離があると思うのだけれども、彼は毎日バンコクの大学へ通っているのだろうか?・・・それとも、スィーナカリンウィロット大はバンコクの中心から離れているのだろうか?おいおい、スィーナカリン大の場所はわかるようになるかも。

僕と先輩は残ったサとシューと共にタクシーに乗り込んだ。彼女らの両親も深夜の外出には否定的な考えを持っているらしく、すぐに帰らなければならないのだとか。たしか、サは18歳だったっけ?

彼女らはBTSアリ駅付近で下車。二人は兄弟なのだろうか。それともご近所さんとか。これも、いつかわかるだろうから、とりあえず保留。

とりあえず、僕たちはラッチャッダーピセーク・ソイ1にあるタナタウィーパレスというアパートに宿泊した。ホテルのように清潔な上に宿泊費が一日あたり750バーツと手頃だ。部屋に戻ってすぐ、タクシーでカオサンに向かった。すでに午前1時を回っていたが、なんとしても先輩にカルチャーショックを起こさせてみたいという興味本位から、飛行機疲れしていたところを強引に連れだした。

まず、先輩が空腹だと嘆いていたので、近所のバミー屋台へ。彼はゴキブリとドブネズミにかなり驚いていたみたい。きれい好きな彼には、屋台は馴染まないのかもしれない。バミーの味は評価していた。あんな、怪しいお湯の中に麺が入っているだけのような麺が美味しいなんて、僕にはわからないけど。

――その後、カオサンに行ったがどの店も閉まっていた。心配になって近くの工事現場で働いていたタイ人に、ディスコはすでに閉店してしまったのかと聞いてみたところ、「ぴぃっとりぇーを(すでに閉店した)」との返事。仕方なく午前3時頃に帰宅。

帰宅後に気づいたのだが、彼は相当げっそりしている様子だった。聞いてみたところ、発展途上国特有の食品衛生についての価値観と、道路整備のお粗末さが受け入れられなかったのだそうだ。それと、カオサンにいた日本人に強烈な抵抗感を持ったのだとか。もしかしたら、価値観が保守的な人には、この街は向いていないのかもしれない。

2001年11月8日(木)

今朝は内容の濃い一日だった。昨晩、夜更かししてしまった僕は午前10時頃に起床。同行の先輩は午前7時頃に目が覚めてしまったらしく、睡眠不足気味だ。僕が眠っている間、彼が音楽を聴こうと、わざわざ日本から持ってきたパソコン用外付けスピーカーをダイレクトにコンセントへつっこんだらしくお釈迦にする。定格100vの機械に220vの電流を流したら、壊れるのも当然だ。・・・たぶん、寝ぼけていたのだろう。

正午過ぎに僕たちはタクシーでマーブンクローンセンター(MBK)に行った。MBKは若者の街「サヤーム」の駅から徒歩で5分程度のところにある巨大なショッピングセンターだ。

タイ人の友達をたくさん作って、毎日のようにタイ語を話す――というのが僕が描いている最良のタイ語学習法だ。大学が始まるまでまだ2ヶ月もある。この時間を利用して、とりあえずタイ語に慣れておきたい。

友達と連絡を取るためには携帯電話が必要みたいだ。タイ人の大学生も携帯電話を持っているのが一般的だ。マーブンクローンにはそれを買いに来た。ところが、日本でだと1円でも誰も買わなそうな液晶単色・巨大重量級携帯電話が3,500バーツ、同様に液晶単色だがデザイン的にぎりぎり受け入れられるような有名メーカー「NOKIA」製携帯電話が17,000バーツもする。日本円に換算すると、なんと約46,000円だ!!この値段はおかしいと思って、昨晩空港まで迎えに来てくれたサにMBKまで来てもらった。この値段の異常さは「日本人価格」なのではないかと疑ったのだ。

1時間半後にサが到着。噂で聞いていたとおりタイ人は時間にルーズなのだろうか?当初返答より30分の遅刻だ。彼女は何度も謝っていたが、突然呼び出したのは僕の方だから、あっさりと許してしまった。

結局、店側の言い値は相手がタイ人でも変わらなかった。日本で5000円も出せば買えるような低性能・低機能かつ貧弱デザインの携帯電話に多額の投資をするのも馬鹿馬鹿しく感じてしまって、タイ人から馬鹿にされてもかまわないと割り切って3,500バーツ――それでも約10,000円もする――SAGEM製を購入。

次に、アパートを探しに行った。毎日、宿泊費に750バーツも費やしてしまっては、ソッコウで金が消えてしまう。一日も早くアパートを借りたいのだ!

来年1月から通学予定のチュラロンコーン大学からできるだけ近くにあるアパートに住みたいと思って、大学のあるパヤタイ通り沿いに住みたいという希望をサに伝えた。そこで、ヂャーリーと合流。彼女もスィーナカリンウィロット大に通う、日本語を5年間も勉強している、グッドジャパニーズスピーカーだ。とりあえず、パヤタイ駅周辺のアパートを探してみたが、どこも僕が希望する家賃よりも相当安く、質も低かった。また、戦勝記念塔駅周辺はソイ(小街路)が絶望的に貧しい雰囲気を醸し出していたから却下。いろいろあったけれども、ラーチャテウィー駅近くのアパートに落ち着く。

その部屋は15畳くらいの広さのワンルーム。決して豪華とは言えない家具が、さしあたり生活するのに困らない程度はある。シャワー・トイレ一体型でバスタブはない。タイではこのタイプが一般的なようだ。アパートは7階建てで、僕の部屋はその6階にある。エレベーターの正面にある角部屋で、ほかの部屋よりも1.5倍程度広い。そして、その分家賃もほかの部屋よりも高い。さらに、高層階にあるためサヤームが一望できる・・・ための費用(風景料金?)がさらに毎月500バーツ。合計、毎月8,000バーツだ。オペレーターと呼ばれる管理人や警備員も親切そうで、なかなかいい雰囲気なような気がする。

手付け金を払った後、サとヂャーリーと別れ、先輩と食事に行った。鎌倉山という名の日本料理屋で、ワールドトレードセンター(WTC)の6階にある。バンコクでの、僕の一番のお気に入りだ。そこそこの値段で美味しい日本米と日本料理を味わえる。普通、バンコクにある日本料理専門店の料理は日本での相場よりも高めだが、ここは日本の半額程度でちゃんとした日本料理が味わえる。――そういえば、シーロム・ソイ6にある「徳利」という名の半地下にある飲み屋の料理は最悪に不味くて、決して日本料理とは言えないような「日本料理風料理」だったけれども、それでも500バーツも取られて激怒したことがあったっけ。そのときの僕の怒り様を見ていたタイ人の友達が、とばっちりを受けるんじゃないかって、とても怖がっていたとを後日談で知った。

食事を食べながら、今日一日中ムスッとしていた先輩に「僕のタイでの人間関係を破壊するつもりなのか?」と問うてみた。夕方頃、ヂャーリーが「彼はイヤなカンジだ」と言っていたのを例に出して。言語が通じないタイ人とのコミュニケーションには日本人とのコミュニケーションよりも、より慎重な注意が必要だ・・・と僕は思う。

夜、タイ人のメール友達に初めて連絡を取った。明日、家電を買いに行くことを告げると、同行してくれると言ってくれた。本当に助かる。さらに、週末にパタヤに行くから一緒に行かないかと誘ってくれた。まだ会ったことのない人たちと行くことになるけど、二つ返事で一緒に行くと約束してしまった。彼女の友達がリゾートマンションをパタヤに持っているらしく「宿泊費はタダ!あなたが大好きな無料だよ!!」ってゆう言葉にコロリとやられてしまったのだ。

午前0時頃、知り合いの日本人の部屋に遊びに行く。そこに、もう一人の日本人が合流した。そこからは40分程度で引き上げて、帰り道にスクムウィット・ソイ15にある売春婦が集うバーに行ってみた。本来、そこはそのような目的である店ではないらしいのだが、いつの間にかそうなっていたのだそうだ。僕はもっとタイ語を話したいって思って行ってみた。無論、僕にはそこでショッピングを楽しむほどの金はないし、タイ人のエイズ罹患率2%――売春婦に関しては50%前後であるという推計がある――というリスクに立ち向かえるほどの勇気もない。

そこで、日本人の友達がいると言う30歳前後の女性(売春婦)と2時にコーヒーショップが閉店した後、屋台でビールを飲みながら午前4時頃まで話した。周りでは、時間内に買い手がつかなかった売春婦たちが場外戦を繰り広げていた。ビール代とつまみ代は全部彼女が持ってくれた。それにしても、みんな仕事熱心だ。

ラッチャダーのアパートに戻って、買ってきた携帯電話の開通テストをするために公衆電話から携帯に電話をしようと何度も試みたが、なぜかうまくいかない。アパートのロビー奥で大量のビールをを飲んでいた女性に公衆電話と、タイのプリペイド式携帯電話の使い方を習った後、彼女の飲みにつきあった。

「私は母を養うためにカラオケ屋で働いているけれでも、毎晩のようにそれが淡々と続くばかり。もう30歳にもなったが、いまだ彼氏もいなくて、いつも一人ぼっちで悩んでいる。体を売れば簡単に事態を解決できるのだけれども、それは良くないことだからできない。売春ができればどんなに楽なものだろう」

そういって、彼女はうつむいてしまった。そんな話に午前7時までつきあった後就寝。ここでのビール代もタイ人が持ってくれた。今日はタダ酒のみのサバーイ(fine)な日だ。

2001年11月9日(金)

今日はタイ人のメール友達プェンと正午にワールドトレードセンター(WTC)のマクドナルドで会う約束をしていた。――が、昨晩が寝たのが今朝の8時(!?)だったから、もちろん起きられず、思いっきり遅刻してしまった。

起床後、急いで銀行へ行って、家賃と保証金を支払うためのお金をバーツに両替し、ラーチャテウィーにあるアパートに入居した。手続きはあっという間に終わった。その後、――昨日、僕の人間関係を危うくさせた――先輩を新居に残して、WTCへ向かった。すでに、1時間半程度遅刻していたので、大通りでモタサイ(モーターサイクルの略でバイクタクシーのこと)を拾って、「60バーツでもいいから、とにかく急いでWTCに向かってっ!」と言ってバイクの後部に飛び乗った。降りたときに、彼は僕にワイ(両手を顔の前で合わせて、敬意を表する行為)をして最大級の感謝の念を示していたけれども、60バーツってそんなに相場からかけ離れた額だったのだろうか?・・・次回からは節約を心がけよう。

1時間40分遅刻で、名門タマサート大学に通っているプェンとその友人エーンと会うことができた。とりあえず、まだ朝食を食べていないことを告げてから、ビッグマックセットをたいらげた。どうも、プェンは僕の遅刻に腹を立てているらしかったけど、大丈夫だって言ってくれた。普通、1時間40分も遅刻されて怒らない方がおかしい。

まず、WTC内の日系百貨店伊勢丹の5階電気売り場で変圧器を購入した。お気に入りのドライヤーをすぐにでも使いたかったし、日本から別送便で送った機械類も100vでないと使えない。2000ワット・ヒューズなしが1785バーツだった。聞くところによると、この値段は日本で買うよりも相当安いらしい。

途中、歩道橋を横断した。余裕で手が届く位置に電線が走っていた。

「この電線って、すっごく危険じゃない?大丈夫なの?」

「えっ?これって普通だよ。どこもこんなカンジだと思うけど・・・」

「そういえば、政府は路上にたくさんいるの犬を処分しないの?日本なら、見つけ次第、直ちに処分しているのだけど」

「タイでも政府が処分しているのだけど、予算が足りなくて、十分に処分できていないみたいね」

――タイって、基本的な部分で日本とすっごく差があると思う。特に安全基準や衛生基準に関しては、数十年の開きがあるような気がする。でも、手が届く位置にある電線も気をつければいいだけなのだし、食品衛生も・・・気をつければきっと大丈夫だと思う。そう思うと、日本の基準はあまりにも過保護だという気がしてきた。

つぎに、ラマ3世通りにあるテスコ・ロータスで生活消費財を購入。合計で5,120バーツだった。全部で24品目もあるそれらを持って、今度は郊外にあるタイ人向けショッピングセンター「Macro」でPhilips製21インチ型フラットテレビを12,290バーツ、三菱製ワンドア冷凍庫内蔵冷蔵庫を4,880バーツ、大宇製洗濯機を9,990バーツ、勉強机を1,790バーツ、椅子を1,429バーツでそれぞれ購入した。いま住んでいる部屋にも椅子は標準装備されているのだけれども、それはプラスチック製のベンチみたいな椅子なのだ。――これではとても勉強ができない。

店員がずっと「これ、全部で30,000バーツなんだよなぁ・・・」とボソボソつぶやいていた。聞いた話だと、名門大学出の大卒初任給が9,000~13,000バーツだという。おそらく、売り場で働いている彼の所得はそれ以下だろうから・・・たしかに恐ろしい額なのかもしれない。

買い物が終わって、発送手続きをしてもらおうと思ったら「搬送サービスはない」とのこと。困り果てて、店の前に止まっていたトゥックトゥック(三輪荷台ベンチ付きバイクタクシー)を3台も捕まえた。交渉の結果、3台で500バーツということで決着した。とにかく、選択肢がなかったからそれで手を打ったが、普通トゥックトゥック一台に166バーツも払う客なんているのだろうか?でも、もしかしたら正規の価格だったのかもしれない。荷物が大量にあったし。

帰宅後、プェンがテレビや冷蔵庫の設置を手伝ってくれた――その結果、彼女が家に帰るための終バスがなくなってしまった。友達にお金を渡すのは良くないと思って、午前0時頃にタクシーで彼女を家まで送った。ラーチャテウィーからバンコク郊外33キロのところにある彼女の家を往復してタクシー代330バーツを支払った。日本でこの距離をタクシーに乗ったら25,000円くらいはするだろう。タイでのタクシーは日本の公共交通機関程度の値段だ。とにかく、深夜まで引っ越しのお手伝いをしてくれた友人に感謝。なお、同じ部屋に寝泊まりしている大学時代の先輩は終始眠っていて何一つ手伝ってくれなかった。彼への不満は募るばかりだ。

2001年11月10日(土)

今日も遅刻した。しかも、1時間クラスの遅刻だ。待ち合わせ場所はサヤーム駅前のマクドナルド。サヤーム駅は僕が住んでいるラーチャテウィー駅の――バス停感覚での――隣の駅だ。ラーチャテウィー駅までは徒歩3分、そこから乗る電車は3分に一度発着するし、隣のサヤーム駅までも2分くら いだ。仮に徒歩でサヤームまで歩いても15分もかからないだろう。どう考えても、俺の寝坊が原因だ。

マクドナルドで朝食を済ませた後、パタヤまでの高速バスが発着するエカマイ駅前の東バスターミナルにむかった。しかし、その途中のサヤーム駅でばったりサに会ってしまった。日本語学校の帰りだったらしい。彼女はシューと一緒にいた。彼らはつきあっているのかもしれない。僕は適当に挨拶をすませてその場を立ち去った。ちょっとバツの悪い雰囲気だったから急いで逃げ出したのだ。その後、バスターミナルで彼女らの友達で同じくタマサート大の学生プゥンと合流。数分後にバスはパタヤに向かって走り出した。

73バーツのバスは3時間くらいでパタヤについた。エーンの友達のリゾートマンションは巨大で、しかも部屋を2部屋も買い取っていたみたいだった。――でも、ベッドがない。ベッドが一つもなかった。今晩は飲みだと言うことになって、パタヤ市民向けの――といっても、日本の首都圏にあるスーパーマーケットの数十倍の売り場面積があり、とても清潔な――ショッピングセンター「テスコ・ロータス」でビールやお菓子、それに翌朝の朝食等を調達した。

帰宅後、みんなでビーチへ散歩に行った。いつの間にか、海へ落とし会う遊び(?)が始まってしまって、頭までびしょ濡れになった。

→ジーパン、選択屋行き=20バーツ

深夜まで酒を飲んだ後、僕に割り当てられた隣の部屋に戻って寝ようとしたところ、プェンが不思議そうに訪ねてきた。

「なんで、そっちの部屋での寝るの?こっちの部屋じゃ駄目なの?」

「僕はタイの常識がわからない。だから、日本では女子と同じ部屋で寝ても問題はないけど、タイでは悪い行いなのかどうかわからず、無難な選択をした」

「それなら、こっちの部屋でも大丈夫ってことだね。そんなに考えすぎることないじゃん!」

というこで、彼女の言葉に甘えてさせてもらい、4人でベッドのない部屋で眠った。

2001年11月11日(日)

プゥンは日本人に似ている。しかも、日本人のような容姿をしている。彼女の実の両親はすでに離婚していて、彼女を引きとっと実母がこのたび日本人の継父と結婚したのだそうだ。写真を見せてもらったけれども、彼女の母親も日本人そっくりの容姿だった――しかも、着物を着ていたのものだから、本当の日本人なのか聞いてしまったのだが、そうではないらしい。

彼女は新しい父親に会うのをとても楽しみにしているみたいで、大量のおみやげと写真付きの色紙を持ってきていた。彼はパタヤがあるチョンブリ県の隣の県に住んでいて、彼女はパタヤからバスに乗ると都合がいいらしく、今晩はそっちに泊まるらしい。

昼頃、パタヤのビーチに出かける。パラソルがある砂浜のスペース、一人あたり20バーツで一日中使い放題らしい。そこに陣取って、大量に海鮮タイ料理を注文した・・・が、僕はタイ料理も海鮮料理も食べられない。もちろん、僕はお金を払わなかったけど、その料理はあまり安いわけでもなかったようだ。タイ人って金持ちなのかも?

水上スキー等を楽しもう・・・と思ったけれども、30分1200バーツを言われ、「いや、やっぱりやめときます」と皆げんなりした表情で水上スキー屋に答えた。

夕方、みんなが飽きてきた頃に部屋に戻った。プゥンはすぐに出かけていった。その後、僕たちは昨日と同じショッピングセンターに行って夕食を食べた。そこは、日本のデパートやスーパーの地下に入っている食堂のようなカンジで、好きな店でそれぞれ買って食べることができる。僕は「すかいらーく」と書いてある店に行ってハンバーグを注文した。米は臭うタイ米だったが、肉は普通だった。これが僕のアパートの近所にあったら毎日通うだろう。値段も35バーツと大変リーズナブルだったから ◎ をあげちゃう!

深夜にプゥンが帰ってきた。パタヤはバンコクと彼女の父の家の中間にあるらしいが、どうやらパタヤは経由しないらしく、彼女は父の家にたどり着けなかったのだとか。明日、バンコクまで戻って再チャレンジ?

2001年11月12日(月)

今日も昼頃に起きた。昼食は日本にもある高級めのファミリーレストランチェーン「シズラー」。それはこのタイでも高級だった。一人あたり200バーツ程度。でも、サラダバーは日本の方が格段に上だった!

パタヤに戻ってくることになっていたプゥンを待つためにショッピングセンターでウインドウショッピングをして時間をつぶしていたところ、途中でプゥンから「父がバンコクまで車で送ってくれることになったからパタヤには戻らない」という内容の電話があった。僕たちはリゾートマンションに戻ってバンコクへ帰る支度をしているときに、エーンはバンコクには戻らないと聞いた。

帰りのバスの中でエーンがバンコクに戻らない理由をプェンから聞いて、どうやら彼女が家出をしているらしいことを知った。

別れ際に、プェンにパスポートを預けた。少し危険かと思ったけれども、アパートのオペレーターに、パスポートを週明けに持って行く旨を約束してしまっていたのだ。明日、彼女が大学に行く前に大学図書館でパスポートのコピーをとって、僕の部屋に届けてくれるらしい。――ちょっと心配。でも、日本のようにあちこちにコピー機がある訳じゃないし、僕はコピー機がある場所を知らないから、この方法が一番確実なのだ。(でも、よくよく考えてみると、明日彼女と一緒に行くってゆうのが一番安全確実のような気がしてきた)

なお、有効期限10年の日本国旅券(パスポート)の闇での相場は40万バーツだとか。

2001年11月13日(火)

今日、アメリカでまた飛行機事故があったらしい。プェンが持ってきたタイ語新聞で知ったのだ。もちろん、その詳細はよくわからなかった。この事件に関心を持った先輩が、日本語新聞が欲しいと言ったので、近所のWTCにある紀伊國屋書店で日本経済新聞を購入!85バーツだった。

帰り道あるバンコクの秋葉原「パンティッププラザ」に寄って先輩の買い物に付き合う。マイクロソフトが怒り出しそうなCDを山ほど買って帰宅。その後、プェンとMBKに行って、これもローレックスが怒り出しそうな時計に「メルセデスベンツ」って書いてある腕時計を交渉の結果、600バーツで購入!これで、時計泥棒なんて怖くない!

2001年11月14日(水)

昨晩以来、左目のコンタクトレンズが行方不明になってしまっていた。朝になったらヒョッコリと出て来るんじゃないかと思って放っておいたのだけど、そんな望みもむなしく左目に走る痛みだけが現実だった。

今朝、僕の部屋に遊びに来た友人とバンコク・クリスチャン病院に行った。彼女が言うには「市立病院は高額だがすぐに診療を受けられる。しかし、公立病院は安いが長時間待たなくてはならない」という。受付で簡単に手続きを済ませて眼科待合室へ。医師の昼休みが終わるのを待っているところに、パタヤから帰ってきたエーンが合流した。・・・彼女は大学に行ってないみたいだけど、単位の方は大丈夫なのだろうか?それとも、日本の大学のようにバイgばかりしていても、いつの間にか卒業できたりして。

眼科の医師は日本語で「上をぉ、向いてくださいぃ」とか言いながら、コンタクトレンズを探してくれたが、返ってきた答えは「ものぉもらいです」の一言だった。コンタクトレンズはどこに行ったのかと聞き返すと、帰ってきた言葉は「ディスアピーアー」。医療費は――保険未加入・目薬代込みで――864バーツだった。どうやら、保険に入った方が良さそうだ。

帰宅後、彼女らと部屋でトランプゲームをやった。そのゲームは麻雀のように金をかけてやるのが一般的らしいけど、今日はお金をかけないで先輩にやり方を教えながら練習――といっても、僕自身ルールがよくわからないけども、時々勝つときがある。いつか、このゲームの遊び方をインターネットで調べてみよう。

2001年11月15日(木)

明日の未明、先輩は日が昇る前に日本に帰国する予定だ。当初予定では、彼は僕と共に21日に帰国する予定だったけれども、彼にとってのバンコク滞在は苦痛そのものだったようで、週末にある高校演劇を見に行くために予定を早めたそうだ。僕としても、毎日不機嫌な人と共に行動するのが精神的に限界に近くなってきていたので、彼の早期帰国を歓迎している。

彼の土産を買うために先輩とプェンと3人でMBKに行ってロレックスの腕時計を購入。1200バーツだった。ちょっと、作りが雑なような気がする、ベルトの部分が思いっきり安っぽかったけれども、その時計にはちゃんと「ROLEX」と書いてある「ロレックスの腕時計」だ。

明日は午前3時に空港に出かける予定。深夜はBTS(高架鉄道)が走っていなくて移動できないという理由から、エーンは僕の部屋に泊まった。

2001年11月16日(金)

午前4時、僕・先輩・それにエーンの3人はドンムゥアン国際空港にいた。プェンは空港で働いている母親と共に登場!すかさず逃げだすエーン!!

――逃亡者エーンは彼女の母親から相談を持ちかけられているプェンの母親から無事逃げ切ることができるのか!?

エーンはプェンの母親が仕事に行った後に戻ってきた。そして、先輩が出国のゲートをくぐるのを見届けた後、僕たちはタクシー乗り場に直行して朝の渋滞に巻き込まれながら車内ぐっすりと眠った。

帰宅後、さらに睡眠は続いた。

午前10時頃、ヤマト運輸に発注していた別送手荷物が到着する。内容は、パソコンとその関連機器、炊飯器、ビデオデッキ、書籍等だ。しかし、パソコンが動かない!!半ば腹を立てながら、冷静な風を装ってヤマト運輸に問い合わせた。原因はおそらくハードディスクの破損だろうということになり、睡眠不足の僕たちはパンティーププラザでハードディスクを購入した。なお、修理に必要な費用はヤマト運輸がかけていた保険によってカバーされるらしい。「自分で修理屋に頼んで修復させてもかまわない」とのこと。決して、修理の面倒までみてくれるわけではないということに、僕は相当腹を立てた。

買ってきた新しいハードディスクを設置するためにパソコンを開いたら、中には部品が散乱していた。特にCPUクーラーのファンを固定する突起部が破損していて修復ができない。僕は勝手に、誰かが輸送中にパソコンを投げたか、飛行機が墜落寸前の勢いで着陸したかのどちらかだろうと決めつけることにした。

今日タイ人から習ったタイ語 :

บริษัทยามาโทไปตายซะ 【ボォリサット・ヤーマートォー・ハイターイサッ】

その後の対応が良かったら、この暴言を撤回することにする☆

2001年11月17日(土)

今日も一日中、パソコンの復旧に追われる羽目になった。昨晩の時点で、故障の原因がハードディスクではなくマザーボードとCPUであることは判明していたのだけれども、それに気づいたのが閉店時間後で買いに行けなかった。今日はそれらを買いに行ったのだ。

しかし、僕はパソコンの故障の原因がマザーボードとCPUだと断定できるほどパソコンには詳しくなかったから、それらを直接パソコンショップに持ち込んだ。――実は、ハードディスクが故障の原因ではないような気がしてきて、昨日買ったハードディスクが完全に無駄な買い物であったような気がしていたのだ。

駄目もとで、僕たちはパソコンショップに持ち込んだマザーボードとCPUが本当に故障の原因なのか調べてもらえないかと依頼したところ、あっさりと引き受けてもらえた!タイのパソコンショップって、けっこう親切!今は、手元に資料がないから書けないけれども、後で探してここにショップの名前を書きたいと思う。

やはり、故障の原因はマザーボードとCPUだった。マザーボードとCPUを購入して、さらにその部品を取り付けてもらった!――本当に親切だ!!なお、パソコン部品の相場は日本と同じくらいだった。

家に戻り、僕はパソコンの修理に取りかかった。まだ、マザーボードとほかの部品が合体していないのだ。エーンは彼女の友達の家に泊まると言って帰宅した。彼女はパタヤ旅行以来、依然家出中。当初、簡単に終わると思っていたパソコンの修理は深夜になっても終わらなかった。マザーボードと電源制御やパソコンケースについているRED(発光ダイオード)とを接続する部分がどこなのかわからなかったのだ。

結局、英語に強いプェンに英文の説明書を読んでもらって解決!・・・でも、すでに彼女の終バスはなくなってしまっていたから、今日も彼女の家までタクシーでお見送り。それにしても、ここまでの労力を費やさせる原因になったヤマト運輸の海外別送サービスには本当に幻滅した。相当むかついている!そもそも、この発展途上国の英語が通じない国で、パソコンの部品を自分で買ってきて購入しろと言う時点で、かなりめちゃくちゃ負担を強いているのではないかと思う。

ここが日本だったら、電話越しに怒鳴りつけても許されるレベルではないだろうか。

昨日の日記にあるタイ語だが、社名の後に「死んじまえ!」という意味のタイ語が続く。

2001年11月18日(日)

バンコクにも遊園地がある。経営学的見地からは、これだけの人口を抱える都市に遊園地がないはずがないという。遊園地の存立は後背人口の大小に左右されるのだそうだ。バブル崩壊後の日本において、3大都市圏からはずれた立地にある遊園地が次々と閉鎖に追い込まれたのもこの理論から説明できるだろうと、大学時代に教授から教わった。

睡眠が足りない。とても眠い。今日は、いつもの友人プェンとエーン、そして日本文化――特にポップミュージック――マニアのシェーンと一緒に、バンコク郊外のドリームランドという遊園地に行って来た。そこは日本にある遊園地と比較しても、特に遜色がない程度の規模と設備を有しているバンコク最大の遊園地だ。・・・ディズニーランドは例外だけれども、日本にあるほかの遊園地なんて、たかがしれている。

シェーンは車で僕のアパートまで来た。ドリームランドはバンコクの中心地――すなわち、僕のアパートがあるところ――からだいぶ離れたところにあって、バスで行くにはかなり骨が折れる。そこまで車で移動できると知ったときは、メチャメチャはしゃいでみた!マジでうれしかった。

バンコク・ドンムゥアン空港の先にその遊園地はあった。このあたりはもうだいぶ田舎だが大型ショッピングセンターがいくつかある。車を駐車場に停めて、チケット売り場へ。園内の掲示には英語ばかりでなく、必ず中国語が併記してある。駐車場にも、いかにも中国人向けだというカンジの観光バスが何台も停まっていたけれども、中国人は遊園地が好きなのだろうか。そういえば、以前香港に行ったときに見た旅行代理店には、壁いっぱいに東京ディズニーランドのポスターが貼ってあったっけ。

しかし、この表記がなかなかのくせ者だ。あまりにビックリして、写真まで撮ってきてしまった!これが世に言う二重価格というものである。英語では入園料(それぞれの乗り物に一度ずつ乗れるチケット付き)が450バーツと書かれているのに、タイ語表記の方では290バーツと書かれている。友人に説明を求めたところ「あれは『外国人価格』だ」と言っていた。僕は、きちんとタイ人向け正規価格で入園した。

日本の遊園地の印象というのは、待ち時間が長くて、アトラクションに乗っている時間は短いというものだろう。そして、乗り終わった後は「もう終わっちゃったの?」ってカンジだけど、さすがは「アメージング・タイランド(タイ政府官公庁が提唱するタイ旅行推進キャンペーンのスローガン)」。遊園地も、もちろんアメージングだった!乗り物に乗っても、なかなか終わらない。気持ちが悪くなってきたからそろそろ終わって欲しいという、日本だったらとっくに終わってそうな時から、さらに時間が2倍も3倍も経過してからやっと終了する。そして、待ち時間なしで次のアトラクションへ。さらに、あらゆる公的基準が緩やかなタイらしく、安全面での懸念が大きいアトラクションばかりで超ハードだ。たとえば、上の写真の「バンバン・カー」というアトラクションでは、この密度の中で、普通にゴーカートが走る速度で車同士をぶつけ合う!!日本だったら、アトラクション終了後に殴り合いのけんかが起こりかねないコンセプトである上に、ちょっと油断したら衝突の衝撃でむち打ちになりそうだ。さらに、カート後部から伸びているパンタグラフは――アトラクション待ちの列から容易に手が届く位置にある――電流が流れている天井から電源を供給している。・・・唖然とした。

アトラクションを13個程度乗り終えた2時間後には、もうぐったり。アトラクション施設の壁により掛かりながら30分も座って寝むり込んでしまった。もう、なりふり構っていられないくらい眠かったのだ。

サービス満点!メチャメチャ楽しい!!そして、マラソンのようにキツい遊園地だった。

そして、夕方の地獄の帰宅ラッシュにはまりながら帰宅。

そうそう、帰りにドリームランド近くのシェーンが両親から買い与えられた家に寄った。日本の一般的な家屋よりも豪華な建物にビックリ。みんな、僕より金持ちかもしれない。

今晩、エーンは僕の部屋に泊まった。いま、彼女は僕のベッドの隣にあるシングルベッドでぐっすりと寝ている。もちろん、彼女とは正しい友達関係を続けている。

2001年11月19日(月)

バンコクでは売春が盛んだ。田舎の農家出身から、大学在学中の売春婦まで1,500バーツで選り取りみどり。また、普通に酒を飲む値段だけで見物できる裸踊りのバーや、売春目的の者が集うバーやディスコが各所にある。

昼間、遊びに来たプェンにさんざん体中をくすぐられた後――タイ語では「チャカチィイ」というらしい――、知り合いの日本人と共に飲みに行った。今回の飲みは僕の歓迎会だっていうことになっている。ありがたい。タイ語が話せて、女の子と飲めるペッブリー通り沿いにある売春婦が集うバーへ行くということに決定!どうせ、どこで飲んでも費用はおなじだ!

さんざんくすぐられた後だった僕は疲れていたせいか、バーでぐっすり寝てしまった。その間に、何ヶ月もタイ語を勉強している友人たちが、いつの間にか30歳前後の売春婦と意気投合。僕が起きた頃には、すでに彼女の家にプレイステーションをしに行くということで話を付けていたらしい。

その後、彼女のおごりで彼女の部屋でビールを飲んだけれども、味に違和感を感じて誰も飲まなかった・・・けど、もともと、ハイネケンビールってああゆう味だったのかもしれない。僕の部屋で友達が待っているからと言って、僕だけ午前4時頃にタクシーで帰宅。

そうそう、家出人は居候人になりつつある。

2001年11月20日(火)

バンコクに来て、後1日で2週間が経つけれども、いまだ自分の時間を持てずにいる。友達に恵まれて退屈しないのはいいことだが、自分の時間が全くないというのも困りものだ。

アパートからでもインターネットはできる。しかし、電話回線がアパートの所有物で、外線電話をかけるときにはアパートが定めた電話料金を払わなくてはならない。この電話は内線通話もできるため、オペレーターやアパート付属の食堂、クリーニング店に電話ができて便利だが、外線通話料がとても割高なのは不満だ。通常、タイの市内電話は1通話あたり3バーツで時間無制限だ。しかし、アパートの電話を使うと1通話あたり5バーツもかかるうえ、35分おきに強制的に切断される。さらに、相手が話し中でも課金されてしまう。インターネット整備が遅れているタイでは、いまだプロバイダがビジー(お話中)であることがほとんどで、特に夕方などは5回かけてもつながる確率は五分五分だろう。

そこで、電話会社と直接契約して、この部屋に電話線を新たに引き込むことにした。それが可能であることは、すでに同じアパートに1年近く住んでいる日本人から情報をゲットしてある。――しかし、彼はまだ電話会社と契約しておらず、オペレーターに可能かどうかを問い合わせただけだそうだ。僕ほうの様子を見てから、電話線を引くかどうか決めるのだとか。

夕方頃、エーンとMBK内にある「テレコム・エイジア」の営業店舗に行って、住所を記入した申込書とパスポートを提出。電話番号を適当に選んで、料金2,918バーツを支払った。今月の27日の開通予定だ。21日に、日本に留学ビザを取得するために帰らなくてはならないから、アパートのオペレーターに工事の管理を依頼しよう。2,918バーツのほか、管理の依頼とは無関係に、アパートには保証金1,000バーツを支払わなくてはならない。

帰りに、MBK内にある「Fuji ~Japanese Restaurant」で食事を注文しようとしたときに、カレーに使う米がタイ米であることを知った。日本米は寿司にしか出さないのだとか。仕方なくそばを食べて店を出た後、エーンに「タイ米で日本料理が作れるものかっ!あの店には日本料理なんてない。あれは高額なタイ料理。ジャパニーズレストランなんて大嘘だ!」と、ぼやいてしまった。タイに来て以来、あまり日本食を食べる機会がなかったから、とても楽しみにしていただけに、大人げないことで怒ってしまった。反省。

さらに、腹いせにMBKに併設されている東急デパートのスーパーマーケットで2kg40バーツの日本米と1個36バーツの納豆を購入!明日の朝の日本食が楽しみだ!ふっふっふ。

――みそ汁を買い忘れたっ!!

2001年11月21日(水)

BTSサヤーム駅から通路が直結しているサヤームセンターの2階にある、日本風料理店チェーン「8番ラーメン」でいつもの友人たちと昼食をとった。この店は、タイ人が日本風料理を楽しむための店といった印象だ。ちなみに、ラーメンの値段は55バーツ程度だったと思う。チャーハンにはタイ米を使っていて、日本米はないとか。

食後、WTC内の紀伊國屋書店でタイ文字四十四音「コーカイ」表ポスターを買いに行ったけれども、僕が欲しいものはなかった。下階に住んでいる日本人が持っている「子音字3分類」を色分けしてある便利そうなものを早く手に入れたい。

僕たちは、コーカイポスターをあきらめて、バンコク・バス路線図を買って帰宅。これで、バスを乗り回せるようになるだろう。バンコクでタクシーに乗っても、日本の公共交通機関を使うのと同じような運賃だが、やはり節約を心がけたい。ちなみに、僕のアパートからスクンウィット・ソイ21(ソイ・アソーク)にある日本大使館までの約7キロメートル(所要時間30分程度)のバス運賃が5バーツ(約13円)。タクシーを使った場合の55バーツ(約148円)と比べて約9%だ。91%OFF!!

夕方まで、三人でまったりしているところに、エーンがドカドカと帰ってきた。相当荒れている様子だ。荷物を――ほかの二人には秘密にしている――彼女に割り当てられているベッドへ放り投げ、突然、買い物袋のに入っているハイネケンビール(350ml缶、38バーツ)を勧めてきた。僕たちは、まだ外が明るいというのに、半ば強制的にこのビールを飲まされた。エーンは・・・もう「キレてる」としか形容のしようがない様子で、ウインドウズXPについている3Dピンボールをしている。僕とシェーン、そしてプェンは彼女に何かあったに違いないというカンジで顔を見合わせ、互いに了解したといったようなジェスチャーをで意思を確認し合った。僕たちは、彼女には特に何も聞かず、彼女の行動を観察していた。

しばらく経って、僕はプェンを廊下に連れだし、彼女の背景事情について訪ねた。プェンが言うには、「エーンの母親は彼女が小さい頃に家出し、父は数年前に交通事故で死亡した。その後、彼女は養子としてバンコク郊外にあるタイ人の家庭に引き取られたが、彼女の義父母や義兄弟たちが彼女に嫌がらせを加えている。彼女はそのような環境を嫌って家出をしているらしい。どうやら、パタヤ旅行以来、家に帰っていないようだ。私もそれ以上のことは詳しく聞かされていない」ということだった。

プェンとシェーンが、キレている上に泥酔しているエーンを、忍耐強く30分くらいかけて寝かせつけた。そして、「今日はエーンを泊めてあげて」といって、二人は帰宅した。

2001年11月22日(木)

旅先で人を見たら泥棒と思え、という警句がある。僕の部屋には何人もの友達が出入りしているし、僕の荷物の管理があまりにもいい加減なこともあって、盗難がとても心配だ。それに、いつも財布の中に大金を入れていては、僕の所持金がばれてしまう。僕の、「安いの大好き、ケチで金銭的支援を全く期待できない貧乏日本人」ということで定着させようとしているキャラクターが危機にさらされるのだ。

そこで、銀行口座を開設することに決めた。インターネット上で、旅行者の銀行口座は開設できないとか、支店によっては開設できるとかと情報が錯綜しているようだが、実際に銀行に行けば判るだろうと思って、都内シーロム通りにあるバンコク銀行本店へ。

偶然、銀行のコンピュータシステムに障害があったらしく、僕たちが銀行に着いた午後二時頃には業務が完全に麻痺していた。約1時間ほど待たされた後に、口座開設カウンターへ。今日も行動を共にしているいつもの3人の強力な通訳のもと、5分程度で通帳とキャッシュカードが発行された。キャッシュカードには氏名は刻まれていない。いかにも簡単な作りのカードだ。とりあえず、手持ちの5,000バーツを新規で預金した。

その後、プェンはシーロム通りからバスで帰宅。エーンは、僕の部屋に住んでいることをカモフラージュするために、一足早くBTSで僕のアパートへ。シェーンと僕はタニヤの日本で放映されているTV番組を録画して貸し出しているビデオレンタル店へ。シェーンは、数本の歌番組のビデオを借りて帰宅した。僕もBTSで帰宅。

今晩、エーンに彼女自身の家出について訪ねてみた。すると、彼女は「先日、義理の両親に会ってきた。4,000バーツを渡され縁を切られた」と告白した。また、家出に強烈な反対をしていた彼氏からフラれたのだとか。4,000バーツしかないということは、近々、彼女はアルバイトに行かなくてはならなくなるだろう。セブンイレブンの時給は23バーツ。日本円で約62円。僕は絶対にタイのセブンイレブンでバイトしたくない。

彼女に、この部屋にいてもよいと言った。いい人だし、タイ人と生活していれば、自然とタイ語が身に付くだろう。盗難対策のために、彼女の身分証明カードのコピーをもらっておいたが、本当に大丈夫かどうかは甚だ心配だ。身よりのないタイ人を、高価な私物でいっぱいの自室に住まわせてしまうなんて。

人を見たら泥棒と思え。

――俺は相当なバカなのかもしれない。

2001年11月23日(金)

ノン・ビザではタイに30日間しか滞在できない。毎月、入国管理局に通い、3ヶ月に一度、出国を強制されるのは面倒だから、帰国して留学ビザを取得する。ライト・インフォ・サービス(studyinthailand.com)に依頼していた、留学ビザ取得に必要な書類はすでに整っている。

いつもの3人に、シェーンの車で空港まで送ってもらい、香港経由のキャセイパシフィックの便で帰国した。長い道のりだった。

2001年11月29日(木)

24 大学時代のゼミのメンツで飲み会

25 飲み会の帰りに高校時代の友人宅で飲むが、体調を壊し日の出前に帰宅

26 目黒にあるタイ王国大使館へ。大学の入学許可証などを提出してビザを申請して大学時代の友達の家に宿泊

27 タイ大使館へ。ビザをゲット。ヤマト運輸に破壊されたCDRを買いに秋葉原

28 高校時代の友達と会う。シェーンに頼まれた日本製中古CD・イヤホン購入

29 大学時代の友達が会社帰りに実家に宿泊

2001年11月30日(金)

留学を決めてから、友達が空港に送り迎えに来てくれるということが多くなった。今まで、海外旅行へは数十回も行っているが、友達が空港に来てくれるということはなかった。想像していたよりも相当にうれしいものがある!

昨晩、会社帰りに日本の僕の実家に泊まりに来た、大学以来の友人マコト君が、成田空港まで送りに来てくれた。フレックスタイム制や残業貯蓄制など、コンピュータ関連企業特有の制度を駆使して、半ば無理して来てくれたのだ。彼とは空港内でコーヒーを飲んだ後、慌ただしく別れた。京成電鉄のエアライン特急に一本乗り遅れた関係で、時間がぎりぎりだったのだ。

午前9時35分に成田空港を出発したキャセイパシフィック便は、正午過ぎに香港空港に到着。公衆電話からプェンに電話してみたところ、エーンとMBKにいるとか。余った時間をフルに活用して、僕は時間が許す限りタバコを吸い続けた。機内ではタバコが吸えないから吸い溜めしておくのだ!ごく一部の例外を除くほとんどの空港会社の国際線は、嫌煙者の権利を考慮するという名目のもと、数年前に全席禁煙になった。実際には換気扇の出力を落とすことによって、換気と暖房に必要な燃料消費をを軽減するというのが本来の目的らしい。――しかし、長時間に及ぶ強制的な禁煙は愛煙家の人権を全く無視しているとは考えないのだろうか。限りなく、人権侵害に近い。もしかしたら、喫煙者には人権そのものが認められていないのかもしれない。

午後4時過ぎにバンコク・ドンムゥアン空港に到着。プェンとエーンの二人が迎えに来てくれていた。シェーンは欠席できない授業があるため来られなかったらしい。僕たちは、夕方の学生帰宅ラッシュに巻き込まれながら、のんびりと家路についた。

久しぶりのアパート。なくなっている物は一つもなかった。よかった。

バンコク留学生日記に登場する名所をバンコク中心地に限ってご紹介します。




タイ王国 - ประเทศไทย
西暦12世紀頃まで、タイ人は現在の四川省・雲南省付近に複数の小国家を築いていたが、モンゴル人による軍事的圧迫を受け、現在のタイに南下してきたといわれている。西暦1257年、タイ民族による初めての独立国家「スコータイ朝」が異民族を駆逐したふたりの地方領主によって成立した。西暦1350年、地方領主のウートーン(ラーマティボディー1世)がスコータイ朝を滅ぼし、交易国家として繁栄したアユッタヤー朝を建設。西暦1767年、タークシン王がミャンマーのコンバウン朝により破壊されたアユッタヤーを奪還し、トンブリー朝を建設。この王朝は現在のタイ全域のほか、チェンマイやラオスまでもを領有した。西暦1782年、廷臣のジャックリー(ラーマ1世)が反逆し、現在のバンコクを都とするジャックリー朝(ラッタナコーシン朝)を成立させた。1939年には国号を「シャム(サヤーム)」から「タイ」に変更。ついに、タイは東南アジア諸国で唯一、欧州の植民地となることはなかった。1932年の無血革命により、絶対王政から立憲君主制へ移行。第2次世界大戦時には軍事政権の下で、日本とは同盟国の関係にあった。
 
タイ国歌 - เพลงชาติไทย
คำร้อง : พันเอกหลวงสารานุประพันธ์ (นวล ปาจิณพยัคฆ์)
作詞: ルワング・サーラーヌプラパン陸軍大佐 (ヌワン・パーヂンパヤック)
ทำนอง : พระเจนดุริยางค์ (ปิติ วาทยะกร)
作曲: プラヂェーンドゥリヤーング (ピティ・ワータヤゴーン)
ประเทศไทย รวมเลือดเนื้อ
タイ国は 子々孫々の統一体
ชาติเชื้อไทย เป็นประชารัฐ
タイ族*の国は 祖国一致主義国家**
 ไผทของไทยทุกส่วน อยู่ดำรงคงไว้ได้ทั้งมวล
 タイ各地の全領域は 完全に相続できるであろう
ด้วยไทยล้วนหมาย รักสามัคคี
タイ全国津々浦々 皆が団結を愛することで
ไทยนี้รักสงบ แต่ถึงรบไม่ขลาด
タイは平和を愛するが 戦いに至れば恐れはしない
เอกราชจะไม่ให้ใครข่มขี่
独立は何者にも脅かさせない
สละเลือดทุกหยาดเป็น ชาติ พลี
血滴のすべてを投げ打って 国家へと捧げる
เถลิง ประเทศ ชาติไทย ทวี มีชัย ชโย
偉大なる祖国 タイに勝利と栄光あれ 万歳

* 民族学上のタイ族のことではなく、タイ国籍を持つすべての国民のこと
**  公的部門と民間部門と国民の三者が力を合わせ、種々の問題解決にあたる国家のこと
 


→国王賛歌関連記事(留学生日記2546年12月7日付 )
 
地理

国土 合計

514,000km2

土地 511,770km2
2,230km2
国境線の長さ